2007年12月25日火曜日

ものいわぬ哲人たち

Merry Christmas!
みなさん,よいクリスマスをお過ごしですか?

私の家の子どもたちも今日は
イエス・キリストの誕生日だということを
なんとなく理解しているようだ.
とりあえず,ただプレゼントをもらえる日では
ないということはわかっているようで,
なぜか少し役割を果たした気になっている.
(私はキリスト教徒ではないのだけれど)

イエスの話で思いついたのだけれど,
聖書というのは,イエスの死後にその弟子たちによって
編纂されたものだという.
イエス自身がその教えを書いたものではない.
成立を追っていくと,もっとも古いのは
マルコ,マタイあたりではなかったかな.
とにかく何十年も経って書かれたものである.
(と,聖書研究ではされている)
それだけ長い間教えが伝えられてきたことが素晴らしい.

ブッダもそうである.
彼の言葉とされている書物も彼自身が書いたものではない.
数々の聖典,経典も彼らの弟子,
あるいはずっと後世の教団によって作成されたものである.
だからそのときどきの時代の思想が
反映されているといわれている.

孔子もそうだ.
彼自身が論語をまとめたわけではない.
やはり弟子たちである.
私の好きな王陽明の伝習録も
また弟子がまとめたものである.

そういえばソクラテスの弁明もプラトンの手による.
(裁判の記録なのだけど)
ソクラテス自身は自分の考えを著していないようだ.
プラトンの対話集として,彼の思想が残されている.

こうやってみてみると,古来の哲人たちは,
自分自身の手で書物をあらわすことをしなかった.

このことには,実は重要な意味があるように思われる.
すなわち,最も大切なことは言葉では伝えることができない,
という至極当然のことがここに示されている.
哲人たちは,不完全な言葉により
教えが誤って伝わることを恐れたのだろう.

そして,弟子たちも,それを伝えるために,
言葉ではなくストーリーを必要とした.
何かを正確に伝えようとすると,
それは,どうしてもストーリーが必要になる.
ちょうど科学技術論文で論理を展開するように.

しかし,ある人(人間ではない人もいるけど)の教えが
何十年間,何百年間と伝わり,
それが時代を経た人たちに編纂されるって,
本当に奇跡的なことではないだろうか.

何十年,何百年後に読まれるもの.
20世紀にそうしたものがあるとしたら,
それはアインシュタインの論文などなのだろうか,と
思ったりもする.

この21世紀に偉大な哲人は現れるのだろうか.

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