2025年6月29日日曜日

フォークト=カンプフ検査を誰か作ってほしい

 「フォークト=カンプフ検査」は映画「ブレードランナー」に出てくる,レプリカントと人間の区別をするための検査である。レプリカントは人間そっくりに作られた人造人間で,人間でないと見極めるためには,この検査を行う必要があるのだ。検査は,被験者に向かって心が動くような質問をする。そのときの被験者の反応を見て,レプリカントか人間かを判断するのだ。

映画では,ハリソン・フォード演じるブレードランナーであるデッカード刑事が,自分がレプリカントであると知らないレイチェルにこの検査を行い,彼女がレプリカントであると見抜くシーンが出てくる。このためにレイチェルは自分がレプリカントであり,自分の記憶が偽造されたものであると知ってショックを受けるのだけれど,そこまでわかりづらいレプリカントも100個程度の質問で判断できるとデッカードは答えている(普通のレプリカントであれば質問の数は20~30個程度らしい)。

今こそブレードランナーが必要になってきたと私は思っている。それは,この生成AIの発展が著しい現代で,フェイクかリアルかを判断できる能力が必要となってきたということである。

著名人が話している動画を見ても,その姿からリアルかフェイクかを判断するのが難しくなってきている。話している内容も,本人が話しているものなのか,誰かがシナリオを書いたものなのか,それともAIが考えた原稿なのか,私にはもう判断できなくなっている。誰を信じたらよいのか。。。

リアルとフェイクを見分ける基準はないだろうか?あるいは適切に見分けることができる質問はないだろうか?たぶんそれらの手段が共有された瞬間に,また新たな対抗手段が生み出されるだろう。そしてフェイクがありふれた世界がやってくるのだ。それは世界の終わりである。

そんな未来はすぐ近くに来ている。それはChatGPTを用いて書かれた学生たちの課題レポートを読んでいるとヒシヒシと実感する。

2025年6月28日土曜日

意識の状態は外部の世界に影響を与えられるか

 人間の思想や信条によって世界が変わるか,という話ではなく,人間のある意識の状態がその周囲の環境に影響を与えることができるか,という話。

幕末から明治の剣豪である山岡鉄舟は座禅を組むと家のネズミたちが静かになったという話が伝わっている。棟を走るネズミをにらむだけでネズミが落ちたとか,そんな話もある。しかし,この話には続きがあって,さらに鉄舟の修業が進んだ晩年では,写経をしていると身体の周りでネズミが遊んでいたとのことである。

宗教的哲人J.クリシュナムルティは宗教を否定していたが瞑想の重要性を説き,自ら瞑想は続けていた。彼の近くにいた人たちは,彼が瞑想を始めるとその周囲では神々しさにあふれた静謐さを感じることができたのだという。

このように人間の精神の状態が,周囲に影響を与えることは事実なのだろうか。決して物理的になにかが起こるわけではない。ただその精神状態が周囲の動物に影響を与えることはありうるのではないだろうか。そして山岡鉄舟の場合のネズミのように敏感な動物にはその変化がわかったのだろう。

心身統一合氣道の宗主 藤平光一先生が広島の宮島を訪れた時に,自然に宗主の周りに鹿が集まってきたのだという。一緒にいらした師範が,修業が進むとここまでの境地になるのかと感動したというお話を伺ったことがある。これも人間の精神の状態が周囲に影響を与えていることの証左かもしれない。

私が直接ご指導を受けていた合氣道の先生の話。居酒屋で酒席をご一緒させていただいているときに,周りがうるさいとおっしゃって,「これから静かにさせるから」とおっしゃった後に先生が心を静められて,その後周囲がだんだんと静かになっていったという体験がある。実は私も別の機会に真似をしたけれども,残念ながら居酒屋はうるさいままで,まったく周囲に影響を与えることなどできなかった。

このように,なにかしらの形で人間の意識の状態が周囲の人間を含む動物に影響を与えることは間違いないと思っている(モノを動かすような超能力とかではなく)。そして,そのためには自らの心を制御できることがその第一段階であることも理解している。ただ,それを自ら実証するのには,まだ私の修業が追いついていないのだ。

