2007年6月27日水曜日

失われた信頼は

人生が選択の連続であるという話のつづき。

選択には責任が伴う。
子供であれば,その責任はある程度まぬがれることができる。
その選択が,たとえば自己中心的なものであっても,
子供だということで周囲は許してくれる。

以前,ヤンキー先生のテレビ番組で,
その高校へ通う女子高校生が考えを聞かれて

「間違っても許してくれそうだからいい」

という主旨の発言をしていた。
はじめから間違えることを前提に,
そして,それが許されることを期待している,
という態度に,実は私は腹を立てたのだが,
まぁ,高校生というのはまだ子供として
社会に認められる時期である。
そうした教育(しつけ)を受けてきたのかと
悲しみはしたが,大目に見るべきなのだろうと,
そのときは思った。
(まぁ,私が腹を立てたからといって
どうなるわけでもありません。
ただ自分で納得するかどうかだけの問題です)

しかし,大人の社会はそうはいかない。
社会は,自分の過失については責任を取らなくてはならない。
たとえそれが自分が意図しないものであっても。

そしてたとえ自分が一生懸命努力していたとしても
失敗したら許されないことがある。
社会は厳しいのである。

いわんや,結果がどういうことになるかわかっていた上での
選択については,すべからく責任を取るべきである。
大学生は当然その責任を取るべき立場にある。
もう子供ではない。

(もちろん,一生懸命やった上での失敗や
うっかりとしたミスなどは,大学という教育の場では
大目に見るべきであると思ってはいるが)

自分が行った選択によって,引き起こされた結果については
責任をとらなければならない。
このことは人の信頼関係において特に重大である。

たとえば,ある行為によって人の信頼を裏切ったとする。
そうなることが当然予想されていたにも関わらず,
そのような選択をしたのであれば,
その責任は取らなければならない。

一度失われた信頼は,二度と取り戻せない。
タンパク質が変性してしまうように,
二度と同じようには戻らない。
覆水盆に返らず。
そうなったら,新たな信頼関係を長い時間をかけて
構築しなおすしかないのだ。
その結果を甘んじて受けなければならない。

社会は信頼関係で成り立っている。
甘えは許されない。
大学生もすでに大人と認められたこの社会の一員なのである。
もう大目に見てくれる人はいないのだ。
このことを肝に銘じて行動してほしいと思う。

(自分を一番信頼し,大目に見てくれる人は親であろう。
しかし,学生たちはその親の最も温かい信頼を
裏切ってはいないだろうか)

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