2026年3月15日日曜日

私のコーヒーの好みをまとめてみた

 月に2~3度は珈琲店を訪れ,美味しいコーヒーを飲みながらブログ記事を書いている。長岡に来てから6年が経つから,これまでに相当な杯数のコーヒーを飲んでいるはずである。そこで私のコーヒーの好みについて,たまには書いてみようかと思う。

珈琲店ではハンドドリップコーヒーを飲むことが多いのだけれど,その銘柄はいつも店のお薦めを飲んでいるから訪れるたびにコーヒーの種類は変わっている。コーヒーの名前には,ブラジル,コロンビア,コスタリカなどの産地名が冠されていて,そのたびに少しは気にするけれど,コーヒーを飲んで産地が分かる,なんてことは全くない。その他名前には,ナチュラルとかウオッシュドとかアナエロビックなんて製法名が含まれていたり,ときにはinfusedとか書かれたりしている。これらの言葉を私が理解しているかといえば,そんなことは全くない。コーヒーは全然詳しくない。そもそも私は味音痴なのだ。そんな製法にこだわるような男ではない。ただし,それでも,「美味しい」と思うか,「まずまず」と思うか,その判断はする。そうした基準で私が選ぶコーヒーは次の通りである。

・ブレンドでなくスペシャルティの単一の豆を用いたコーヒーを選ぶ:まず,私はブレンドコーヒーというものがあまり得意ではない。ブレンドコーヒーというものはどうも味がはっきりとしない。各店舗によるオリジナルブレンドをよく飲むけれど(普通の喫茶店やチェーン店ではいつもこれ),味はあまりぱっとしないというのが私の印象である。豆の味の特徴が混ざり合って凡庸になっているような気がするのだ。もちろん,これまで私が素晴らしいブレンドコーヒーに出会っていないだけかもしれないが。

・苦いコーヒーよりも酸っぱいコーヒーを選ぶ:苦いコーヒーも時には美味しく感じるのだけれど,普通の体調のときはどちらかというと酸っぱいコーヒーが好きである。フルーティーなものも大好きである。口に含んだときに香りが口の中に広がって,その後酸味を感じられるようなコーヒーが好きなのである。

・できれば時々水を飲みながらコーヒーを飲む:コーヒーを飲んでいると,舌が味にどうしても慣れてきてしまう。水を時々口に含むと舌がリフレッシュされて,美味しさを味わえる時間が長くなるような気がする。またコーヒーを飲んだ後の口臭も抑制されるようである。

・ぬるすぎるコーヒーは文章を書くのに適さない:コーヒーそのものの味を賞味するために,ときにはコーヒーの温度はびっくりするぐらい低く提供されることがある。あまりに冷えてきたときには白湯を入れて香りを再び立てるようなこともする。こうした楽しみ方は,確かにコーヒー自体の味を賞味するには良いのだと思うのだけれど,コーヒーを飲んで考え事をするにはあまり適していない。ブログ記事を書くような場合には,考えの小休止としてコーヒーを飲む。そのときはやっぱり熱いコーヒーの方がその役割を果たすのによいと思うのだ。

ということで,私はスタバとかタリーズとかのブレンドよりは,珈琲店の単一豆のハンドドリップを好む。通常のチェーン店でブレンドを選ぶのはだいたいその価格がやすいからなのである。

私の好みを書いてきたけれど,実際のところ美味しいコーヒーであれば,なんであっても構わない。コーヒーを味わう贅沢が千円以下で楽しめるのはたしかに日常生活の小確幸である。美味しいコーヒーを飲ませてくれる店を見つけることがまずは第一歩である。

#とはいえ,平日は居室で飲むゴールドブレンドで満足しているのだけれど


2026年3月14日土曜日

珈琲店の会員制度の終了とブログの更新頻度

 ブログ記事は,週末に少しお洒落な珈琲店でコーヒーを飲みながら書くというのがこの数年のルーティンになっている(この記事もそうだ)。美味しいコーヒーを飲みながら,こうして記事を書きながら考えをまとめる時間は,それなりに日常生活の中で重要なものになっている。まるで誰かに愚痴を言うように,記事がとりあえずまとまるとスッキリするのがストレス解消になっているようだ。

