2024年8月31日土曜日

降り積もれ孤独な死よ

 テレビドラマ「降り積もれ孤独な死よ」を観ている。主演の成田凌が好きだからということもあるが,物語自体がたいへん面白いからである。

本作品は殺人事件を追うミステリードラマなのだけれど,その裏には「親から虐待を受けた子供がその暴力の連鎖を断ち切ることができるか」というかなり重たいテーマがある。私はこうした重い話が苦手なのだけれど,ストーリー自体は毎回毎回大きな展開があって次はどうなるのだろうと気になってしまって結局見続けている。

まず事件の始まりが,子供たち13名が部屋に閉じ込められて餓死させられるところから悲惨である。その子供たちは親からの虐待から逃れるため,山の離れた屋敷に連れてこられたという,そもそも悲しい設定であるのに,部屋に閉じ込められて餓死させられてしまう。その話だけでもつらいのに,生き残った子供6名のうちひとりが成田凌の弟であって,成田凌自身も虐待が原因なのか,暴力衝動によって連続傷害事件に関わっている。そして残された6名も次々と殺されていく。とにかく話が暗い。そしてどんどん謎が深まっていく。

キーとなっているのが生き残ったひとりの女性なのだけれど,その女性のなんとなく宙ぶらりんな性格を吉川愛がよく演じていて,これもかなり良い印象である。

このドラマの特筆すべきところは,登場人物の誰もが闇を抱えているということである。親に虐待された子供,虐待してしまった親,親に捨てられた子供,そしてウソによって友達を自殺に追い込んでしまった女性記者。どれもだれもが重い。こうした悲しみを連続しておこる殺人事件を通して描いていく。それがすごい。最終的にこのドラマは何を描きたいのだろう。。。

正直にいうと,子供の虐待のテーマはつらいし,人がどんどん死んでいくのも悲惨で,こうしたドラマを見続けるのは私もかなりつらいのだけれど,それでも次の展開が気になってみてしまう。毎回新しい展開があり,全然飽きない。それだけ脚本が素晴らしいということなのだろう。この悲しい物語がどのような形で決着されるのか,最後まで見届けようと思っている。

2024年8月25日日曜日

反復練習の意味

 私は「努力」は嫌いだけれど,「稽古」は大好きである。つらいと感じることも多いけれど,合氣道が好きなので稽古は大好きなのである。

「努力」はしたくない,と私は言っているけれど,決して反復練習を否定しているわけではない。反復練習にはそれはそれで「手続き記憶の深化」と「量質転化」の意義があると思うのだ。

私の考えでは,合氣道においては,「技は正しく行えば誰でもできる」と考えている。「バーベル100kgをあげなければできない」とか,「100mを12秒以内で走らなければできない」という技はない,と思う。そもそも武術の技というものは,肉体的な制約とは関係なく行うことができるものでなければ意味がないと私は信じている。すなわち「強弱」ではなく「正誤」が大切なのである。(そのため,「技ができる」ことと「強い」ということは違うことだと思っている。このことについてはいつか書きたい)

ただし,いついかなる場合においてもその技を正しく行うことができるためには,たとえば自転車の乗り方を身体が覚えるように,無意識に身体が動くように身につけなければならない。すなわち「手続き記憶」である。その深化のためには反復練習が必要であると思う。

一方で,空手における「突き」の反復練習は「量質転化」を引き起こすために必要であると考えている。初めて「突き」を習った人の「突き」は,外から見ていて不安定そうであり,どうも定まっていない。一方,熟練者の「突き」は見ていて気持ちがいいくらいに「決まっている」。同じ「突き」であるのにそこには大きな隔たりがあり,長い稽古期間においてどこかで「量質転化」が起こっているのである。この「量質転化」のためにある程度の反復練習,すなわち「量」をこなす必要がある。何万と「突き」を繰り返すことによって,それを深化させ,必要なタイミングで必要な威力で行うことができるようになるのだ。「千日の稽古を鍛とし,万日の稽古を練とする」という心構えが大切である。

それでは反復練習に必要なものはなにか,というと「飽きずに工夫しながら稽古を続けるマインド」である。そう,反復練習の敵は,すぐに心身が疲労して,ただ動作を漫然と繰り返すだけになってしまうことである。それを克服し,ずっと集中力を維持して稽古を継続するためには,やはり「好き」になることしかないと思う。まさに「好きこそものの上手なれ」なのである。

