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伏線が回収された物語のきれいな結末。しかしそれがベストなのか。

 今期は 「降り積もれ孤独な死よ」というテレビドラマが面白かった 。いろいろな謎が次々と提示され,新しい事実が明らかになって物語が進んでいく。謎が謎を呼び,展開も加速する。そしてそれらの謎を回収していく最終回。そしてみんなが言う。「きれいな結末だった」と。 しかし,どうだろう。物語は謎と伏線を回収して,きれいな着地点に降りることがそんなに重要なのだろうか。 この「降り積もれー」も最初は謎がどんどん増えていき,物語を広げていく展開だったから,話の広がりに私はワクワクしていた。事件とその背景はますます複雑化していき,「この先,いったいどうなっていくのだろう?」と思いながら見ていた。物語のスケールの大きさを感じながら毎週毎週ドラマを見ていた。 しかし,最終話に近づくにつれ,話はこれまでの謎と伏線の回収に終始する。それはある程度仕方ないのだけれど,物語のスケールが急にシュリンクし始める。謎は明らかになっていき,話の結末に収束していく。しかし,それとともに物語のスケールは小さくなり急に魅力が半減していった感じは否めない。仕方ないけど私は強く残念に感じるのである。 今年観た映画「デッドデッドデーモンズ デデデデ デストラクション」にも似たような感想を持った。 前章 では,そのスケールの大きさに衝撃を受け,この先どうなってしまうのだろう?という気持ちでシーズンエンドを迎えた。 後章 は,伏線が回収されきれいな結末だったのだけれど,前章で感じたワクワク感は明らかにシュリンクしていた。 謎と伏線は,そこまで解明されて回収されなければならないのだろうか?たぶん現在は,謎をそのまま残して物語を終了するとあちらこちらから批判される世の中なのだろうと推測するのだけれど,それによって作品のキラキラ感,ワクワク感,そしてスケール感が損なわれるのはたいへんにもったいないと思う。 謎は謎のまま残されたっていいじゃないか。そんな作品,昔からいっぱいある。「結局あれってどういう意味だったのだろう?」「あれは誰が行ったのだろう?」などと疑問を抱えたまま物語がエンディングを迎えたっていいんじゃないだろうか。魅力を維持して終わる方がずっと良いのではないか。 ディビッド・リンチだって, 村上春樹 だって,作品の中で謎がすべて解明されたわけではないじゃない。スタンリー・キューブリックの「 シャイニング 」...

現代の新しい百物語 「新耳袋」

つい最近,「新耳袋」第5夜を読み終えた.それも1日でである. 「新耳袋」は10巻まであり,各巻99話で構成されている...はずなのだが,実は巧妙にあと1話が掲載されており,各巻を最初から最後まで読むと100話を楽しめるということになっている.なぜ100話構成なのに,99話としているか.それはもちろん,お察しの通り「百物語」の怪異を気にしているからである. 「百物語」というのは,江戸時代にはずいぶんと流行ったようで,一種の肝試しではなかったのだろうか,と思う.その方法は,夜に参加者が集まって,100本のろうそくに火をつけて,一話ずつ怪談を話し終えるたびに,ろうそくの火を消していく,というものである.100話を語り終え,最後のろうそくを消した後,真っ暗の部屋の中でなにかしらの怪異が起こると言い伝えられている. 「新耳袋」も最初発刊されたときには,100話まで番号が振られて怪談が掲載されていたようなのだけれど,100話を読み終えたときに怪異現象を体験したという読者からの便りが多かったために,新装版がでる際には,99話までの掲載としたのだという裏話が紹介されている. 「百物語」でまず思い出すのは,大映の「妖怪百物語」という映画.小学生の頃にたぶん見たのを覚えているのだと思う.それも小学校の屋外の運動場に白い幕を張って,そこに上映されていたのを見たのだと覚えている(一時期,「化け猫」とか「皿屋敷」とかそんな映画が流行った頃があった.同時上映はだいたい「座頭市」シリーズか「トラック野郎」シリーズだったような気がする).のっぺらぼうが怖かったんだよなぁ.その他,ろくろ首やから傘おばけなどのクラシックな妖怪が次々と登場する,なかなかすごい映画だった... 次に思い出すのは,漫画家 杉浦日向子の「百物語」.これも秀逸な作品で,ぜひその不思議な世界を楽しんで欲しいと思う(あまり有名ではないのかな...) 「百物語」というのは,いまよりももっともっと暗闇が暗く,妖怪やお化けがもっともっと身近だった頃のひとつの素晴らしいエンターテイメントだったのだろうと思うけれど,現代においてももっともっと注目されて,楽しんでも良いと思うのだ. さて,その日私は第5巻を1日で読み終えた.それに気づいたとき,少し怖かったけれど私のところにも「怪異」が現われるのかと楽しみにして夜を...