ブログ記事を書く場所にこの珈琲店を選んだのは,内装が木製で心が落ち着くからであるし,それでいて若いカップルや熟年夫婦などが会話やコーヒーをにぎやかに楽しんでいる姿をみるのも心を温めるからでもある。しかし,なんといってもこの喫茶店を訪れる理由は,会費を払って月会員になるとハンドドリップコーヒーが半額になるという特典があったからである。 コーヒー3杯を飲めばもうお得なのである。

しかし,この会員制度が今月で終了することになってしまった。店から届いたメッセージには昨今の価格高騰が終了の理由だと書かれてあった。それは確かに仕方ない。輸送費を含め物価は何もかも上がっているし,コーヒーだってブラジルなどの不作で世界的に高騰しているとどこかで記事も読んだ覚えがある。よくぞここまで価格を抑えてきてくれた,と感謝したいくらいである。

しかし,それでも,である。出費が増えるのはつらい。この店を訪れる頻度もそれなりに少なくなってしまうだろう。しかし,これは好機であるともいえるかもしれない。これまで会員だからということでこの珈琲店に通ってきたわけだけれど,他にも美味しい珈琲店は市内にあるだろう。そうした店をひとつずつ開拓する楽しみも今後はあるに違いない。

ただブログ記事を書くほど落ち着いた環境の店というのはなかなか見つからないかもしれない。そのときは,このブログの更新頻度も残念ながら下がることになるだろう。もしも更新頻度が下がったら,そうした理由なのだと推しはかっていただければと思う。

2026年3月7日土曜日

最近,デスゲームのルールが複雑すぎる

 「呪術廻戦」はテレビのアニメをこれまで見てきて,今期も期待して視聴を続けているのだけれど,最近正直をいうと見るのがなかなかつらくなってきた。今期は「死滅回遊」と銘打って,呪術師同志の殺し合い,すなわちバトルロワイヤルを描いているのだけれど,このデスゲームのルールが複雑になってきて,頭が追い付いていかないのである。

そもそも私が番組を見るのは,頭の中を空っぽにして何も考えずに楽しみたいからであって,知的ゲームを解き明かしていくという楽しみを求めているわけではない。主人公と敵との単純な構図があって,味方と敵とが戦いあうようなスカッとした物語が好きなのである。

それが今期の「呪術廻戦」といえば,登場人物たちの業を説明する話がところどころに挿し込まれ,殺し合いについても複雑なルールがプレーヤーたちに課されている。ルールが複雑になると,そしてそのルールの盲点を突いた攻撃などがあると,そのルールがどうだったのか,そのたびに確かめる必要が出てくる。それが面倒なのである(そのルールを確認しても理解できないこともしばしばだけれど)。そしてその面倒くささが,私から番組の視聴を遠ざけるようになっていく。

(ちなみに登場人物の背景の説明も実は苦手である。この理由のために「鬼滅の刃」の映画を観に行く元気がまだ出ていない。。。)

同じ理由で苦手な漫画が「ハンター×ハンター」である。物語の途中からはルール(制約)が多すぎて,とても理解できない。単行本を読んでいても,途中からとても漫画とは思えない文字数で紙面が埋められ,まるで小説を読まされているような気分になる。それが好きな人もいるのだろうが,私みたいに単純な話を好む人間には少々つらいものになっている。

カイジやライアーゲームなども,正直苦手である。。。頭が単細胞でできている私には,単純な話がお似合いなのだ。「ハンター×ハンター」のあの文字で埋め尽くされたページをめくっていると,これを本当に理解して読んでいる人はどれだけいるのだろう。。。といつも思うのである。

2026年3月1日日曜日

丹田に関わる修行法について

 「丹田」という概念が武道の修行において重要視されているが,修行する武道などによって説明が異なっており,それぞれの方法において異なる解釈がされえちることがわかる。しかし,「丹田」という概念は,東洋において,武道に関わらず精神や心の修行に重要であることは共通であるようで,その概念や修行法においては多くの類似点が見られるようである。

