2009年12月8日火曜日

レイモンド・カーヴァーの小説とブルックナー交響曲第9番

週末に少しレイモンド・カーヴァーの小説を読むことができた.
素敵な小説を読む時間を持つことは,
なによりもほっとする休息となる.

「大聖堂」(レイモンド・カーヴァー著,村上春樹訳)

あいかわらず少し読みはじめるだけで,
その世界にすぐに没入することができる.
そこにあるのは,深い絶望と
損なわれて決して回復することのない男女の関係への諦念である.

こんなつらい小説だというのに
どうして私はここまでこの作者に惹かれるのだろうかと,
我ながら不思議に思うくらい大好きになってしまった.
私もこの歳になり,人生のいくつかのことを
(知りたくもないのに)知ってしまったからかもしれない.

この「大聖堂」という短編集は,訳者の村上氏曰く,
カーヴァーの一番脂ののった頃に出版されたというだけあって,
魅力的な作品が満載である.
そしてどの作品も,人の心の闇を描いて秀逸である.

しかし,この短編集にはどの作品にも絶望や諦念の先に
なにか暖かいものが感じられる.
ユーモアというか,温かいまなざしというか.

たとえば「ささやかだけれど,役に立つこと」という作品は,
子供を亡くした若い夫婦と,人生に絶望したパン屋の
物語で,もう究極的に救われない話なのだけれど,
それでも最後に,希望の光がほんの少しだけ
さし込むような雰囲気で終わっている.
私は,この物語を読んだ後,深くため息をつかずにいられなかった.

あるいは「ぼくが電話をかけている場所」という作品は
カーヴァーの小説によく出てくるアルコール中毒者が題材で,
療養所における風景を綴ったものだけれど,
療養所の仲間の煙突掃除屋の家族の話が秀逸で,
テーマが暗いにもかかわらず,温かい読後感を得ることができる.

う~ん,こうして説明していくと,収録された全部の作品について
触れなくてはならなくなるので,この辺でやめとこう.
しかし,この短編集にはこれまで読んだ作品とは異なり,
私はすこしぬくもりを感じている.
それがこの作品を忘れ難いものにしている.

この短編集を読んでいると,ブルックナーの交響曲第9番の
第3楽章が思い出された.
ブルックナーの第9番交響曲は,とにかく厳しい音楽で,
一度聴けば,「もう結構」と思うような作品である.
第3楽章の緩徐楽章はそのなかでも
特に厳しいように私は思う.

しかし,この楽章の本当に,本当に最後のところで,
(月並みな表現だけれど)雲間からそっと光がさすように
救いの旋律が現れるのだ.
それが聞こえてくるときに訪れるカタルシスは,
長時間じっと曲を聴いていたものにしか分からない.
このほのかなぬくもりこそが,カーヴァーの作品から
この曲を連想した理由なのだろう.

ブルックナーの第9番交響曲は,
この第3楽章を最後に未完となっている.
この曲の続きなんてきっと書けやしなかったのだろう.

人生も長くなると,人は諦念に行きつく.
しかし,それでも人は少しのぬくもりを切望する.
カーヴァーの小説然り,ブルックナーの交響曲然りである.
そして私はそれらに心を動かされるのである.



#実は,「大聖堂」,最後の収録作品「大聖堂」だけ
未読なのである.
図書館の貸し出し期限が来てしまったのだ.
今度あらためて借りるのがいまから楽しみで仕方がない.

#ブルックナーの第9交響曲は,10枚くらい多分
所有していたと思うけれど,今度聴きたいと思っているのは

カルロ・マリア・ジュリーニ,ウィーンフィルの録音(1998).

とにかく音が厚い演奏である.
私が初めてこの曲を聴いたのは,このCDだった.

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