2007年12月11日火曜日

月日を回数で考える

時間の経過というものは,わかっているようで,
なかなか実感できていないのではないだろうか.

特に,数か月,数年,何十年という時間の流れを思うとき,
それが自分にとってどれだけの意味をもつのか,
そうしたことに思いを巡らすことは難しい.

今年も年末の帰省のための切符を取った.
故郷の両親に会うためである.
両親といっても,40歳を越えた息子がいるくらいだから,
もう60歳半ばをとうに過ぎている.
親不孝な私は1年に一回くらいしか帰省しない.

そこで以前ふと考えてみた.
年に一回しか帰省しないとすると,
あと20年両親が生きていたとしても,
両親に会える回数はたった20回である.
たとえ年に2回帰省したとしても
たかだか40回しか会うことができない.

高校時代までは一緒に暮らしていたのだから,
毎日顔を合わせていた.
その回数は本当に生きてきた日数分だけあるだろう.
しかし,大学に進学し故郷を離れてから,
一体何回両親と会っただろうか.

故郷を離れてから既に22年が過ぎようとしているが,
両親に会った回数はたぶん50回程度ではないだろうか.
自分が過ごしてきた20年以上の年月に比べて,
あまりに少ない気がする.
こう考えると自然と帰省の機会が貴重なものに思えてくる.

定期的に会うことができる人には,
次も会えるという安心感を持ってしまう.
もちろんそれが普通で,毎回涙の別れというわけにもいかない.
しかし本当は,「次」は無いのかも知れないのである.

次も会うことができると期待して別れるが,
未来は,そうはならないかもしれない.

「さようなら」の語源は
「左様であるならば」であるという(諸説あり).

これは江戸時代のように今よりもずっと不確定性が高かった時代では,
次に会えるかどうかはわからなかった.そこで,

「次会えるかどうかもわかりませんが,
左様であるならば,またお会いしましょう」

という意味も含まれていたのだという.
(先日,NHK教育ラジオの講座で聞いた話)

次があるかどうかもわからない.
そして,次があったとしても,
回数で数えれば,長い年月もぐっと短く貴重に感じられる.

時間の積分の大きさが重要なのではない.
そこに離散的に含まれたイベントの回数が大切なのだ.

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