「丹田」は「上丹田」「中丹田」「下丹田」などと区別されることもあるが,たとえばこれらの概念は,インドのヨガなどで言われる「チャクラ」の概念に近いと思われる(多くの人がそう思っているだろう)。人体においてチャクラは,尾骨,仙骨,胃,胸,喉,眉間,頭頂付近に計7つ存在するといわれていて,それぞれ生命力や感情などを司ると言われている。ヨガや呼吸法などの修行法はこれらの「チャクラを開く」ことを意識して行われる。最近では「チャクラ」という概念はヨガの普及とともにかなりメジャーな概念となっている。もしかすると「丹田」は知らなくても「チャクラ」は知っているという人の方が多いのかもしれない。

こうしたチャクラの開発においては体内のエネルギーの循環を意識して修行されるが,その修行法に類似しているものが,中国道教(気功法)における「小周天」という気をめぐらす功法である。体内の経脈にしたがって気を循環させるのだという。気の循環を天地と行えば「大周天」となるらしい。体内にエネルギーの循環をイメージする点では同じである。

そして日本にはもっと静的な修行法として禅がある。これは丹田をしずめて瞑想することが指導されるようで,あまり体内のエネルギーの循環を意識するということは聞いたことがない。しかし,剣豪 白井亨が行ったといわれる白隠禅師の練丹の法「軟酥の法」は「軟酥」の移動を意識するのでなにかしらのエネルギーを移動するイメージが使われているといえ,やはり修行法に共通点があるように思われる。

結局のところ,体内のエネルギー(のようなもの)の循環を意識するという修行法は東洋においては普遍的なものであり,普遍的であるということはこれらの修行法の実効性が高いということを示しているといえるだろう。

ただし,これらの修行法にはどうも危険が伴うらしい。ヨガにおいてはチャクラの開発においてクンダリーニが暴走してしまい,心身に不調をきたすことがあるらしいし,道教においても修行において気の循環が暴走すると「走火入魔」と呼ばれる状態になって心身を害するといわれる。安全そうな禅でさえ,「禅病」と呼ばれる心身の不調の危険性があるのだ(「軟酥の法」は白隠禅師が禅病から回復するために行った練丹の法と言われている)。

人間の心は,私たちが思っているよりも身体と密接な関係があり,そしてかなり脆いということが,私がこれまでの稽古を通して実感したことである。心の修行は,ちゃんとした師について行うことがやはり望ましい。

2026年2月28日土曜日

丹田という概念

 私が稽古している合氣道では,「丹田」ではなく,丹田を一点に集約した「臍下の一点」という体内の点を重要視する。すなわち「臍下丹田」の「臍下」であり,臍下三寸くらいのところと教わる。しかし,一般的にはそこまで細かいことを言わず,「丹田」全体に言及する武道が多いだろう(丹田を重要視するのは武道だけではないけれど)。

「丹田」は通常はこのように下腹の部分を指し,よく,大事な時には「下腹に力を入れろ」などと言われたりする。しかし,この丹田という概念が実はあいまいなのではないかと思っている。そもそも「丹田」という概念を言い出したのは誰なのだろう?

この「丹田」も「上丹田」「中丹田」「下丹田」などに分かれて解説されることがある。私の理解では,「上丹田」は額の中心の「天帝」とも呼ばれる場所(お釈迦様の白毫の位置)であり,「中丹田」は「膻中」付近の場所,「下丹田」は下腹である。それぞれ心や気の修行には重要であるとされているが,昔の武芸書を読んでみて「丹田」ではなく「上丹田」「中丹田」「下丹田」などと分類されているものを見たことがない。これらの概念は誰が言い出したものなのだろうかと不思議に思っている。もしかすると近代以降,中国やインドの知識が入ってきてからの概念なのではないかと考えている。

さて,私が稽古している心身統一合氣道では,力を抜くことを重要視する。普通に丹田を意識すると確かに下腹に力が入りやすい。それは面積をイメージするからである。意識するのが点であるならば力の入れようもなく,全身の力も抜ける。なので「臍下の一点」に心をしずめるのである。たいへんよくできた指導であると思っている。









2026年2月23日月曜日

宝石商が本物を見分けるための修行の話

 以前にも書いたけれど,いかにも人生の大事なことを示しているような例え話が嫌いである。誰かの名言というのは好きだけれど,どこの誰が話したかもよくわからなくて若者を大人がだますような感動話というのが嫌いである。いや,個人的にはそうした話を収集するのは大好きなのだけれど,自分自身はそうした話に安易に納得するのが大嫌いなのである。

