2007年6月18日月曜日

「本当の自分さがし」という夢

「勤労は美徳である。
ただし,勤労を通じて自己実現欲求が満たされる場合に限って」


と書いてみたのだけど,今度は自己実現欲求について少し考えてみた。

私が大嫌いな言葉のひとつに,
「本当の自分」
というものがある。

今の不幸は,今の自分が「本当の自分」ではないからであって,
「本当の自分」が実現できたときに幸せを手に入れることができる,
という話である。

私はそもそも,この「本当の自分」というものがまやかしである,
自己逃避・現実逃避の表れである,といいたい。

だいたいここで話に出てくる「本当の自分」とは,
その人が勝手に描いた自分の理想像であることが多い。
単に自分の性格の嫌なところの裏返しとしてイメージされる人物像が
「本当の自分」なのである。

それなのに,現在の不満は「本当の自分」ではないからなのだと,
まるで自分の他に原因があるような論で話を進めている。

あるいは「自分は特別」,「自分は本当はもっと素晴らしい」などと,
妄想である自分の理想像を夢見ている。
哀れに思う。時には滑稽にも思える。

もっと現実を直視してみたら,と思う。
いつまでも「本当の自分」という妄想を追い,
現在の不幸の理由を別に求め,
今本当に必要な努力をしないのは
もうやめたらよいのに,と思うのである。

本当の自分に対峙するのは,実際つらいことである。
それが嫌で,一生懸命に努力しないという人もいる。
一生懸命努力してだめだった時に,
自分に才能がない,と知るのがつらいからだ。
自分が何者かではない,特別ではないことを知るのは本当につらい。
しかし,そこからしか始まらない本当の修行がある。
夢から覚める必要があるのだ。

最近,小説「腑抜けども,悲しみの愛を見せろ」(本谷有希子)を読んだ。
(いや,なかなかギラギラした小説で,面白かった)
内容は,だいたい次の通り。

過疎がすすむ,しみったれた田舎に,
両親の交通事故をきっかけに,
東京から女優志望の姉が帰ってくる。
姉は「自分は特別だ」と思いこんでいる人間で,
妹や兄はそれに振り回されてきた。
そして,姉の帰省を始まりとして,
彼らは「本当の自分」に対峙しなければならなくなる。

この中で,最後に「自分が特別でない」ということを
悟り,絶望してしまった姉は何をしたか。
…世を呪うのである。
それほど自分と対峙するのはつらい。

でも,繰り返すけれど,
それからしか始まらないことがある。
まずは等身大の自分を見つめなおすこと。

「脚下照顧」
(決して履物を揃えろという意味ではない)

そこで初めて自分に足りないものを補うための努力が始まるのだ。
それこそ本当の自己実現なのではないか。
いいかげん,「本当の自分探し」という夢から覚めるべきなのだ。

大学生という年頃は,
現実に直面しはじめなければならない
そうした時期でもある。

(と書いてみて,私も相変わらずガキなのだと恥じるのだけれど)

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