2023年8月27日日曜日

転職の魔王様の成田凌の魅力

 今期のTVドラマで「転職の魔王様」を観ている。主演は,小芝風花と成田凌。他にも,石田ゆり子,山口紗弥加などが出演していて,彼らが務める転職エイジェンシーの話。毎回依頼者に関わるヒューマンドラマに加え,エージェントとしての小芝風花の成長物語にもなっている

小芝風花の魅力はこのブログでも過去に取り上げていて,このドラマでもそれに間違いないのだけれど,今回は成田凌の魅力について。

今回のドラマでは,成田凌演じる,事故で片足が不自由になった転職エージェントの「清潔さ」が特に印象に残る。なぜそう思うかというと,その役柄が,番組宣伝のために情報番組やバラエティに出演している彼の印象とは大きく違うように思えるからである。どうも彼は,もっとだらしない,というか,ちゃらい,というか,それでいて憂いをもつようなろくでなし,それらが混じり合って魅力になっている俳優だと思っているのである。だから,NHK朝ドラ「おちょやん」で演じた,浮気をし主人公(杉咲花)を苦しめるようなどうしようもない男である旦那役がぴったりだと思っていたのである。そしてその期待通りの素晴らしい演技だった。

その彼が今回演じる小芝の先輩エージェントは,静かで,思慮深く,清潔感をもち,頼りがいがある男である。それが他の番組の彼を忘れさせるほど,素晴らしいのだ。いや,これが俳優というものなのだろう。彼の演技の振り幅にあらためて感心してしまう。

私としては,もっとピカレスクロマンのような,あるいは女をたらしこむような不道徳な役を彼に期待してしまうのだけれど,今後も変わらず清濁併せ呑む幅広い役に挑戦して欲しい。成田凌はその度に,「今度はどんな演技をするのだろう」と期待させてくれる,素晴らしい役者なのである。

2023年8月26日土曜日

最近,虹をよくみる

 この1年,明らかに虹を見ることが多くなった。街を歩いているとき,車を運転しているとき,ふと空を見ると虹を見つける。虹はあいかわらず美しいから,見つけたときは「おっ,虹だ」と口に出してうれしくなってしまう。そして,今日は運がいいかも,なんて思ってしまう。

先日などは運転中に,非常にはっきりとした虹を見た。はっきりすぎて「見つける」必要もない。それほど「完璧な」虹だった。半円を描く虹の脚がどこに降りているかもはっきりとわかるほどで,その場所にそのまま車を向かわせたいぐらいだった(もちろん,近くに行けば見えなくなるのだけど)。

新潟市万代橋から見つけた虹。わかりにくいけれど奥に写っている。

虹の出現頻度がこの1年で高くなったとは考えにくいから,私が虹を見つける頻度が高くなったのだろう。そして虹を見つける回数が増えたということは,私が「昼」に,「空を見上げる」頻度が高くなっているということなのだと思われる。(いや実際に,にわか雨,ゲリラ雨が増えたので本当に虹の出現頻度が高くなっているのかもしれないけど)

私のスケジュール的に,昼間,明るいうちに外出することが多くなっているのだろうか...あまりそんな感じはしないのだけれど,まぁ週末などに見つけることが多い気もする。

二重の虹。新潟大学近くにて。

一方,「空を見上げる」頻度はどうだろう。以前と比べても変わらないような気がするけれど,空を見上げる心の余裕ができたから,と言えたらどんなに幸せだろう。でも実際は,つらいから空を見上げる回数が増えているのかもしれない...