以前に書いた「壺と大きな石,小さな石」の話が典型的なのだけれど,今回はまた別の話を紹介する。

伝統ある宝石商における修行の話。その店では新入社員に,持ち込まれる宝石のどれが本物でどれが偽物かを見分ける方法については具体的には教えないのだという。その新入社員にはただひたすらに本物の良い宝石だけを見るようにさせる。そのうちに修行年月が経つと偽物を見たときに本物とどこかが違うとおのずとわかるようになるのだ。という話。

これはある武道の先生から伺った話である。すなわち,本物の技を見て練習していれば,おのずとインチキで偽物の技を見分けることができるという教えであった。

私はこの話を聞いたときに,なぜ宝石商の例え話を出してくるのかと思った。最初から武道の技の話として話せばよいのに,と思っていたのである。この話が示している内容はある意味真実であると今では理解できているけれど,その当時は宝石商の例え話に嫌悪感をもったことを覚えている。また,初級者に教えをありがたさせるための話だ,などと思っていた。

しかし,現在では,嫌いではあるけれど例え話の目的も少しは理解できるようになってきた。それは私の講義の中の雑談と同じである。教科書の内容ばかりを講義しても学生の記憶には残りにくい。ところどころに雑談を交えて,そのくだらない話にバインドさせて重要なことを覚えやすくするための工夫なのだ。実際に私もこうしてこの宝石商の話を覚えている。そしてこの話を思い出すと,本物を見る修行の重要性もまた思い出されるようになっているのだ。


#藤平光一先生が話された千利休の話もよく覚えている。この話には嫌悪感はあまり抱かない。たぶん内容は同じでも誰が話すかということが大事なのだろう。酒場で同じ話を聞いても心に残る度合いは全く違うだろう。





2026年2月22日日曜日

刺身にあうお酒とは

 長岡に来て,日本酒を飲む機会がぐっと増えた。それまで日本酒は少し遠ざけるところがあって,あまり注文することがなかったのだけれど,長岡に来てスッキリと美味しい日本酒を飲めるようになって,すっかりその魅力にハマってしまった。いまでは刺身や煮魚などの日本料理を見ると日本酒の味を思い出して喉がゴクリとなるほどである。

こう思うと,日本酒は刺身や煮魚,焼き魚によくあうお酒なのだとあらためて思う。実は私はビールでこれらの料理を食するのも大好きなのだけれど,刺身とビールの組み合わせが苦手な人もいることについては理解できる。日本料理には日本酒一択という人も多い。

私も刺身などには日本酒かビールを合わせることが多い。一方で若い人によく見かける刺身にチューハイやハイボールを合わせることは苦手である。ましてソフトドリンクとして,コーラやオレンジジュースで刺身を食べているのをみると,彼の口の中に広がるであろう味をついつい想像してしまって,「うっ」となってしまうのだ。その甘い飲み物と刺身の組み合わせはないだろう。ウーロン茶などならよいと思うけれど。。。

いつだったか,子連れ狼などの原作者で知られる小島一夫が,

日本の大人の男には、「金を持ったにすぎない子供」の男が多過ぎる。大の男の暇潰しが課金ゲームではいけないし、コーラで飯を食ってもいけないし、聴いているCDに握手券が付いていてもいけないのである。大人の男として扱われたいのなら、大人の男になれ。いつまでも、少年のフリは出来ないのだ。

とツイートしていたのを思い出す(ネットで調べました)。日本酒と刺身の組み合わせの素晴らしさに気づくには味覚の成熟が必要なのだと思う。私も長岡に来てから成熟中なのかもしれない。



2026年2月21日土曜日

大人の舌と胃袋の老化

 苦いものの美味しさを理解できるようになって,大人の舌になってきたと思うようになったのは30歳を超えたくらいの頃だろうか。ビールに限って言えば,22歳の頃にはあの苦みがたまらなくなっていたけれど,その他の料理,たとえばフキノトウとかセリなどの苦みが美味しく感じられるようになったのは30歳を超えたくらいの年頃だろう。

