ロストロポーヴィチというチェリストがいた.
もう亡くなって1年が経つ.
彼に関する映画も制作されたので,
ご存知の方も多いかもしれない.
(というよりも非常に著名なチェリストだった)
彼が亡くなったとき,彼と親交があった
小林和男さんがラジオに出演されていて,
彼に関する思い出を話されていた.
彼はNHKに勤めていたころ,
長くモスクワ支局に駐在されていたのだ.
(よくNHKニュースでもお姿を拝見した)
小林さんはロストロポーヴィチに関する
ドキュメント番組も制作されていたし,
個人的にも,ロストロポーヴィチの自宅に
招かれてワインをたくさん飲んだとか,
あるいは小林さんの日本の自宅を
ロストロポーヴィチが突然訪ねてきたとか,
そんな具合に親交があったらしい.
その小林さんが,ラジオで「オイストラフの哲学」という
非常に印象深い話をされていた.
それを紹介したい.
ロストロポーヴィチがまだ若く(20歳代),
バイオリンの巨匠(といっても40歳代)である
オイストラフとともにフィンランドへ
演奏旅行に出かけたときの話.
フィンランドの著名な作曲家シベリウスの宅へ
招待を受けた二人は,フィンランドの洋服店に
服を新調しに出かけて行った.
ところがその洋服店の女店主が,
絶世の美女だったらしい.
二人はドキドキしながら採寸などしてもらい,
翌日の演奏会にその美女を招待した.
さて翌日の演奏会.
ラジオで生放送もされていた.
曲目はシベリウスのバイオリン協奏曲.
(名曲中の名曲です)
ロストロポーヴィチは楽屋で
そのラジオ放送を聴いていた.
第1楽章,第2楽章と素晴らしい演奏を
オイストラフは聴かせてくれた.
そして第3楽章.
曲は突然最後の部分に飛んでしまったのだという.
オイストラフが間違ってしまったのである.
もう演奏は大変なことに.
なんとかオーケストラとともに
つじつまを合わせて終了させたが,
ロストロポーヴィチは,さあ大変なことになってしまった,
と思っていた.
なぜならこれから訪問するシベリウスの曲を
失敗してしまったのだから.
生放送だったから,たぶんシベリウス自身も
この演奏を聴いていたことだろう.
オイストラフはずいぶんと落ち込んでいるに違いない.
その晩,ロストロポーヴィチは,
オイストラフを気遣って,
ロシアから持ってきたウオッカを開け,
その話題に触れないようにしていた.
しかし,オイストラフは非常に上機嫌.
ロストロポーヴィチはとうとう我慢できなくなって
オイストラフに尋ねた.
落ち込んではいないのかと.
オイストラフは次のように答えたのだという.
(すみません,うろ覚えです)
「第1,第2楽章とうまく演奏できた.
第3楽章では,あの女店主が会場のどこにいるのか
気になってしまい,楽譜が吹き飛んでしまった.
しかし,もしかすると第1,第2楽章も
失敗していたかもしれない.
それが第3楽章の失敗だけで済み,
他の二つはうまくやれた.
たったひとつの失敗で
なんで落ち込む必要があろうか」
この答えにロストロポーヴィチは深く感動し,
以後,これをオイストラフの哲学と呼んで,
彼自身の人生における指針の一つとしたのだという.
私もこの話を聞いて,
素晴らしい考え方だと思った.
私も実践できたらとつねづね思っている.
ひとつの失敗が全体をダメにする,
と考えてしまうような完璧主義,悲観主義だけでは
人生うまくいかないのではないか.
こうした突き抜けた楽観主義も
時には必要である.
ロストロポーヴィチは,
反体制派のノーベル賞受賞作家を擁護したり,
その他の友人たちの活動を支援したりして,
ソビエトを亡命し(その後,
ゴルバチョフ時代に国籍復活),
苦難の道を歩いた人である.
小林さんは,なぜそんな危険なことをしたのかと
彼に尋ねたら,「友人をただ助けただけだ」と
答えたのだという.
ロストロポーヴィチのこうした生き方の根底のひとつに,
「オイストラフの哲学」があったのだ.
決してそれがご都合主義の
楽観思考ではないことがよくわかる.
2008年5月30日金曜日
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