アニメ「トム・ソーヤーの冒険」のオープニングの歌詞にあるとおり,

そうさ,つらいときは,顔を空に向けろ。忘れた夢が見えるよ

ということで,つらいことが増えたから空を見る回数が増えたのだったら,虹を見る回数が増えたことも素直に喜べない。

2023年8月20日日曜日

VIVANTが面白い

 私は,テレビドラマを観るのが大好きなのだけれど,時間がなくて観るドラマの本数を減らさざるを得ない。悔しい限りである(とはいえ,時間ができたとしても観るドラマを増やすかどうかは疑問だ)。

今期は,「VIVANT」の他,「転職の魔王様」,「ダイマジン」,「湯遊ワンダーランド」,「呪術廻戦」を観ている(その他「どうする家康」,「雲霧仁左衛門5」も観ているが)。それぞれいつか話したいとは思うけれど,今回は,「VIVANT]について。

これはTBS日曜劇場の枠なのだけれど,日本ドラマにそうそう見かけない「冒険大活劇」である。モンゴルを始めとして国内も多くの箇所でロケをしているようで,砂漠の中の撮影,カーアクションなど,お金に糸目をつけずに制作していることが画面からよくわかる。

話も伏線につぐ伏線で考えさせられることは多く,その回収の展開に息をつかせず,少しも中だるみすることなく第5話を終えている。

出演している役者もすごくて,主役の堺雅人の他,ここまで主役級の活躍をしていた阿部寛(彼がいなければこのドラマはこんなに面白くなかったのは間違いない),ロケがたいへんだったろうと思う二階堂ふみ,そしてこれから活躍するであろう役所広司。その他にだって主役級の役者が揃っている。

なかでも私が好きなのは,松坂桃李。相変わらず雰囲気が「暗い」。しかし今回は堺と同じ側の工作員の役で,これが素晴らしくカッコいい。いい役だなぁ。第1~3話には出演しておらず,どうなることかと思ったけれど,さっそうと登場していて,今後も期待が持てる。

ということで,今後も謎解きも含め,警察と別班,そしてテロ組織との三つどもえの混戦模様で,毎週楽しみなドラマである。ところどころツッコミどころもあるけれど,そんなことは気にならないほど面白い。松坂桃李が最後まで生き残ってくれるとうれしい(なんだかんだ言って,私は彼のファンなのだ)。

#刀の鞘に乃木家の家紋(テントのマークと同じやつ)がついていたのだけれど,これがちょっとダサかった。せめて漆塗りっぽくしてほしかったな。。。

#他のドラマについても,感想をまとめたい。若村麻由美主演の「この素晴らしき世界」は残念ながら乗り遅れてしまった。若村麻由美は大好きなのだけれど...

2023年8月19日土曜日

湯遊ワンダーランドのともさかりえがすごい

 今期観ているドラマでとりわけ異色なものが「湯遊ワンダーランド」である。漫画をドラマ化したものらしいのだけれど,もともと話がヘンなのに加え,主演のともさかりえの演技が攻め過ぎている。私は毎週楽しみにしているのだけれど世間的にはあまり話題になっていないので,ぜひここで紹介したい。

ともさかりえ演ずる「きつこ」は冴えない漫画家。行き詰まった状況を打破するために,弟に勧められてサウナに行く。そこで「整う」体験をして以来,あちらこちらのサウナを巡って,そのたびに(おかしな)気づきをしていく物語である(?)。

とにかく世界観が不思議。シュール。そもそも第1回目にきつこがサウナに行くのも「松果体」を覚醒させるためだし,彼女の考える漫画のネタも「ハンバーガーから生まれた少女が自分の出自に向き合うマンガ」などと言っていて,全くヘンなのである。出てくる人たちも相当に変わっていて,サウナのヌシと呼ばれるおばさんや樋口日奈演じるコミュ障でエロの上級者のアシスタントなど,本当にいたら付き合うのがつらそうな人ばかり。

一番おかしくて怖いのがきつこの弟。きつこにサウナを紹介するなど姉思いかと思わせておいて,鋭い批判的な言葉を姉に投げつける。このドラマ内で笑うこともしないし,私にとっては一番怖い,底のしれない人物である。