一方で,たんぱくな味を美味しく感じるようになったのは40歳くらいだろうか。たとえばタイやヒラメ,フグ(めったに食べたことはないが)などの刺身,湯葉やこんにゃくなどは,どういう味なのか説明はできないけれど,美味しく感じられるから不思議だ。

一方,脂を身体が受け付けなくなりつつある。魚の白子も今はそれほど量を食べたいと思わなくあったし,ホッケやノドグロなどの脂ののった焼き魚も少量で十分である。もっというと,すき焼きなんかは,2枚目の肉からはあとは食べることが「修行」となってしまうし,ステーキや焼き肉も,A5ランクの霜降りのお肉よりも赤身が美味しく感じられるようになってしまった。これが胃袋が年をとるということかと実感している(最後の砦であるトンカツもとうとう量が食べられなくなりつつあるし)。

この先,仙人のようにカスミしか食べられなくなるのではないかと心配しているが,コレステロール,中性脂肪の値はいまだ高いので,まだまだ修行は必要なようだ。

2026年2月15日日曜日

バツ印がみつからない

 最近は老眼が進んで小さな文字が見えづらくなってきた。特にスマホでブラウジングなどしていると,書いてある文字が見えづらくなる。だからiphoneの私はよく拡大機能を使ったりしている。年は取りたくないものである。

もっと困るのが小さな記号が見えないこと。具体的にいうと,ウィンドウを閉じるためのボタンが見つからないことである。

ブラウジングをしているとページを移行した際に,広告のウィンドウなどが勝手に開かれることが多くある。それはなにか商品の広告ページであったり,数秒のCMを見るとブラウジングを続けられるであったりとか,とにかく次のページを読みたい私にとっては邪魔するものたちなのである。

最近腹が立つのは,こうした広告ページが開かれた際に,ウィンドウのCloseボタン(バツ印)が見つからないことである。例をあげると,

  • 「バツ印」がそもそも小さくて見つからない
  • 「close」と書いてあるけれど,その文字がウィンドウとは全然異なる位置に表示されている
  • あるいは「close」がページの端かド真ん中の位置に表示されていて見つかりにくい
  • 「close」の文字や「バツ印」がわざと広告の図の中に重なって表示されて見つかりにくい
  • 背景を透過色のグレーにして,「close」の文字もグレーで表示される   などなど

とにかくひどい。ReadabilityというかVisibilityというか,ウィンドウを閉じるためのボタンが見つからないのである。もうイライラしてしまう。

若い人を見ていると,それでもちゃんとスムースにcloseボタンを見つけて次のページに移動しているようなので,やはり老化による対応の悪化なのだろう(若い人でもときどき怒ったようにスマホの画面を指でたたいている場面を見ることがあるから,老化とばかり言えないのかもしれないけれど)

PCであってもcloseボタンを探すのに苦労する。この先,もっと複雑な表示になっていったら,もう私などは対応できなくなるだろう。Webページのデザイナーはもう少し,老人にやさしいページ作りをして欲しいと切に思う。

2026年2月14日土曜日

「人間力」という言葉が嫌い

 私が嫌いな言葉に「人間力」がある。「人間力」とはなにか定義がはっきりしていないのに,あたかも人間としての魅力を測るような能力としてちやほやされている,偽善的な言葉にしか感じられないのである。

人を惹きつけるというのであれば,「人たらし」という言葉があるし,コミュニケーションが上手であるならば「社交的」という言葉がある。「人間力」などというあいまいな言葉を使うことによって,あたかも素晴らしい能力であるかのような印象を与えている。そうやって一種「煙に巻く」ための手段として使われている場面にあうと,「あー,また騙している」と思ってしまうのである。

こうした「いかにも」といった話は,ビジネスのスキルアップのような話の中ではよく出てくる。私はそういった人生訓のような話を聞くと,「フン」と鼻で笑ってしまう人間なのだけれど,実はそうした話を聞くのは好きだったりする。なぜならば,どんな教訓が人間に響くのかと考えられてその「うまい」話が作られているのか,なかなか興味深いからである。

