2007年10月17日水曜日

マスコミの情報は本当に正しいのか

学生たちが,世間に流布している情報を無批判に受け入れる傾向が強くなっているのではないかという危惧の話.

血液型性格判断を当り前のように話している学生たちを見ると,本当に大丈夫なのかと思ってしまう.どうも最近の学生たちは無批判になんでもかんでも情報を受け入れすぎなのではないだろうか.

情報ソースがテレビであればそれを信じてしまう.
あるいは新聞であれば信じる.
最近ではインターネット上の情報もそれに類する.
こうした情報には誤りが含まれている可能性があることを,
もっと日頃から気をつけるべきではないのだろうか.

例えばテレビ.
昔はどうだったのかはしらないが,
現在は視聴率第一主義で,番組を面白くするためならば
情報操作を行うことも厭わない姿勢は,
最近でもよく報じられている.

「あるある***」などは典型的な例だろう.
データがねつ造されて放映されていた.
情報バラエティー番組でなく,
ドキュメンタリーとして放送された番組であっても,
意図的な編集が行われていることが多い.
昔,某国営放送の番組において,
常温核融合に関してインタビューを受けた研究者が,
自分の意図していたこととは異なるような発言をしていたように
編修がされていたことに憤慨し,抗議していたことを覚えている.
結局は番組の方針にしたがって
意見を述べているように編集されてしまうのだ.

それがニュースであっても同様である.
ニュース番組でとりあげられた
あるトピックに対して,賛成と反対の意見を
それぞれの専門家が述べていたのが放映されていたとする.
視聴者は,どちらの意見もあるのだとはわかるけれど,
それがどれだけの割合を占めているのかは
知らされないことが多い.
確かに反対意見は存在するが,
その分野の専門家のほぼ99%が賛成なのかもしれないのだ.
その分野ではその専門家の意見は認められていなくても,
マスコミがこうして取り上げることによって
一般社会に影響を及ぼしはじめることがある.
そうなるとその分野の人たちは対応に
苦慮しなければならなくなるのである.
本当にマスコミはこうした悪影響に無責任なのである.

あるいはリアルタイムで飛び込んでくるニュースでも
誤報は数多い.
私は1999年9月に起きたJCO事故の際に,
その隣にある研究所(旧日本原子力研究所那珂研究所)に居たのだが,
そのときテレビから流れるニュースは
とても信じられない内容だったのを覚えている.

JCOの事業所の屋根が爆発で吹き飛んだ,
などと報道されていたのに驚いて,
窓から隣のJCO建屋を確かめたりしたものである.
CNNもひどい情報を流していた.
ああした情報で住民にパニックが起こっていたならば,
報道機関はどのような責任をとるつもりだったのだろう?

その後の新聞報道もひどかった.
科学技術的に誤った記事などは平気で書いていた.
それよりも酷かったのは,
明らかに悪意をもって記事を書いていたことである.

JCOの事故では付近にはほとんど影響がない放射能しか漏れなかった.
しかし,新聞では多大な放射能を受けると
重大な影響を人体に及ぼすというような
不安を増幅させるような話ばかりを書き,
実際の放射能は微小で,ほとんど影響が無いと
安心させるような記事は,ほとんどなかった.

(たとえば1シーベルトの被ばくについての話を書き,
記事の最後の行で,周辺住民の被ばく量は
30ミリシーベルトにも満たない,とちょっと書くだけだった.
1シーベルトは,JCOの作業員の被ばくレベルであったけれど,
周辺にはそのような高いレベルでの被ばくは起こらなかった.
周辺住民の被ばく量については,
原子力関係作業者の年間被ばく限度量である50ミリシーベルトを
下回っていたけれど,
公衆の被ばく限度量である1ミリシーベルトを越えてしまった住民は
100名以上にのぼった)

後日,周辺の農作物が風評被害を受けたとしてJCOを訴えたが,
私は訴訟先はマスコミも含むべきだったと思っている.
もともと新聞社によっては原子力に対しては
悪意をもった記事を社の方針として
書こうとしているところもあるから,
とても中立性を保っているとは思えない.
社内には,如何に断言をせずして(証拠を残さずして),
読者に悪印象を与えることができるか,という
マニュアルも存在しているという.
社会の公器と言われた新聞でさえもこんな感じなのである.

とにかく,情報の真偽というものは
自分で注意深く判断する必要がある.
そして,この情報社会においてはその能力を磨く以外に
対処のしようがない.
そうでなければインターネット上のデマなどに踊らされて,
大変な事態を招きかねないだろう.

ということで,
今回はいかにマスコミの情報は
操作されているかというお話でした.
この話題つづきます.

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