2024年8月24日土曜日

努力は嫌い

 私は「努力」という言葉が苦手で,正直あまり好きではない。自分は「努力」をするかといわれれば,確かに努力はしているけれど,決して好きではない,いやはっきりと嫌いである。

なぜ「努力」が嫌いかというと,そこにはまずどこかで「嫌なことをやっている」というニュアンスが含まれるからである。

もちろん,私だって仕事や合氣道において集中してタスクをこなしたり,反復練習したりする。しかし,それらはなるべく「努力」ではなく,「好きだから」という理由で行うようにする。そのために「そのタスクや稽古が好き」となるようにマインドをうまく制御するのだ。「イヤイヤ」感をどれだけなくせるか,ということが大事なのである。「イヤイヤ」感を持ちながら仕事や稽古をすると,どこか心の中でブレーキをかけながら行動をしていることになる。それはなんて非効率なことだろう。

もちろんタスクは好きなものばかりではない。そんなときはそのタスクの先にある大きな目標を考え,そのために必要なのだと認識してから,それを粛々と,淡々とこなしていくのである。あるいは給料のためと思って,「イヤイヤ」感を少しでも軽減してタスクに取り組むのである。そうすればそれは決して「努力」ではない。「当然行うべきこと」なのである。

「努力」が嫌いなもうひとつの理由は,その言葉にどこかで「報われることを目的としている」ニュアンスが含まれているからである。多くの人も言っているけれど,「努力は必ず報われる」とか「努力は全く無駄ではない」ということは,私も完全に間違いだと思っている。それはもちろん報われることもある。しかし,すべての努力が報われるかというとそれは絶対ない。そして「報われる」ことを前提としている努力は,その動機のためにどこか不純で,それが報われなかったときに,失望,絶望,恨みなどの負の感情が心を侵食する。それが大嫌いなのである。では「努力」が報われなかったらその物事をあきらめるのか?ということになる。

心に負の感情を抱えながら行う「努力」ではなく,「好きだから」あるいは「それが必要だから」ということで物事に取り組むことができれば,たとえそれが報われなくても,それがたいへんにつらいことでも心の中の達成感を得ることができる。そんな風に思うので,「努力」はしたくないのである。

#科研費などの申請書には当然のようにエフォート〇〇%などと書き込んでいるけれど。

2024年8月18日日曜日

自分の人生に大きな影響を与えたものはなんですか? (2) ~猫の妙術~

 「自分の人生に大きな影響を与えたものはなんですか?」という質問の回答を考えていて,意外に私の人生・考え方に大きな影響を与えている物語があるということに気づいた。

それは,「猫の妙術」である。Wikipediaによれば成立は18世紀初めらしい。大ネズミを退治するために,近所のいろいろな猫が借り出されてくるのだけれど,ことごとくうまくいかない。しかし,最後にのっそりとした古猫が登場しあっさりと大ネズミを捕えてしまう。その夜,猫たちがあつまり,各猫がおのれの達している武術の境地を披露しつつ古猫に教えを乞うという話である。

初めて私がこの話を知ったのは,たぶん大学時代によんだ大森曹玄の「剣と禅」に紹介されていたからだと思う。最後の古猫の話は荘子の「木鶏」に似ていて,たいへん興味深かった。その後も,甲野善紀氏の「剣の精神誌」にも同作品が詳しく紹介されているのを読んだりして,いろいろと考えるところがあった。

Wikipediaの解説を見ると,「武芸者の質も落ちた為に、分かりやすく書かれた兵法書」とあり,がっくりとするが,確かにわかりやすく漫画チックに書いてあるのが面白い。あちらこちらの流派の武術の伝書にこの話が含まれていたという話もあるから,それなりに定評があったものだとは思われる。

私も,確かに「ありがたい」と思って読む文章ではなく,漫画のように読んでいるけれど,そこに書かれている猫の境地には到底達していない。そう思うだけでもこの作品の価値はある。そして18世紀にしてこの武術の心境が述べられていること自体が驚きである。

私の武術に関する考え方を形成するうえで,影響を与えたことは間違いないと思う。未読の方にはぜひおすすめである(短い話だし)。

2024年8月17日土曜日

自分の人生に大きな影響を与えたものはなんですか? (1) ~映画,小説,漫画,人物編~

 「自分の人生に大きな影響を与えたものはなんですか?」という質問がある。雑誌などでは多くの著名人たちにこの質問をして,たとえばその回答を集めて本100冊の特集などが組まれたりしている。特集されるのは映画や本,漫画などの作品が多く,やはり人は物語に影響を受けるということを証明しているようだ。