偽りの物語によっても,心は癒される

先週の金,土曜日は,奈良県の信貴山に行って研修.グローバルCOEの総括を行うということだった.二日目の午前中は,心理学のお話.私たち教員や学生の能力発揮のために心理学的なアプローチを活かそうという試みが大阪大学でされていて,中心となっている先生とカウンセラーの方からご講演があった. 私の理解の範囲で内容を簡単にまとめると,私達の能力の発揮をさまたげているもののひとつにトラウマがあり,そのトラウマをなくすことによってその心理的バリアを越えることができるようになる.というもの.ここでいうトラウマというのは,私がこれまで思ってきたような,「現在の状況に重大な影響を及ぼす,精神的外傷を与えた過去の体験」という特殊なものだけではなく,現在の私達の心に影響を及ぼすさまざまな心理的経験といった広い定義であるような印象を受けた.親に虐待を受けたとか,目の前で大きな事故や事件が起った,などの経験だけではなく,親にひどく叱られたこと,あるいは過去の失敗経験,そうしたものすべてがトラウマと呼ばれてもおかしくないようである. 現在の私は,過去の経験の上に成り立っているのであって,その経験には良いものも悪いものも当然ある.そのどちらも現在の私が私であることの理由なのだが,そのすべてが必要であったかどうかは確かに別である.現在の私の活躍のバリアとなっているような経験(すなわち,トラウマ)が存在するのであれば,できればそうした経験は無かった方が有り難い. 例えば,会話をしていても相手の発言についつい腹が立つようなことがある.これはその内容について,私のトラウマが影響している可能性があるのだという.私もそう思う.あるいはなにかプロジェクトを始めようというときに,過去の経験がブレーキをかけることが確かにある.これもトラウマなのだという.こうしたトラウマはなんらかの形で解消するのが良いのだろう. しかし,すべての悪い経験がトラウマとして解消すべきものだとは限らないのだろうと思う.ストレスは人間が生きていくためには不可欠なものだからである.どこまでが適度なストレスで,どこからが過剰なストレス,トラウマなのか,線引きは難しいのではないのかと思う.現在の私に過剰な反応を引き起こすものがトラウマなのだろうけれど,どこからが「過剰」なのか,という線引きもあいまいだからである. とはいえ,トラ...

「小川未明 童話集」と怪談

ときどき何かが無性に食べたくなるように, 突然にどうしても読みたくなる物語がある. 私にとって,そうした物語のひとつが, 「小川未明 童話集」 である. 新潮社から出ている文庫本を 以前から所有していたのだけれど, 最近どうも手元に見つからなかった. きっとどこかの引き出しの奥にでも 隠れているのだろう. しかし,昨日,どうしても彼の作品が 読みたくなってしまった. こうなってくるともう抑えが効かない. 仕方がないので生協にいって, 一冊購入してしまう. そして昨晩,収められている童話のうち, 何話かを貪るように読んだ. なにもかもをさておいて, 一心に読んだのである. 彼の作品は相変わらず もの哀しさと切なさを含んでいて, 心に擦り傷をつけるような そんな読後感に十分に満足した. 小川未明という人は, どうしてこのように美しく,湿度をたたえた 抒情性に満ちた作品が書けたのだろうと 不思議に思う. 戦争中から戦後に書かれたであろう 作品たちであろうに. 彼の作品がもつ湿り気は, 日本人の感性そのものなのだと私は思う. 「赤いろうそくと人魚」 は彼の代表作で, 哀しさと美しさにあふれた物語なのだけれど, それは怪談といってもいいくらいの 恐ろしさも兼ね備えている. そう,実に怪談そのものなのだ. 私は最近思うのだけれど, 怪談にこそ日本の特質が 集約されているような気がする. 陰湿な出来事,因縁,非論理性. これらが絶妙に調和されている. そんな怪談こそが日本の美しさを 映し出しているように思うのである. そして,小川未明の作品は, それらを十分に備えたものになっている. さらに,せつなさ,はかなさがそこに加わる. 「金の輪」 という物語は,長さでいえば 4ページ程度の非常に短い作品であるけれど, 彼の作品のそうした美点が抽出され, 純粋に結晶化したような佳作であると思う. 読んだ後,そっと胸に残るせつなさを ただじっとかみしめるだけ. そんな,私にとって宝物のような作品なのである. 今回もこの作品を読んで, ようやく飢餓感が癒された. 童話集ということで大人は敬遠してしまいがちだけれど, こんな素敵な物語を知らずにすますなんて なんてもったいないことだ,と思う. ひとつひとつは本当に短い物語なのだから, ちょっとした時間にぜひ目を通してもらいたいと思う. たぶんその...

