2025年8月2日土曜日

長岡まつりの神輿にまた感動する

 今年も長岡まつりの季節がやってきた。昨年も書いたけれど,8月1日は平和祈念のために神輿が担がれる。そして,和太鼓の演奏が行われる。

長岡まつりの復興祭は1日の午前から行われるけれど,夜9時近くになって民謡流しが終わり,ようやく神輿が出てくるスケジュールになっているので,つねづね夜に長岡の街を徘徊している老人としては,ちょうどよいタイミングで見ることができるのである。

今年も10基を超える神輿が出てきて,市一番の大通りである大手通りは人と神輿で埋め尽くされる。私はこのひといきれの状況が大好きである。お囃子にあわせて,気分がアガる。やはり祭りはこうじゃなければ,とあらためて思う。またいつもは老人しかいない大手通りも若者たちであふれ,長岡もまだまだ捨てたものではないという気持ちを新たにした。

「神輿」は英語でPortable Shrinesとなる。神様がおわす神社が人の手に担がれて移動するのだ。本当にそうだったら「神輿」というのは本当にすごい概念である。神様が町を練り歩くのである。日本のそうした文化,考え方は素晴らしいとつくづく思う。

また日本人は,神は静謐のうちだけにあるのではなく,祭りのような熱狂の中にもあると考えていたのだろう。西洋におけるサバトのように静かなミサだけでなく狂乱する宴においても人間以外の存在に触れることができるというのは世界共通のものなのかもしれない(熱狂するうちに行動が本能に大きく依存することになり,結果,祭りが「ストレス発散」,「癒し」の効果をもつ)。

長岡の神輿の中にも大きな男性器の模型を神輿に乗せて担ぐものがあった。古来からの生殖への信仰があからさまに表れていて,祭りが原始的な情動から始まっていることを思わせる。たぶん祭りという儀式は「神」が定義されるよりも古くから,集団的に暮らし始めた人間の生活において行われてきたに違いないと思えるのである。

人で埋め尽くされた大手通り

女性だけで担がれる神輿


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