そして,このシュールな番組を成立させているのが,ともさかりえの怪演である。ひとりごとのセリフが多いのだけれど,かなり目つきがおかしい。笑顔もおかしい。とにかくおかしい。ともさかりえの演技力が素晴らしい。でも近くにこのひとがいたらかなり怖い。

ともさかりえもそれなりの年齢になったし,確かお子さんもいらっしゃったはずである。相変わらず魅力的なのだけれど,今回はなにか吹っ切ってやっている感じもする。「金田一少年の事件簿」の頃の可憐な彼女が懐かしい。

全然話題になっていないので,ぜひ紹介したかった。新潟ではあいかわらず放映されていなさそうなので,Tverでぜひどうぞ。

#笑ったのが,きつこが好きなアーティスト「月野源」。これが微妙に「星野源」していて,その狙いどころが微妙すぎて悶絶した。

2023年8月16日水曜日

質量密度を感じさせる存在感ある肉体が欲しい

 配信ドラマ "Jack Reacher"で主役のJackを演じるアラン・リッチソンの肉体が素晴らしい。最近,彼の肉体に憧れている。

私は「北斗の拳」でもラオウのファンなのだけれど,それはとにかく剛拳を振るう肉体を持つからである。私は「鋼の肉体」が欲しいのである。

私の考える「鋼の肉体」というのは,単に筋肉がついていれば良いというものではない。まずは「遣える筋肉」ということである。やはり格闘技がベースであって動ける肉体が前提である。その点,ボディビルダーの筋肉はちょっとtoo muchな気がする。筋肉の「密度」が低い印象がある。この辺はあくまでも個人的な印象なのだけど。

たとえば肉体派俳優といえば,A. シュワルツェネッガーやD.ジョンソンを思い浮かべる人も多いと思うけれど,私の印象ではちょっとA.リッチソンの肉体に比べて筋肉の「密度」が低いような気がする。

そして「鋼の肉体」というのは,鈍重な「鉄」ではなく強い「剛性」をもつ「鋼(はがね)」なのである。しなやかな「弾力性」を感じさせなければならない。「マイティー・ソー」のクリス・ヘムズワースも神様らしいギリシャ彫刻を思わせる肉体を作っているけれど,まだ剛性に足りないように思う。

しなやかさだけであれば,たとえばブルース・リーのあの無駄を落としきった肉体もあるけれど,あのくらいだと筋肉のバルクが逆に足りない。どうも私が憧れる肉体は東洋人には無理なような気がする。東洋人で筋肉のバルクを増やすとどうも「密度」が落ちる。たとえばヤン・スエのように...(彼のことは好きだけれど)

ジェイソン・ステイサムの肉体も少し格闘技にチューニングし過ぎで,バルクが足りない。チャック・ノリスの肉体も同様だ。肉体が格闘技すぎると色気が不足するような気がする。

さらに「質量」を感じさせる肉体であってほしい。「質量」というよりも「重力場」というべきか。その人がいるだけで周りに「場」があるように感じられる肉体がいい。まるで夢枕獏の比喩のように,存在自身が意味をもつようなそんな肉体。それが理想である。

存在するだけで意味を持つような「鋼の肉体」。私のように存在感のない男には,遠い憧れの肉体なのだ。

#Tシャツ一枚でサマになる肉体だったらどんなにいいだろう。夏は衣服費が少なくて済みそうだし。

#ふりかえって自分を考えると,最近はあぐらからまっすぐに「立つ」こともできないほど身体が弱ってきた。稽古しなければ...

