助教のK先生と話す.
大学の講義もインターネットで
公開するところも増えてきて,
また茂木健一郎氏がいうように,
現在は大学に行かなければ,
論文が読めないという時代ではない.
インターネットさえあれば,
世界の各国の最新の研究成果を
論文で読むことができる.
したがって,放送大学のように,
大学の教授の講義をYouTubeにでも流せば,
それを見ることによって世界中の人が
学習の機会を得ることができるようになる.
それは大変素晴らしいことだ.
かくいう私も他の大学の講義をインターネットで
たまに視聴することがある.
例えばMIT.
電気回路の第一回目の講義のテーマが,
なんと集中回路定数だった.
電気回路で記号で表される
抵抗やインダクタンス,キャパシタンスというのは
あくまでも理想でしかないことを
最初にみっちりと講義するのである.
さすがMITと,思わず私も唸ってしまった.
このように他大学の講義を聞くのは,
教員にとっても刺激になるものだ.
(大阪大学でその講義をしようとは思わないが)
YouTubeでは,大学の講義の専門チャンネルも
できたそうで,私も時間があれば英語の勉強も兼ねて
今後も観ていきたいものである.
しかし,このような状況になってくると
大学に入学して勉強する意味を
もう一度見直さなければならない.
YouTubeで見る講義の方が,
大学で受ける講義よりも面白いということだって,
往々にあり得るのである.
大学に行く必要がないではないか,
ということになる.
(まぁ,理工学,医薬系は学校での
実験や実習が重要になるので,
それだけでも大学に入学する必要はあるのだけれど)
こうした話は昔からあって,
バックミンスター・フラー
(C60の構造をフラーレンと呼ぶようになった
理由の人)なんて,
講義なんて教授がやる必要がなく,
教えるのがうまい人,あるいは
役者にやらせるべきだとまで言っている.
講義内容だけ,教授や専門家がしっかりと
構成すれば良いのだ.
これも一理ある,と私は思う.
こうしたことが実現できれば,
世界中の人々に学習の機会が
今よりもずっと与えられることになるだろうし,
わかりやすい講義によって,
より多くの人の理解が深められることになるかもしれない.
しかし,それでも大学に来て
講義を受ける意味というものはあるはずだと私は思っている.
それは,クラシック音楽(に限らないけれど)のCDを
いくら聴いても,生のコンサートの魅力には録音は
敵わないことによく似ている.
結局のところ,講義はライブなのだ.
音楽のコンサートでは,
演奏者と聴衆が一体となることによって,
記憶に残る素晴らしいライブに昇華する.
演奏者と聴衆が一緒にそのライブを作り上げるのだ.
大学の講義もそうであるのだと私は思う.
いくら眠そうにしていても,講義に出席してきた学生と
教員との相互作用というものは存在して,
その相互作用のために,その講義が一回きりのものに
(「素晴らしい」とまでは言わないけれど,
少しは記憶に残るものに)なるのである.
この醍醐味がなければ,
私自身も講義をするモチベーションが
かなり低下するだろうと思う.
学生もそのライブ感,もっというとグルーブ感に
魅力を覚えて講義に出席しているというのだと,
大変うれしいのだけれど.
だから私は(たとえ朝一番の講義であろうとも)出席を
とるようなことはしない.
私の講義を聞こうと思ってくれる学生が
来てくれればいいと思っている.
そして,そうした学生が少しでも多くなるように,
私も魅力的な講義をしようと努力しているのである.
インターネット大学は今後も
どんどん発展していくべきとは思うけれど,
それに負けぬように,ライブの大学の講義も
魅力的なものにしていかなければならないと思う.
そしてそれは,インターネットで流される
世界中の大学講義との戦いであり,
出席点さえなければ講義を欠席しようとする
学生たちとの厳しい戦いなのである.
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