2025年6月22日日曜日

神の臨在を感じる

 アポロ計画で月面着陸をした宇宙飛行士たちには,その経験がきっかけで人生が大きく変わったという人が少なくないと聞く。月面で宗教的な儀式をおこなったり,帰国してから宗教家になった人もいる。究極の極限状態において,人間の精神(脳)はさまざまな反応を起こしているということなのかもしれないが,宇宙空間において神の臨在を感じたという人もいる。神様の姿を見たわけではなく,その存在を感じるだけでも人は大きく変わる可能性があるらしい。

私が以前に文系のある大学教授からお伺いした話。その方はそれまで全く宗教的な関心などもたず,世界のあちらこちらを訪れ研究を行っていたという。それがあるとき,奥様とふたりでフィリピンのあるコテージに滞在された。その日の夜,窓から部屋に風が吹いてカーテンが揺れるのを見ていた時に,突然,神の臨在を感じたのだという。姿は見えないけれど,はっきりと感じたとおっしゃっていた。そして翌日もまた神の臨在を感じたのだという。その先生はその後すぐに,キリスト教に入信された。話を伺っているとき,たいへん自信をもってその神秘体験を話していただいたことをよく覚えている。

すこし感じが違うのだけれど,合氣道の開祖 植芝盛平先生も修行において,突然自分の身体が黄金に光り輝き,宇宙と一体となった感覚を得たといわれている。そこから技の質が変わったのだとか,言われている。

最近,どこかの記事で読んだけれど,複数の宗教家に薬物でトリップさせる経験をさせた実験でも,その後の宗教的生活が大きく変わった人が多かったという結果だったそうである。

つまりは,神秘体験は一種のトリップ体験であり,そうした意識の変性を経験してしまった脳は,それまでと異なる価値観で動作するということなのかと思う。また人間はそうした経験をひとつするだけで,価値観,性格,武道における技の質などが大きく変わりうる可能性が高いことを示している。

変性意識には誰でも遷移できる。しかし,それが神秘体験となるためには,なにかしらの条件が必要なのだろう(薬物によるトリップは安易な方法なのかもしれないが)。伝統宗教に伝わる数々の精神修行の方法は,この体験をするために工夫が重ねられた方法なのかもしれない。もしかして,それは伝統宗教における「魔道」に落ちることなのかもしれないけれど。

2025年6月21日土曜日

人材を育てるには金と時間がかかる。特に核融合工学者は。

 先日テレビを見ていたら,竹中平蔵が「核融合に期待する」と述べていてたいへん驚いた。高市早苗が以前から核融合に注目していて,JT-60SAのプラズマ点火式にも参加していたことは知っていたけれど,全然興味がなさそうな竹中平蔵がテレビで核融合について言及していたのを見て,現在の核融合の盛り上がりの大きさをあらためて感じたのである。

核融合炉は,最先端技術の粋を集めた巨大な工学的装置であり,もう半世紀以上も研究開発が進められている。現在の原子炉である核分裂炉がマンハッタン計画の原子力爆弾開発から数十年で実用化したのに対し,核融合炉はいまだ開発の途中にある。現在は,フランスに国際熱核融合実験炉ITERが2030年代半ばのファーストプラズマを目指して建設中であるが,ITERはあくまでも実験炉であり,発電炉としての実証はDEMO炉と呼ばれる次の実証炉で行われる計画である。つまり,まだまだ先の話なのである。

ところがこの2,3年,核融合関係の民間スタートアップ企業が世界のあちらこちらで設立されていて,日本でさえも数社が名乗りをあげ,この分野への投資が過熱していることが話題になっている。日本では企業による協議会が発足し,すでに50社以上が参加を表明しているという。さらに政府としても,核融合を10番目のムーンショット目標に選んでいて,国をあげてのサポートが期待されている。

私はこのように核融合が注目されることはたいへん良いことだと思っている。そして多くの資金がこの分野に流れ込むことも大いに結構だと思う。しかし,それが一時期のブームで終わることを大いに危惧しているのである。

1980年代~1990年代においては,核融合にもそれなりの予算がついて,常に開発が行われていた。核融合のプラズマ試験装置であるJT-60やLHDが建設されたけれども,装置が完成する頃には次の改造計画がすでに立ち上がって開発が進められていたものである。なぜなら,もちろんプラズマの性能を高めるために最新の知見を反映する必要があるからだけれど,それよりも予算を継続的に得るためであることが大きかった。それは人材を確保するためである。