たとえば,壺と大きな石,小さな石の話。壺の中に石を順番に入れていく際に,小さな石から入れていくと,大きな石が入らなくなってしまうという話。この石は目標,願望であり,目の前の小さな目標に心を捉われてばかりいると,人生にとってもっと重要な大きな目標がたっせできなくなってしまう,という教訓の例え話になっている。

もちろん素晴らしい話なのは認めるのだけれど,私はやっぱり鼻で「フン」と笑ってしまうのである。そんな単純な話ではないのに,身近な例が人生の深淵につながっていると思わせる手法である(実際は日常の些細なことが重要なことにつながっているのは真理だとは思うけれど)。いかにも啓発セミナーにありがちな話なのである。

人生の経験を積めば,現実がそんなに単純でないことは身に染みてわかっている。だけれども人間は話を単純化し,そこに教訓を求めようとする。人間は,単純化されたものを好むから仕方がないのだろう。現実は複雑で,複雑なことをありのまま複雑に受け止めればよいのに。。。

単純化された教えは,単純であるがゆえに強いものになって,自分を縛るだけでなく,周りの人にも強制し始めることもしばしばである。どこかの宗教の教義のように。

私たちは,複雑なことを複雑なまま受け止める訓練をしなければならないのだと思う。AIが発達したとしても,矛盾をそのまま受け止めるような,清濁併せ呑むような,そんな実世界との向かい合い方が必要なのだろうと思っている。その間口の広さ,奥行きの深さこそが人の深みであり,「人間力」なのだろう。

2026年2月11日水曜日

大事なことは単純化できない。言語化できないこともある。

 最近は,物事を単純化して考えることが流行している。複雑な困難事を小さく分解して,それぞれについてそれらの困難を解決していく,というのは昔からあるデカルトの重要な教えだし,科学的な考え方でもある。しかし,物事をいきすぎて単純化することの弊害について私は懸念している。

たとえば,二分法。物事を,良し悪し,善悪,などに分解することは,判断を単純化し意思を決定しやすいけれど,二分法で考えることができるところまで困難事を落とし込んでいくまでに多くの重要なことを切り捨ててしまっている可能性があるのではないかと思う。複雑なことを分解し不要だと思われることを切り捨てていく段階で,その切り捨てるための判断基準には自分の思考のバイアスがかかっているし,決断するまでの時間的な制約もあって検討が十分でないこともあるだろう。しかし,こうした切り捨てられた多くのことの中に,実は将来を見据えた解決策のヒントがあったりすることも多いように思われる

書店に行くと,「言語化する」ことの重要性を説いたビジネス本を多く見かける。確かに人はテレパシストではないので,人に情報を伝えるためには言語化することが必須である。いかに的確に簡潔に人に情報を伝えるかというスキルはビジネスで不可欠だし,日常生活においてもその効率化においてたいへん重要なことだと思う。また「言語化」する過程において思考が深化されたり,ロジックが整理されたりするだろう。

しかし,それでも言葉で伝えられない多くの大事なことがあるのである。それを昔から「不立文字」という。特に武道においてはそうである。秘伝書にいくら言葉で技術が解説されていたとしてもそれを読むだけでは習得できない。師から経験を通じて伝承が行われ,その感覚を自分のものとすることができて,技術をようやく承継することができるのである。そこには肉体的な伝達だけでなく,心的な伝達こそが大きな役割を占める。すなわち「以心伝心」である。

(余談:中国の武侠ドラマのように武道の伝書を読むと頭の周りに金の文字が回り始め,読み終えるとすでに技を習得する,なんてことはないのである。また,映画「マトリックス」ではヘリコプターなどの操作マニュアルが時空を超えて主人公の頭の中にロードされていた。たしかにマニュアルという情報レベルであれば,将来そうしたことも可能かもしれない)

以前から世の中が単純化されることの弊害について考えている。人間は複雑なことを複雑なままに放っておけない特性をもつから仕方ないとも思うけれど,世の中の思考の単純化が進むと,どうしても世界は排他的になっていくように思う。

単純化することに終始するのではなく,複雑なことを複雑なまま受け止めるということが成熟した考え方だと思う。そして世の中のことすべてが言語化されるわけでもなく,「不立文字」や「以心伝心」という言葉の意味についてもう少し注意を払うべきなのではないかと思っている。