しかし,自分にこの質問がされた場合にはなんと答えたらよいのか,回答にずいぶん苦労する。思いつくままに挙げてみると。。。

映画では「ロッキー」なのかな。敗者の美学がそこにはある。あとは「CURE」。人間の精神は弱いということ,暗示の強さについて考えさせられた。そのほか,面白かった作品は山のようにあるけれど,自分の人生に影響を与えたのか,といわれるとなかなか見つからない。

小説の中で選ぶのも困ってしまう。吉川英治の「宮本武蔵」,フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」などかな...村上春樹の「ネズミ(羊)」シリーズや,チャンドラーの「ロング・グッドバイ」も人が変わることの虚しさを感じさせてくれる。一方,池波正太郎の「剣客商売」の主人公の洒脱な生き方にも憧れる。

漫画も選ぶのに困ってしまう。それでいて現在私の本棚にある漫画が自分の人生に影響を与えたかと言われると,そうでもない。ジムや稽古に行くために気分を上げようとして読んでいたのは「修羅の門」をはじめとする格闘技漫画かな。松本大洋の「ZERO」にも意外に影響を受けているかもしれない。

そして人の生き方としては,カラヤンなのかも。勝海舟もいいなぁ。

こうして思いつくままに挙げてみても,それぞれが少しずつ私という人格を形作っているような気がする。このほかにも「論語」や「孫子」,「伝習録」などの古典も挙げたいし,実は「ゴルドベルク変奏曲」など音楽自体にも影響を受けているような気もするので,いつかゆっくりと掘り下げて考えてみたい。

2024年8月14日水曜日

「隠されたもの」を探すために武術を稽古する

8月12日は振替休日だったのに,休日更新を心掛けているこのブログをお休みしてしまった。ということで,お盆休みにひとつ自己満足的な記事を書いてみたい。

私はオカルトが大好きなのだけれど,それはなぜかと考えてみた。

まず,「恐怖」は自らの命を守るために存在する人間の根源的な本能に基づく感情であるから,食欲などと同様に人間はその感情から逃れることができない。一方で,「恐怖」を感じると「自分が生きている」と実感することができる。なぜならば自分の命や存在が脅かされることによって感じる感情だから。毎日の生活が社会の虚構に浸食されている中で,「恐怖」は自分の存在を実感させてくれる。

次に,「人間は答えを追い求めてしまう」動物だから。人はそこに謎があれば,「なぜ」と知的探求が始まってしまう。そうした本能から人間は文明を築いてきたのだけれど,逆に答えが与えられなければずっと不安な状態に置かれてしまう。人間が安心するためには,そこに(科学的でなくとも)答えが必要なのである。「幽霊」や「妖怪」の存在もそうだし,「呪い」や「祟り」もそうである。古来,自分の子供が事故にあったとして,「なぜうちの子が」と嘆く親の問いに,実際はわからなくとも(あるいは偶然であったとしても)なにかしらの答えが必要なのである。「妖怪のせい」「呪いのせい」,「祟りのせい」,そのように考えることで,人は心に平安を維持してきた。人間の社会的生活には常に「問い」と「答え」が必要なのである。

「オカルト」という言葉には,もともと「隠された」という意味が含まれているという。したがって,人間が「答え」を見つけようとして隠された神秘である「オカルト」を追い求めてしまうのは,仕方がないことなのである。

私が「武術」に興味をもつのもまさにその点なのである。「武術」には多くの心理的な技術が存在する。そして古来,神秘的・宗教的な手法が存在する。そこには隠されたなにかしらの真実があると私は信じている。まさに「オカルト」なのである。その謎があるかぎり,やっぱり私も「答え」を追い求めたいと思っているのである。。


2024年8月11日日曜日

当事者でもない人が誰かの失敗を非難すること

 パリオリンピックももう最終盤である。日本の選手の活躍は本当に素晴らしい。選手の皆さんはたとえメダルは取れなくとも,オリンピックの場に立てることだけでも誇り高きことなのである。

なのに,ネットでは選手を誹謗中傷する人が多いのだという。本当に悲しい。

最近は,誰かの倫理に反する行動や失言に対して,非常に厳しく攻撃することが多い。倫理観,価値観などは人それぞれ異なっていていいのだけれど,それをもとに人を非難するのはよくないことのように思う。

