2008年10月1日水曜日

交響曲と小説

先に,グールドとカラヤンの共演した
ベートーベンのピアノ協奏曲3番の録音を紹介したけれど,
そのカップリング曲が,シベリウスの交響曲第5番である.

一昨日の夜,この曲を聴いていて
不意に交響曲と小説は同じなのだと感得した.
作者がそのとき何を表現したかったのか,
それを音で表したものが音楽であり,
文章で表したものが小説なのだ.
そんなことはもう普通に言われていて,
芸術としては当然のことなのだろうけれど,
それがようやく腑に落ちたというか,
小説と交響曲が私の中で同じレベルで
鑑賞できるようになったというか,
とにかく一段また認識が高次に進んだ気がする.

ステレオ録音でこの曲が聴きたくなって,
(グールドとの録音はモノラル)
別のカラヤン&BPOの録音(65年)によるCDを聴いてみた.
夜なのでスピーカーの音は絞らざるを得ないけれど,
それでも音と空間の広がりを感じた.
よくシベリウスの曲は北欧の自然を表している,
などと紹介されているけれど,
ひねくれものの私は,そんなのはシベリウスの
出身地がフィンランドであるという先入観によるものだと
これまで思っていた.
しかし,突如としてこの交響曲の魅力に目が開かれた
今の私にとっては,この曲から受ける印象は,
まさに透徹とした冬の夜空の広大さと
私たちを包み込む自然のあたたかさである.
結局のところ,そうなってしまった.

カラヤンのシベリウスの録音は,
比較的カラヤン色が少ないのではないだろうか.
聴いていて,自然と曲に集中していき,
鼻につくところがない.
聴いた後のすっきり感がたまらない.
カラヤンは,「シベリウスの曲を指揮するには
北欧の自然に触れなければならない」みたいなことを
言っていたと思うけれど,それを読んで
胡散臭さを感じていた私を少し反省.
ほんとうにそうなのかも.

そのときに交響曲と同じだと思った小説が,
レイモンド・カーヴァーの
「必要になったら電話をかけて」である.
先週の土曜日に読んだばかりなのだけれど,
またこの話は別の機会に.

とにかく,この日を境に曲の聴き方が
異なるようになってしまった.
今後,どの曲も感じ方が変わってしまったのだろうか.
そしてなぜ交響曲と小説は同じだと思ったのだろうか.
いつかゆっくり考えてみたい.

まぁ,しばらくはシベリウスの作品に
どっぷりと浸ってみたい.

2 件のコメント:

  1. みうら先生,ごぶさたしてます。シベリウスの交響曲という物語には人間が登場しないのです。「雪と氷に覆われた静かな世界」で「遠くで氷が割れた音」がしたりするわけです。演奏者側としてはそんな風に感じています。

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  2. 東北のチェロ弾きさんというのは...
    大変ご無沙汰しております.シアトル以来でしょうか.

    やはり演奏する側にとってもシベリウスの曲は,そのような印象なのですね(って,聴く方がそう感じているんだから,演奏者側がそうなのは当たり前?).

    なんか突然目が開かれたんです,シベリウスに.
    でも,昨日聴いたラジオで,誰もが一度はその洗礼をうけるものだ,などとDJが話しておりました.私の他にもいっぱいそんな人がいるんですね.なんか,納得.

    これからもよろしくお願いいたします.
    (知人に読まれるのは恥ずかしいですが)

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