2023年8月15日火曜日

Jack Reacherに憧れる

 Amazon Primeに入ろうかと迷う理由のひとつに,ドラマ "Jack Reacher"が観たいということがある。

ジャック・リーチャーは元陸軍憲兵隊出身の流れ者(だからアウトローなのか…)。正義感は強く,それがもとであちらこちらで事件に巻き込まれる話。

ご存じの通り(?),ジャック・リーチャーについては,すでにトム・クルーズが自らが主演で2作品を映画化している(「アウトロー」,「ジャック・リーチャー Never Go Back」)。この2作はもちろん観ていて私は好きなシリーズなのだけれど,残念ながら興行収入は期待通りでなかったらしく,その後の続編は作られていない(原作小説は20作以上あるらしい)。

そこで映画ではなく,配信ドラマがつくられることになった。それがAmazonで配信されているのだ。

もともと原作のリーチャーは6 フィート5 インチ,体重 250 ポンド(身長195.6cm,体重113.4 kg)というから,170㎝そこそこのトム・クルーズが演じるのには少し無理があった。そこでドラマ化される際に,俳優がトムから身長185 cmのアラン・リッチソンに変更されている(185 cmでもまだ原作の身長に足りない!)。

人は自分で手に入れられないものに憧れるというが,私はこのアラン・リッチソンに憧れる。つまり,筋肉バリバリの身体に憧れているのである(同じ理由で「北斗の拳」のラオウに憧れる)。Youtubeなどで紹介されている"Jack Reacher"の格闘シーンなどを見ても,彼の戦い方が頼もしい。映画版のトム・クルーズは明らかに格闘技を用いていたが(KFM?),このアラン・リッチソンは体力にものを言わせて相手を倒していく。それが痛快なのである。

あぁ,私の身長が190cm以上あって,相当なウェイトで鍛えることができる身体であったなら...とずっと思い続けている妄想を刺激続けるドラマなのだ(その場合は,武術は合氣道ではなかっただろうとも思う。身長が高い人には合氣道のくぐり技はつらすぎる)。

このドラマを観るだけでも,Amazon Primeに入る価値があるのかもしれない。そう思いながら毎日悩んでいる…

2023年8月14日月曜日

Amazon Primeに入ろうか入るまいか…

 この数年,ずっとAmazon Primeに入ろうか迷っている。学生のみなさんに尋ねると,生活するのに不可欠だと言われるのだけれど,それほど通販を利用するわけでもなし,もし利用するとすれば動画を見ることなのだけれどそれを視聴する時間があるわけでもなし,それでずっと迷っている。その上,会費を5,900円/年に値上げするというニュース。ますます困ってしまう。

Amazonでは映画を観ることができるのが魅力だ。「シン・仮面ライダー」「シン・ウルトラマン」なども観ることができるし,ときどきラインナップが変わってくれるので,今までに観ていない映画を観る良い機会にもなる。

オリジナルドラマにも惹かれる。私が特に気になっているのは「Jack Reacher」である。「高い城の男」も観たかったなぁ(どうもシーズン1で打ち切りのようだったけど)。

しかし,今のところTverでTVドラマを数個フォローするのにいっぱいいっぱいなのだ。とにかく時間がない...あー,映画館に足を運ぶことさえ時間を確保できない。こんな五十代になるはずじゃなかった。


#Netflixも悩みどころなんだよなぁ…「スプリガン」とか「デビルマン」とか,心をくすぐるコンテンツがある

2023年8月13日日曜日

お盆とは先祖のご縁で皆が集まる機会

今年もお盆が始まった。

お盆は,先祖をあの世からお迎えして供養をする行事,期間である。本当に祖霊が帰ってきているのかもしれないし,ただ生きている人たちがそう思って供養をしているだけなのかもしれない。

しかし,このお盆はこれまでの日本の家族型社会で重要な役割を果たしてきたように思う。私の家ではここずっと,お盆の季節に親戚が本家に集まるということはしなくなってしまったけれど,昔はおじさん,おばさんの家族が一同に集まって,一年に一回は顔合わせをしていた。酒と料理を楽しみながら,その一年の間になにがあったのかという話に花が咲く。いま思うと素敵な行事だったと思う。もちろん,皆を招く本家のご苦労はたいへんだったと思うけれど,いとこなどの結婚によって初めて知る親戚などもいて,それはそれで楽しかった。