核融合の研究開発を進めるためには,日本のトップメーカーに協力してもらわなければならず,またそのメーカーの中でもトップレベルの優秀な人材を出してもらわなければならなかった。当時は各社から研究所に多くの優秀な技術者が出向していて,共に研究開発,設計を進めていたものである。

しかし,核融合にお金がつかなくなる時期がそのあとにやってきた。核融合がお金を稼げない分野になってしまったとたん,優秀な人材は各社に帰って行ってしまった。なぜならば彼らは優秀なだけに,他の分野で多くのお金を稼ぐことができる人材だからである。多くの企業からの出向人が研究所から去って,別の分野に転換されていった。その結果起こったのが,核融合にかかわる技術の継承の断絶である。継承されていく技術の多くは,設計書や報告書に残るのではなく,参画していた各個人の経験として残されていくのである。その人たちが核融合の現場を去るということは,その技術が他分野に行ってしまう,あるいは消失してしまうことを意味する。

そして現在,新たに核融合に多額の資金が投入されたとしても,以前に去って行った人たちが戻ってくるわけでもない(多くの人は定年を迎えるだろうし)。各企業に残っていた技術のスキル,ノウハウはもうない。

また一から人を育てればよい,という話になるけれど,工学者を育てるには,そしてそれが核融合分野だった場合,多くのお金と時間がかかるのだ。核融合工学は経験工学の性格も強いので,また新たに知識と技術を蓄積していくにはたいへんな労力と時間を要することは想像にかたくない。そうした継承は,QSTやNIFSのプロパーの研究員,技術者たちが担ってきたはずだけれど,やはり企業の技術に頼る部分も多いのだ。

一時期に資金が大量に投入されるのも良いけれど,人材を確保し技術を育てていくためには,資金を継続的に確保していくことがなによりも大切なのだと私は強く思っている。今回の核融合への盛り上がりが一時のブームで終わらないよう,研究機関,企業の方はぜひ政府や投資家相手にうまく立ち回って欲しいと願っているのである。


#ITER計画自体も資金不足からどんどん計画が遅れていることが報道されている。ITERの運転開始は一体いつになるのだろうか。

2025年6月15日日曜日

「それが答えだ!」と「ワンダフル・ワールド」

 「それが答えだ!」(1997)というテレビ番組について少し紹介したけれど,そういえば主題歌はウルフルズの「ワンダフル・ワールド」という曲だった。これは,サム・クックの「ワンダフル・ワールド」のカバーで,英語っぽく聞こえる日本語歌詞が印象的な曲だった。

たとえば,「どの町までいけば~」という歌い出しは,原曲の"Don't know much about history"というところに明らかにかぶせて作詞されていて,その他の日本語の歌詞もせつなくて良い歌だった。

しかし,ウルフルズには,ずばりテレビ番組のタイトルと同じ「それが答えだ!」(1997)という曲があって,こちらは全く曲調が異なる元気な作品である。

なぜ同じタイトルなのか?ここからは私の全くの想像だけれど,まず「それが答えだ!」というお題でウルフルズに番組主題歌が依頼されたのではないか。それで作られた曲が「それが答えだ!」。しかし,この曲はあまりに番組内容とマッチしていなかったので,急遽「ワンダフル・ワールド」が主題歌にあてられたのではないだろうか(主題歌といってもたぶん,毎回最後に流れる曲であったと記憶している)。

と思って(ここまで書いてきて),Wikipediaを見てみたら,やっぱりそうだった。「それが答えだ!」は本来ドラマ主題歌になるはずだったのだ。30年近く思っていた謎がスッキリした。

くだらないことにずっと頭のリソースを使い続けていた。さっさと調べればよかったと反省。。。


話変わって。

「ワンダフル・ワールド」は日本語訳すれば「素晴らしい世界」となり,ルイ・アームストロング「この素晴らしき世界」("What a wonderful world")を思い出す。調べてみると,この曲よりもサムクックの"Wonderful world”の方が早く発売されているらしい。