特に,その状況にまったく利害関係のない人がそうした人や物事を好きなように外部から叩くのはちょっと違うのではないかと思う。たとえばオリンピックなんてほとんどの人が関係ないのだから,選手を応援・称賛することはあるにしろ,非難なんてできないと思う。もしも選手を非難できるとしたら共に戦った人たちだけで,そして誇りをかけて戦ったその人たちはたぶん非難することなどないだろうと思う。それなのに,結果が悪いとか,態度が悪いとか,性格が悪いなどと言う人がいる。

オリンピック選手に限らない。最近は著名人が不倫やら暴言やらで失敗すると,徹底的に叩かれる。確かに彼らには倫理的には問題があるかもしれないけれど,当事者でない立場の人が非難するのはちょっとおかしいと思う。当事者同士で納得が済むまで話し合えばよいのである。利害関係のない当事者以外のものが口をはさむ必要はないし,はさむべきではないと思う。

そのように人を非難する人は,自分が正義の側に立っているという優越感があり,それでいて自分は攻撃されない安全地帯にいるから,言いたい放題を言う。ネットだと匿名性が高いからさらに言いたい放題である。

スマイリーキクチさんの事件を思い出す。デマをもとに掲示板に中傷コメントを書いていたのは,普通の生活をしている人たちだった。「ムシャクシャしていたから」,「生活に不安があったから」などという理由で,キクチさんを中傷し続けていたという。現在のオリンピック選手,著名人にひどい言葉を投げつけている人たちもそんな普通の人たちではないだろうか。

なぜか私は村上春樹の小説「沈黙」を思いだす。人々が無批判に社会に迎合し,一方で感情のままに非難を吐き続ける。そこには共通点があるかもしれないと思う。私は「集団」,「匿名」というものが嫌いなのだろう。自分は切にそうはなりたくないと思っている。

2024年8月10日土曜日

私のオカルト好きの原点「妖怪大図鑑」

 私はオカルトが好きで,夏は涼を取るために怪談が特集されるのでワクワクする。講談の世界だって,「冬は義士,夏はおばけでメシを食い」などという言葉があるくらい,「四谷怪談」(赤穂義士の話のひとつでもある)や「牡丹燈籠」,「真景累ヶ淵」など有名な怪談が語られる(落語もだけれど)。

最近は「心霊特集」という番組が作られにくくなっているらしく,「本当にあった話」や「霊能者」のような言葉を使うのがタブーのようである。小学生の頃は夏休みの昼間にテレビをつければ,新倉イワオさんの「あなたの知らない世界」が週帯で特集されていたりして,「心霊写真」や怖い話の「再現ビデオ」に震え上がっていたものである。

中学になっても,高校になっても,こうしたオカルトが大好きで,新潟市では深夜「11PM」の裏番組あたりに心霊番組を毎週やっていたのでいつも見ていた。ドキュメンタリーとして放映されていて,狐に憑かれた少女の除霊や,体に文字がみみずばれとして浮き上がってくる映像,そして金粉現象など,毎週毎週夢中になってみていたものである。(番組名が思い出せない。小松方正さんなどがレポーターとして出演されていた)

なぜこんなにオカルトが好きになったかというと,もちろん子供のころからこの世界とは異なる世界に憧れがあったからなのだけれど,極めつけは小学生低学年の頃に「世界怪奇シリーズ 妖怪大図鑑」(黒崎出版)を買ってもらったことである。内容はすっかり忘れてしまったけれど,たぶん鳥山石燕などの妖怪を下敷きに図鑑が構成されていたように思う。面白いのだけれど,こわい。でも怖いもの見たさで読みたくなる。だから私は押入れの中で懐中電灯で読んだりしていた。なんども怖くて捨てようとしたのだけれど,捨てられず,結局各ページ綴じがボロボロになるまで読み込んだ。私の妖怪観はこの本によって作られたのかもしれない。

現代の子供は「妖怪ウォッチ」は知っていたとしても,もっと陰湿な日本情緒たっぷりの妖怪や幽霊,お化けの世界になじみがないのだろうと思う。背筋が凍るような物語から安全に隔離されている。それが本当にもったいないと思う。小川未明の「赤いろうそくと人魚」のような世界こそ,日本の陰影の美しさなのだと思うのに。

2024年8月4日日曜日

リッカのマークは,電流ベクトルの空間ベクトル変調

 今期のドラマとして「降り積もれ孤独な死よ」を観ているのだけれど,殺された13人の被害者が虐待を受けていた子供であり,主人公も虐待を受けていたということもあって,今後観続けることができるのか自信がない。あまりにもつらすぎる。

