2009年7月11日土曜日

怖い話

めまいがするほど忙しかった.
ようやく週末である.
仕方がないので,こうして大学で仕事をする.
家族にうしろめたさを感じる.
そしてこうした日に限って,天気がいいんだよなぁ.
あとで散歩に万博公園でも行ってこようかな.
芝生の上で本を読むのも悪くない.
(いけるかどうかは仕事次第だけど)

最近,カバンの中に入っている本のひとつは,
「新耳袋 第二夜」.
やっぱり怪談が好きなのである.

新耳袋は1冊に100個の短い怪談が
おさめられているシリーズで,
第十夜まである.
ちょっとした息抜きに読むのに丁度いいのである.
(さっきは,梅田の交差点で向こうから歩いてくる
美人の肩に,男の首だけが乗っているという話を読んだ)

基本的に人から聞いた話をまとめた,ということらしい.
だからストーリー的に凝ったものはない.
こんな不思議なことがあった,という事実を
並べるかたちでまとめられている.
これが逆に深くその背景を考えさせる理由になっている.
それがこの本を面白くしている.

この場合,幽霊がいるかいないかなんて
それが問題ではないのである.
(科学的に考えればいないに決まっているのだけれど)

なぜその怪談を怖いと思うのか.
その怪談がなぜ成立してきたのか.
そうしたことが私は気になる.
もちろん怖くも感じるのだけれど,
その怖さだけでなく,
怪談の背景に興味がわくのである.

例えば,その怪談が都市伝説である場合には,
その成立した背景がなにかしらあるはずである.
(心霊現象があったにしても,誰もそのことに
興味を持たなければ都市伝説にはならないからである)

そして興味深いことに同型の怪談や都市伝説が
日本のあちこちに限らず,世界のあちこちで
採取されることが多い.
そのことに私は強く惹かれるのである.

例えば,皿屋敷の怪談.
お菊という女中が皿を壊してしまい,
それをとがめられて殺され,死体を井戸に捨てられる.
その後,井戸からは「一枚~,二枚~,...」と
皿を数える声が夜な夜な聞こえるという...との
有名な話である.

これには,番町皿屋敷もあるし,播州皿屋敷もある.
その他,日本のあちらこちらで同型の話があるようである.
播州の話は,姫路城に「お菊の井戸」が残っていて
(私も見たことがある)
播州皿屋敷が元になっているのではないかということである.
(姫路城の話は,お家乗っ取りの話と横恋慕の話がからんだ
ものになっているけれど.
お菊は城主の毒殺を阻止したりして,
ずいぶんと勇敢な女性だったらしい)

しかし,日本各地に同型の話が採取されるというのが,
興味深い.播州の話が元になったとしても,
それが各地に広がり,そこに根付くというプロセスには
なにかしらの背景があったはずである.
そこに私は惹かれる.

怪談そのものも,誰もが幽霊がいたらいいなぁ,という
期待を暗に持っているからこそ,ここまで人気があるのでは
ないかと思うのである.
オカルトというものは,何度も否定されても
いつの間にか,またブームが起こるのだけれど,
これもどこかに,超能力があったらいい,とか
予言ができたらいい,とか,そうした思いが私たちの心の
中にあるからではないかと思うのである.
そのように思わずにはいられない人間の
心の働きにこそ私は強く興味を覚えるのである.
(ある人は,否定されても否定されても
またいつの間にか復活するようなこうした話を
「神話」と呼んでいる.
もとはユングなのだろうか?
「狼少女はいなかった」という本でもこのような「神話」が
話題となっている.この話はまた別の機会に)

とはいえ,そうしたことをゆっくりと考えることが
できるようになるのはいつのことだろう?
まずは仕事を進めなければ...
仕事が完了しない,それこそが私にとっては
怖い話なのである.

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