2026年2月8日日曜日

慈眼温容(2)~小我を捨てる~

 「慈眼温容」が私には必要で,眉間にシワを寄せる癖を直すために努力を始めたという話の続き。

眉間にシワを寄せることをやめようと決意したのだけれど,ふと気づくと眉間にシワを寄せて歩いている。あるいは考え事をしているのである。眉間にシワを寄せることは本当に無意識的なものであり,それが癖になっているのだ。

そして,自分の心身を細かく見てみると,眉間にシワを寄せているとき,身体には緊張がいくばくかあることに気づいた。この少しの緊張の重大さについて考えてみた。

私が稽古している心身統一合氣道では「眉間にシワを寄せると氣が止まる」と教えられる。この武道では完全にリラックスした状態を統一体と呼び,この状態を維持することを目的としている。どこかに力が入っていると,この統一体が崩れるのだ。統一体である状態を「氣が出ている」といい,統一体が崩れている状態は「氣が出ていない,止まっている」などと表現する。すなわち眉間にシワを寄せるということは統一体が崩れるということを意味する。

心身はひとつであるとするならば,身体に緊張があるとき,心にも緊張があることを示している。私はこれまで「眉間にシワを寄せる」ということは,眉間に力を入れるということになるので,氣が止まるのだ,と単純に思っていた。しかし,「眉間にシワを寄せているとき,身体の奥深くに少しの緊張がある」ということに気づいたときに,実は眉間に力を入れるのではなく,もっと心の奥深くで緊張を生み出しているということを実感したのである。

往年の大横綱,千代の富士に藤平光一先生が,千代の富士があるときから立ち合いの際に相手をにらみつけるのを止めた理由について尋ねたことがあるという。そのときに千代の富士は,誰かからもらった本ににらみつけると気が止まると書いてあったからやめた,と答えたとのことだけれど,藤平光一先生が私の他にそんなことをいう人が他にいるのかと思い,誰の本かと尋ねたところ,結局それは藤平光一先生の本だった,というオチなのだけれど,その話を伺ったとき,この意味は私には単に顔に力を入れることを戒めるものである思われた。

しかし,違うのだ。もっとこの話には含蓄があることに最近「慈眼温容」を心掛けるようになって気づいた。なにか外部からの刺激に対して,無意識に「抵抗しよう」とする心が起こっているときに眉間にしわが寄るのだ。ほとんど反射的に私は眉間にシワを寄せているけれど,それは単なる肉体的な癖なのではなく,心が無意識に外部に対し抵抗しようとしていることの表れなのだと気づいたのである。これは,これまで生きてきた経験の上に積み重ねられた癖(無意識の反応)なのだ。それはたいへん小さな気持ちなのかもしれないが,確かにそこには「我」を張ろうとしている自分がいる。反射的にそうしてしまっているのだから,相当根が深いことに気づいた。ただ,このことに気づいたのだから,この癖は直すことができるのではないかと考えている。

藤平光一先生は,別の機会には「小我を捨てて大我に生きる」のようなことをおっしゃっていた。「小我」とは外部に対して「我」をはる私を意味していたのかもしれない(単に「私利私欲」という意味ではなくて)。気づいたことは喜ばしいけれど,この修行の先の長さを思うと,「小我」を捨てることが死ぬまでに達成できるかどうか,自信が持てない。しかし,修行するしかない。息を引き取るまでにどこまで行けるか,それはそれで楽しみである。

2026年1月10日土曜日

慈眼温容(1)~眉間にシワを寄せるのをやめる~

 私が一番にご恩を受けている合氣道のO先生のお話。

O先生はたいへんご自分に厳しく,自己を律していらっしゃった。しかし,あるときに藤平光一先生が,

「O君は,”春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛む”ではなく,人に接するときも秋霜を以てしているね」