こうした情報交換の機会,そして結びつきを強める機会は,家族を中心として成り立ってきた社会では,たいへん重要なことだったと思う。親戚という比較的強めな社会的なカップリングは,親の介護,親をなくした子供の面倒などを行う上で大きな役割を果たしてきた。今,それがなくて困っている家族も多いのではないだろうか。もちろん,それ以外のしがらみ,負荷の多さも大変だったから,親戚づきあいがなくなってせいせいしている人も多いのだろうけど。

死者を縁として,親戚を一同に集め,交流を深める。それが良い方に機能していたから,この「お盆」という行事は続いてきたに違いない。しかし,この数十年でその行事が煩わしく,良いように機能しなくなってきたために,「お盆」は廃れていく方向にある。また,昔に比べて兄弟の数もめっきり少なくなって,親が亡くなったあとはその兄弟の関係も疎遠になってしまうことが多い。そうやって,この社会は孤立した人々で構成されるものになっていくのだろう。人口減少,高齢化のこの日本において,どうやって社会的なつながりを維持していくのか,かなり難しい問題のような気がする。

私も親の墓参りには行こうと思う。親戚の交流会としての役割のお盆はなくとも,親を偲ぶ機会としての個人的なお盆はこれからも私にとっては大切なのだ。

2023年8月12日土曜日

どのような死を迎えたいのか

 「いかに死ぬかということはいかに生きるかということと同じ意味である」と思うようになって,「どのような死を迎えたいのか」と考えることが多くなった。

さすがに,若い頃のように,「誰にも知らないところで,ドブ川に独り浮いて死んでいる」ような死に方が良いとは思わないようになったけれど(その頃は,必殺仕事人 中村主水の死に方はそうあるのが理想だと演じる藤田まことが話していたことに影響を受けていた),どういうシチュエーションで死を迎えるかということについては,いろいろ想像する。

現実的には,独居老人だから孤独死も仕方ないけれど,発見が遅くなるとそれもたいへんなことになってしまうので,病院で死なないと周囲に迷惑をかけるだろう。

そうした実際的な死に方も悩むけれど,そのときにどういう社会環境に自分がいるのか,それを考えることも大切だ。もちろんいろいろな人に見守られて死ぬのは素晴らしい。しかし,そうした人たちを私はこれから作ることができるだろうか。私のために泣いてくれる人ができるだろうか。

今年,私の伯父さんが逝かれた。そのちょうど一週間ほど前にコロナ明けでたいへん3~4年ぶりに伺い,ご挨拶することができた。「横になる時間が長くなってしまった」とおっしゃっていたけれど,まだまだしっかりとされていた。それが急に亡くなられてしまわれたので,ショックだった。でも,前日までも自分でトイレにいかれていたということだし,朝にベッドの上で穏やかに亡くなられていたということらしい。年齢は90歳をゆうに越えられていたので,まさに大往生である。そんな逝き方もうらやましい。

まだ私が逝くまでに時間が残されているのであれば,いかに死ぬかをもっとよく考えて,その理想に近づくように努力したいものである。

村上春樹の作品に「タイランド」という短編がある。その中に,四十代半ばの主人公の女医に,タイ滞在のガイドのおじいさんが「少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることは、ある意味では等価なのです」と諭す場面がある。この作品を読んでからずっとこの言葉が心に残っている。この主人公よりももう10歳ほど私は年をとってしまっているが,生き方のシフトを変えていく試みを私もしなければ,と思う。


#「ノルウェイの森」(「蛍」だった?)の中では次の有名な言葉がある。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」

#「呪術廻戦」でも,おじいさんが死ぬときには主人公に「大勢に囲まれて死ね」みたいなことを行っていた

2023年8月11日金曜日

いかに死ぬかということはいかに生きるかということと同義

 大学時代の恩師に会った。もう年齢は70を越えられているけれど,まだまだお元気で,今もいろいろな技術的な課題に取り組んでいらっしゃる。大学3年生のときに「電力工学」の講義でお会いしたのが初めてだから,もうかれこれ35年以上ご指導をいただいていることになるけれど,いまだに多くの示唆をいただいている。本当に有り難いことである。

