世間がつまづいた人たちを苛烈に叩くことの異常性が最近ようやくあちらこちらで議論され始めているけれど,「正論」には反論が難しいし,炎上させている人たちは自分たちの「正義」に従って人を叩いているので,手加減をしないのだ.ブレーキがかからない.だから苛烈な責めを平気で行ってしまうのだ.
「正義」をふりかざす人はタチが悪い.「正義」なんて時代が変われば簡単に覆ってしまうものだし.「正義」の気分は容易に人々の間に広まってしまうもののようだ.でも,「法」よりも「正義(感情)」が優先する国の,息が詰まるような状況をみるにつけ,あんなところには住みたくないとつくづく思う.
しかし,私も苛烈に人を責めてしまうところがある.人のことは言えないのだ.ネットで行われるように匿名で行うことは私の美学に反するのでしないけれど,面とむかってだったら,腹が立つと正論をふりかざして絶対に論破されないように人を責めることがあった.本当に反省している.
私が憧れる人物のひとりは池波正太郎「剣客商売」の主人公 秋山小兵衛である.歴史上の人物で言えば勝海舟.海外小説でいえば,フィリップ・マーロウ.つまりは,清濁併せ呑むような度量の広さをもつ人間に憧れるのだ.人は自分に足りないところをもつ人に憧れる,というのは本当なのだろう.
清濁どちらもあるから人間なのだ.「清」だけの人間なんてどこにもいないのではないか.
キリストは,姦淫の女を責めようとする者たちに「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言った.松平定信の寛政の改革だって「水清ければ魚棲まず」,やりすぎて庶民に嫌われた.なにごともほどほどが大切なのだ.人間は聖人ではない.
銀河鉄道999の「ざんげの国」のエピソードは,次の至言によって締めくくられている.
「もし聖人ばかりの世界があるとしたら,そこはたぶん地獄と言う名で呼ばれるだろう」
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