"What a wonderful world"となるとこのブログタイトル"What a wonderful electrical engineering life!"(「素晴らしき哉,電気工学的人生!」を思い出す人もいるだろう(いや,いないけど)。こちらは,映画「エクソシスト3」に由来している。いや正確にいうと「エクソシスト3」の中に皮肉として語られている(天使が人間を救うという)映画「素晴らしき哉,人生!」にちなんでこのブログのタイトルはつけられている。そう残念ながら,このブログタイトルは皮肉なのだ。

2025年6月14日土曜日

マーラー交響曲第5番

 マーラーの交響曲の中で最もポピュラーなのは,第1番と第5番なのではないだろうか。

第1番は,私の記憶が確かならば,黒澤明監督の映画「乱」の予告編で第3楽章が流れていた。それが私のマーラー作品の初体験だったかもしれない。

大学に入学したとき(1980年代),一般教養科目で「音楽関係」の講義を受講しようと思って,その第1回目を聴きにいった。内容なんて全然覚えていないけれど,先生が「最近はマーラーも演奏会で取り上げられるようになってきた」と話したことだけはやけにはっきりと記憶に残っている。日本において,マーラー作品の演奏はその程度だったのである。

マーラー作品は,私は大好きだけれど,オーケストラ構成が大規模になり,ポピュラーなメロディーもそんなにないから,一般の人たちに浸透するまでに時間がかかったのではないだろうか。第8番なんて「千人の交響曲」なんて言われるくらい大規模だし。

しかし,マーラーの有名な言葉,「私の時代がやってくる」の通り,現在はマーラーは演奏会に多頻度で取り上げられる人気作品ばかりである。私もこれまで,3番,4番7番を生演奏で聴く機会に恵まれている。ただ,マーラーを聴きにいくのは比較的クラシックの固定ファンで,まだまだ一般に十分に受け入れらているようには感じられないのも正直なところである。

そんなマーラーの交響曲であるが,第5番についてだけは,いやその第4楽章だけは,人気曲になった時期がある。もともとこの曲の第4楽章「アダージョ(アダージェット)」は,映画「ベニスに死す」で用いられたとかで,ある程度知られていたらしい(私は見たことがないけれど)。曲自体は非常にゆっくりとした美しいメロディーをもっており,ロマンティックなBGMとしては最高である。

しかし,この曲を有名にした最も大きな出来事は,「アダージョ・カラヤン」なる,カラヤン指揮の複数の局の美しい緩徐楽章や小品を集めたCDが発売され,この作品集が世界的に(もちろん日本でも)セールスをあげたことである。1995年の頃らしい。今では,アダージェットを聴いて「それだ」とわかる人は,またずいぶんと少なくなっていることだろう。

第4楽章以外はどうかといわれると,たぶん知っている人はほとんどいないだろう。。。不吉なトランペットのファンファーレから始まる第1楽章はかっこいいからぜひ聴いていただきたいのだけれど。

地上波のテレビドラマでこの曲の一部が流れたこともあるのだけれど,こちらはあまり話題にならなかった。このドラマは「それが答えだ!」(1997年)である。三上博史主演の天才指揮者がわがままが原因でポストをなくし,日本の田舎の音楽部の顧問になって過ごす時間を描いたもので,当時まだ若かった藤原竜也や深田恭子が高校生役を演じている(ついでに藤原紀香もピチピチのお姉さんとして出演している)。萩原聖人,羽田美智子,酒井美紀が三上博史を囲んで騒動が起きていく話で,あまり視聴率は上がらなかったみたいだけれど,私は楽しく見ていた。

確か,最終回。三上博史がプロのオケを振るシーンがあったのだけれど,その曲がマーラーの第5番だった。終盤,最終楽章のフィナーレの場面があり,三上博史の指揮姿が映った。そこで私が思ったのは,ちょっとリズムを刻みすぎの振り方じゃないの?ということである。もしも皆さんがこのドラマを見ることがあったら,ぜひ確認してほしい。でもこのドラマでも第5番が有名になることはなかった。。。

マーラーが予言した通り,彼の作品が演奏会で演奏される時代にはなったが,一般の人々が口ずさむほどポピュラーになるまでは,まだ時間がかかりそうである。長大な交響曲が多いマーラーだけれども,第5番はその中でも演奏時間が短く,曲もわかりやすいので,マーラー世界の入門作品としてはもってこいなのである。おススメ曲である。