一方,私は引退したらどんな生活を送っているのだろうと想像してみる。

この業界から身を引いているかとは思うけれど,では次に何をして暮らしているのかが全然想像がつかない。年金暮らしではやっていけないだろうから,なにかしら生活の糧を稼がなければならないのだろうけど,何をして生きてゆけばよいのか,現在模索中なのである。

職業も考えなければならない。65歳を過ぎたジジィになにができるのか。プログラマーはちょっと難しそうだし,動画編集も10年後はAIがやってくれているだろう。Webデザイナーだって,私のデザインよりはAIの方がずっと良さそうだ。AIに代わられない手に職をつけるのが良さそうだけど,不器用だし,どれがよいのかもわからない。今から修行すれば10年後には少しは技術が身についているだろうか…などと考えているのである。

もっと深刻なのは,老後の日々の楽しみをどうするかである。私のようにCreativeな趣味がない男には楽しみがない。夢がない。そう,夢も現在模索中なのだ。まずは現状,人間関係が希薄だから(仕事関係くらい),もっと他のコミュニティに所属するようにしたほうがよいだろうか…,などと考えている。

本当に悩みは深刻なのである。

70歳くらいまでは私も生きてみたいと最近思うようになった。そして,どのように死ぬのがよいのかも考えるようになった。しかし,それでわかったのは,「いかに死ぬかということはいかに生きるかということと同じ意味である」ということである。そう思うようになって,悩みはますます深くなっている。

2023年8月6日日曜日

気温に鈍くなる

 年齢をとるといろんなことに感度が鈍くなる。聴覚,視覚,嗅覚,味覚,触覚,ありとあらゆる刺激に対しての感度が鈍くなっていることを近頃実感することが多い。今年の夏,特に自分の感度の鈍さに怖くなっているのは気温である。

よく高齢の方がエアコンをつけずに高温の中で暮らしているなどというニュースを見聞きする。夜間でも気温が下がらない中,就寝すると翌日熱中症で命を落とされているのが見つかるなどという話を聞いていたのだけれど,自分にもその危険があるのだとつくづく感じるのである。

実際,年齢をとると気温がよくわからなくなる。私も気温計を見てようやく30度を越えているのだ,と気づくことも多い。それほど気温が高いと思わないのだ。本当にそうなのだ。自分は汗をかきやすい方だとは思うのだけど,汗も大量に出るわけでもなく,ただただ気温に鈍くなっている。

私も気温が高いことに気づかず,そのまま寝て熱中症になることが怖い。そこで最近は,温度計の数字を見てエアコンをつけることにしている。自分がそれほど暑さを感じなくとも,客観的に判断してエアコンをつける。そういうルールに今年の夏はしている。

一般的に,機械装置,電気装置において,センサ故障は重故障に区分される。センサが故障していては故障や異常を検知することができない。なので,最も危険な故障に分けられるのである(だから重要なセンサは二重化される)。気温に鈍感になるのは,このセンサ故障にあたる。そのリスクを十分に考慮しなければならない。

とにかく,この身体も年を経てずいぶん性能が落ちてきていることを認識しなければならない。古い機械は古い機械なりに運転制限・メンテナンスを行っていかなければならない。この身体も同様,年を経た現在,養生が必要なのだと思い知らされる。

アイアンマン2

 「アイアンマン」を観た あとに 「アイアンマン2」(2010年) を観た。「アイアンマン」がヒット作となり,続編が作られた。だいたい続編というのは面白さがいくぶん減るのだけれど,この続編は1作目に負けないくらい面白かった。 敵役を演じるのがなんといってもミッキー・ロークなのであ...