とおっしゃられたそうである。また,あるときには藤平光一先生自ら

慈眼温容

という言葉お色紙に書いてO先生に贈られたと伺った。O先生は眉間にシワを寄せる癖があったということである。

私はこのお話を伺った際には,「そんなものか」と思っていたのだけれど,最近,私自身も「眉間にシワを寄せる」癖がいつのまにかついていることに気づいた。

私はいわゆる人相が悪い顔立ちで,眉間にシワを寄せるなどしたならば相当イヤな印象になっているに違いない。そう思うようになったのは,私とすれ違う人が私に微笑むことが多いことに気づいたからである。特に米国出張のときなど,道行く人たちが私と目を合わせるたびにニッコリとほほ笑んでくれる。そして次の瞬間目をそらすと元の無表情な顔になって歩き去っていくのだ。この切り替えがあまりにもはっきりとしすぎていて笑ってしまうくらいである。

目があったら微笑むことは海外でよくあるマナーなのだけれど,あるときひょっとして私の人相が悪すぎるから,目があった人は「自分は敵意を持っていない」ということを表明するために私に微笑みかけることを意識的に(あるいは無意識的に)行っているのではないかと気づいたのである。たしかに街をあるいていて,ショーウィンドウなどに映る自分の顔をみると確かに眉間にシワを寄せて歩いている。。。

そこでO先生の「慈眼温容」のお話を思い出した。私もいつのまにか無意識に誰かをにらむような表情になっていたのだ。そのことにはちょっと前から気づいていたけれど,昨年末から本気で直そうと心掛けている。しかし,これがなかなか難しい。眉間にシワを寄せてしまうのは常日頃の心の在り方が根本的な問題であることに気づく。本当に根が深いと実感している。

2026年1月3日土曜日

2026年の目標(2025年の反省)

 新しい年が来た。私もとうとう数え年で還暦となった。昨年に立てた目標も当然のことながら,なにひとつ達成できていない。なんと夢も希望もない還暦なのかと思う。

しかし,毎日絶望のもとに生きているのかというとそうでもない。ネットの動画を楽しんだり,細々と合氣道の稽古も続けている。いわゆる小確幸はそこそこ生活の中にある。

私に足りないのは,長期的な視点に立った目標である。仕事,日常生活,体力,いずれも長期展望に欠けている。還暦を迎えたということはそろそろ自分の終わりを考える必要があるということだ。このブログでも何度もそのタイミングが来た,と書いている。しかし実際には目の前のことにあくせくして対応し,先のことから目をそらしている状態である。

ということで今年は,一日のうち,起きている時間の20%いや1時間でいいから自分のために使うことにしたい。加えてトレーニングも行いたい。これを第一の目標としよう。

<今年の目標>

  • 一日のうち1時間を自分のために使う
  • トレーニングを毎日行う

そして昨年からの目標をここに引き継いで書く。先のない人生,目標を達成することの重要性とその難しさを実感する。

<心の目標>

  1. 慈眼温容 ←昨年末から眉間にシワを寄せないように気をつけている
  2. 沈思黙考明鏡止水) ←これができないと心が仕事から逃げてしまう。。。
  3. 稽古三昧 ←とにかくこれができたら幸せ
  4. 玉簾不断(Mindfullness) ←年をとって集中が続かなくなってきた

<目標>

  1. 叶えたい夢を見つける」 ←いまだ見つからず
  2. 身体を鍛えて体重を5kg減らす」 ←体重に変わりなし
  3. 合氣道の稽古量を増やす」 ←全然増えていない。ひとり稽古を始めるか...
  4. 本を12冊読む」 ←2025年は2冊しか読んでいないらしい...それもオカルトと武道。
  5. 映画を12本観る」 ←2025年は15本観た。しかしどれも映画館ではなかった...
  6. 人生をもっと楽しむ」 ←昨年,生まれて初めて自分のために旅行をした
  7. 身体の姿勢に気をつける」 ←背中の筋肉と骨格の使い方に気づきがあった
  8. 終活をはじめる」← 全然進んでいない
  9. 誠実に機嫌よく生きる」 ←がんばろう。。。


私のコーヒーの好みをまとめてみた

  月に2~3度は珈琲店を訪れ,美味しいコーヒーを飲みながらブログ記事を書いている 。長岡に来てから6年が経つから,これまでに相当な杯数のコーヒーを飲んでいるはずである。そこで私のコーヒーの好みについて,たまには書いてみようかと思う。 珈琲店ではハンドドリップコーヒーを飲むことが...