2025年6月8日日曜日

長嶋茂雄,夢と憧れの喪失

 長嶋茂雄さんの訃報を聞く。多くの人が思っているだろうけれど,やっぱり昭和の時代が終わっていくのを感じる。しかたないことだけれど,寂しい。

私が長嶋茂雄を認識したのは,小学生2~3年生の頃。近所の子供たちと公園で「手打ち野球」をし,父親と少しキャッチボールをするくらいでしか野球に興味がなかった私は(今でも運動音痴のままだが),長嶋茂雄などよく知らなかった(と思う)。

それが,近所の子供がチケットを手に入れたというので,一緒にミズノ(だったかな)の野球イベントに参加した際,最後にくじ引き大会があって,確か2等が当たったのだ。景品は「ミスタージャイアンツ 栄光の背番号3」(うろ覚え)というLP2枚組のレコードで,たいして野球に興味のない私はとまどったことを覚えている。

そのレコードには,長嶋のインタビューやらホームランのときの実況,そしてあの引退のときの有名な挨拶などが録音されていて,私も何度か針を落として聴いたはずである。けれど,正直,長嶋の現役時代を知らない私にとってはあまり関心あるものではなかった。

私が知っている長嶋はむしろ監督時代のものである。私の父がアンチジャイアンツだったので,私は長嶋監督の敗戦時のつらい表情をよく覚えている。もちろん,長嶋は監督としても日本一になったし,何度もリーグ優勝もしているから,笑顔もいっぱい見ているはずだけれど,監督時代のなぜか苦渋の表情の記憶ばかりがある。

しかし,私にとって長嶋茂雄で最も印象的なのは脳梗塞で倒れて以降の彼の姿である。超一流の野球人であった彼は,半身がうまく動かなくなってしまってからの自分をどう考えていたのだろうか。それがずっと気になっている。

脳梗塞後も彼はテレビ等に出演していたが,そのリハビリをする姿に私は大いに感動していた。内心は悲観することも多々あったはずだけれど,いつも明るく,笑顔で,つらいリハビリに挑んでいた。私は超一流選手であった人が不遇の状況にあるときにどのように生きていくのかにたいへん興味があるのだけれど,長嶋のリハビリ人生には大いに励まされてきた。

リハビリ施設で長嶋に会って人生が変わったという俳優 塩見三省のエピソードが私は大好きである。リハビリをしなければならないというつらい生活の中でも,長嶋茂雄は太陽のように輝いて,人に勇気と笑顔を与えている。その事実に長嶋という人の器の大きさを感じる。

彼の訃報を聞いて涙を流している人たちがテレビで報道されている。しかし,長嶋茂雄に比べてずっと若い人たちばかりである。長嶋茂雄は享年89歳であったから,一緒に青春を過ごしたという同年代の人たちは少ないだろう。むしろ泣いているのは小さいころ長嶋茂雄に憧れていた人たちなのだと思う。彼らにとって長嶋茂雄は夢,憧れだった。長嶋茂雄の逝去は,彼らにとっては夢の喪失なのである。


#「長嶋・王の野球教室」という本も私は買ってもらったはずである。けれど全然,野球なんて練習しなかったから,いまだにゴロもフライもまともにとれない。

2025年6月7日土曜日

新宿のレストランで「アルファルファはいかがですか」と尋ねられた

 中学1年生の夏休み,東京へ親戚を訪ねて行ったときの話

訪ねていった親戚の姉妹は,私を東京旅行の最後に新宿の三角ビルに連れて行ってくれた。ビルの上階の見晴らしの良いレストランで,最後の夕食としてハンバーグステーキを食べたのである。

テーブルにウェイターがやってきて,私はハンバーグを頼んだのだけれど,そのときにソースを聞かれたことに驚いた。それまでハンバーグの味付けといえば,焼いたときに出てくる肉汁に,中濃ソースとトマトケチャップを混ぜて作る家庭ソースしか知らなかったので,デミグラスなんて言われても味を想像することができなかった。