作中,登場人物たちの関係性を表すシンボルとして出てくるのが「リッカ」と呼ばれる六角形のマークである。たぶん漢字で書くと「六花」ということなのだろうと思う。

そして私はこの六角形の図を観るたびに,「電流形三相インバータの空間ベクトル変調だ」と思ってしまうのである(ここから先はマニアの話なので無視してください)。通常の電圧型三相インバータの空間ベクトル変調とはベクトル図がちょっと違う。すなわち30度回転している。ここがマニアなポイントなのである。

そもそも電流形のインバータはレアで,そのベクトル変調はさらにレアな気がするが,このマークが出てくるたびに私は思い出してしまうのである。

ドラマに出てくる六角形は三相電流形インバータの電流ベクトルの図

一般的な三相電圧形インバータの電圧ベクトルの図

#相変わらず成田凌がカッコいいのだ

2024年8月3日土曜日

長岡の祭りに日本人の血を思う

 8/1-8/3に開催される長岡まつりは,8/2, 8/3が大花火大会で,8/1は平和祭として民謡流しなどが行われる。私は8/1の祭りをまだ見たことがなかったので,夜に長岡の街に散歩に出かけた。

出かけた時間が21:00少し前と少し遅かったので,民謡流しを見ることができなかった(民謡流しは20:15開始?)。しかし,駅前の大手通りは通行止めとなっていて,そこでは神輿が数基担がれていて,掛け声と生のお囃子(笛と太鼓)によって大いに盛り上がっていた。どうも地元のいくつかの「青年会」がそれぞれ神輿を出しているらしい。

5~6基の神輿が活気ある掛け声とともに担がれ上下している。中には女性だけで担がれている神輿や,神輿の上に女性が立って団扇で掛け声をかけている神輿などもあって,いろいろな神輿を楽しむことにできた。

一方,通りをもう少し奥まで進むと,和太鼓の音が聞こえてきた。こちらもいくつかの地元の団体があるようで,各団体の和太鼓の演奏がされていた。「悠久太鼓」など地元の曲もあるらしく,大中小の太鼓によって演奏される勇壮な曲にはこちらの心拍数も上がった。

神輿と太鼓。あぁ,日本の祭りなのだなぁと感じ入っていたのだけれど,これは日本人特有の感情なのかと考えた。神輿は本来「ご神体」を神輿に移して街を練り歩くものであるけれど,神様が本当に乗っていらっしゃるかどうかは別にして,担ぎ上げる神輿は祭りに参加している人の心を一つにするためのシンボルである。「神輿を担ぐ」という行為がどれだけ重要なのか,よくわかった。仕事においても誰かを代表にして「神輿を担ぐ」必要がしばしばあるけれど,人々の心をひとつにするためには,そのシンボルが必要なのだと思った。

和太鼓も数多くの太鼓が拍子を乱さずに演奏されるのをみていると,どんどん心が引き込まれるのを感じる。太鼓のリズムと音圧は人をトランスの状態に導くのに大変有効なようである。たぶん,神輿のお囃子,太鼓,そして神輿の掛け声は人々をトランスに導くためのツールとしてとても優秀で,それは太古の昔より日本で祭祀が行われるようになってからずっと洗練されてきた技法(やり方)なのだろう。そして,こうして祭りでトランス状態になり,ストレスを発散することが社会の治安や維持のために昔から不可欠だったのだろうと考える。まぁ,度が過ぎても「ええじゃないか」騒動のように踊乱し社会不安につながるのだけど。

古来,日本においては社会の安定維持のため祭りが果たしてきた役割というのは,思うより小さくないのかもしれない。祭りを見ていて,星野之宣のSFマンガ「ヤマタイカ」を思い出した。祭りで狂乱する遺伝子は日本人の血脈に深く刻まれているのだろう。

神輿は遠くに写っています

#「神が先か,儀式が先か」というテーマで記事を書きたいとずっと思っているのだけれど,なかなかその機会がない。近いうちに。

志賀直哉旧居にて「志賀直哉」を堪能する

 9月初旬,奈良春日野国際フォーラムで開催された国際会議のあと,奈良公園の中にある「 志賀直哉旧居 」を訪問することができた。昭和初期に志賀直哉自身が設計し建築した半和風・半洋風な邸宅なのだけれど,現在は奈良学園のセミナーハウスとなっている(見学可)。 志賀直哉の美的センスが感じ...