次にサラダ野菜が給仕さんが押してくる移動式ワゴンに乗せられてきて,そのなかからニンジンやレタスなど各人の注文に合わせて取り分けてくれることに驚いた。ここで

「アルファルファはいかがですか」

給仕さんに尋ねられたことを今でもはっきりと思い出す。カイワレ大根でさえ新潟ではメジャーではなかった時代に,それがどんなものかなんて全く思いもつかなかった。

サラダにかけるソースだって聞いたことも無いソースばかりだった。家庭科の授業でサラダオイル,塩,コショウでフレンチソースを作ったことはあったけれど,レストランで見たフレンチソースは白いソースで自分が習ったソースとは異なるものだった。そのほか,給仕さんはサウザンアイランドソース,シーザーサラダソースなどを紹介してくれたけれど,まったく想像がつかない私が結局選んだのは「ライトイタリアン」だった。これが一番,家庭科で習ったフレンチソースに近い見た目だったからである。案の定,想像していたソースに近い味だった。

肝心のハンバーグの味なんて覚えていない。はっきりと覚えているのは,サラダワゴンのアルファルファとライトイタリアンソースをオーダーしたことだけ。でも,レストランだけでなく,その東京旅行に大満足したことはよく覚えている。

2025年6月1日日曜日

原宿の喫茶店で人生初のプリンアラモードとホットサンドイッチを食べた

 中学生1年の夏休みに東京の親戚を一人で訪ねていったことがある(1980年?)。その頃は,東京にも何軒か親戚がいて,いくつかの親戚の家にお世話になる予定だった。

そのうちのひとつが,新潟の本家から上京して働いている姉妹であって,東京見物に付き合ってもらった。たぶん,私が中学1年ということもあったからだろう,浅草や東京タワーとかではなく,若者の街「原宿」を案内された。竹の子族はいたとは思うけれど,一世風靡はまだいなかった時代である。

正直,その頃の原宿がどんな街だったのか,全然覚えていない。私はTシャツになぜか白いテンガロンハットをかぶって(写真がどこかに残っていたはず),その姉妹の他にいとこの女の子と一緒に原宿を歩いたのだと思う。

原宿で唯一覚えているのは,おしゃれな喫茶店に入ったこと。メニューを見ても理解できないものがいっぱい並んでいて,すごく緊張した。

「プリンアラモードってなんですか?ブリンと違うんですか?」

と尋ねたことを今でも覚えている。親戚のお姉さん方は笑いながら,「注文してみればいいよ」と言ってくれて,私はサンドイッチと一緒に頼んだ。

そのプリンアラモードは,想像を超えたプリンだった。いまではどこの喫茶店でもある(スーパーでもカップで売っている)ありふれたメニューだけれど,当時の田舎者の私には,まさに初めての「アラモード」だった。なんたって,大きな皿のプリンの脇に生クリームとサクランボが乗っていて,周りがリンゴなどのフルーツで飾られた,ゴージャスで夢のようなプリンだったのである。あまりの華やかさに味なんて全く覚えていない(まぁ,40年以上も前に食べたプリンの味なんて誰も覚えちゃいないけど)。

でもその時,プリンよりもっと驚いたのが,サンドイッチだったのである。なぜって,それは焼かれたトーストの間にゆで卵などの具が挟まっていたから。そう,ホットサンドイッチを食べたのもそのときが最初だったのである。サンドイッチには野菜やハムなどがあふれんばかりに挟まれていて,ボロボロ落としながら食べた。そのマヨネーズも本当に美味しかった。こちらの味はいまでもぼんやりと思い出せそうである。

それまで,白くて薄い三角食パンで挟まれたサンドイッチしか食べたことがなかった私が,生涯サンドイッチ好きになったのはこの時の衝撃が忘れられなかったからかもしれない。東京は,新潟となにもかもが違う最先端の街なのだとつくづく思ったのである。

金運上昇で有名な高龍神社に参拝する

私は 神社を参拝することは大好き なのだけれど, まだ地元長岡の神社をすべてお参りできたわけではない。今回は,金運アップで有名な(らしい)高龍神社にお参りしてきた。 初夏,学会で長岡にいらした方も「高龍神社」にわざわざ参拝に出かけられていたくらい金運アップで全国的に(一部,龍神フ...