人は物語によって踊らされる

 人は事実によってではなく,それに付随する物語,ストーリーによって心動かされ行動する,という話をこのブログでは何度も取り上げている。人々はデータそのものではなく,そのデータを説明する文脈において判断しているように思われる。だから,新聞の記事なども執筆者が考えるストーリーにしたがってデータが解釈される。その解釈を私たちは理解し,そのストーリーを信じてしまう。そんな事実を何度も繰り返し見てきた。 1999年,東海村で発生したJCOの被爆事故。2名の当事者が多量の被爆で亡くなられたけれど,周囲の住民への影響はその被爆量の小ささからほとんど無いと考えられた。しかし,新聞や週刊誌などは被爆して健康被害がある,という文脈で記事を書き,結局住民の不安をあおり,風評を呼び,多くの人を傷つけた。私はその頃東海村に住んでいたので,そうしたマスコミの無責任さに本当に腹が立った。 例えばある新聞では,被爆症状の例を記事で取り上げていた。被ばく線量が広島・長崎の原爆による被爆レベル(数シーベルトとか)以上の急性被ばくの場合に現れる症状を紹介したのち,今回の周辺住民の被ばく量は数マイクロシーベルトレベルと想定される,と記事を結んでいた。1000000倍も違うような事例を並列して例示し,そのうえ「マイクロ」の部分は小さな文字で記されていた。明らかに印象操作を狙っている。そんな記事が数多くあって,本当に悲しくなった。 東日本大震災のときも同様である。ある新聞の連載では原発事故のために関東圏でも人が住めなくなる,なんて記事も掲載されていた。あるいは東京都で鼻血を出す子供が増えているだの,魚から大量の放射線量が検出されただの,とても科学的なデータ処理に基づいた記事とは思えない記事が多かった。ある個人の主張だとして記事を掲載すれば,新聞社の責任は問われないと思っているのだろうか(新聞社の意見は,「読者の意見」欄に表れると言われているが)。 テレビだって同様である。ある研究者もテレビ局の取材を受けた際に,全く逆の主張をしているように編集されて放映されて非常に憤慨していたのを知っている。 つまりは,私たちはこうした記事,番組を見るときには,よほど気をつけなければならないということなのだけれど,それはたいへんに難しい。意図・主張が明らかにされていなくても,いつのまにかある印象を持たされるようなことはた...

神様はリフレーミングのためにつくられた?

 カウンセリングなどではリフレーミングというテクニックがある。出来事,性格,状況などを違った角度で見つめ直すことによって,その意味づけを変えるというものである。最近,あちらこちらでこの言葉を聞くことが多くなった。 たとえば,一生懸命受験勉強をしているとき勉強は苦痛でしかないという学生が,これは自分の将来のために必要なステップだと考えることができれば,勉強の意味の捉え方が変わるかもしれない。もしも,受験勉強が実らず大学受験に失敗したとしても,これは自分の足りない部分を教えてくれる良い機会なのだとポジティブに受け止め直すことができるかもしれない。また,いつか将来自分の夢が叶ったときに,あのときの受験勉強や失敗は今の自分に必要だったのだ,と思うかもしれない。こんなふうに,起こってしまった出来事は事実として変えることはできないが,その意味の捉え方は変えることができるのである。物事の捉え方の枠組みを変える,ということからリフレーミングと言われる。 過去の出来事の意味,価値を決めるのは現在の自分の状況だと思っているけれど(たとえば,受験勉強の例でいえば,それが必要だったと思うか単なる苦痛だったと思うかは,私が現在の自分に満足しているかしていないかに依る),結局, リフレーミングとは新しい物語の創造 なのだと思っている。自分のための物語を作り直すことによって,現在の自分の状況を考える,あるいは救うことなのだと思う。 人間はあらゆることに理由を求めてしまう性質がある。「~がこうなるのは~であるためだ」と理由づけすることによって,人間は安心するのである。原因不明のままの状況は人間を不安にさせる。だから科学や哲学が発展してきたのだろうし,一方で原因を「妖怪」や「祟り」などの超自然的な存在に求めたりする。非合理的な超自然的な理由であっても,私たちは幾分それで安心することができるのだ。 こうした理由を求める性質とリフレーミングは強い関係があるように思われる。人間は安心するために物語を欲し,その物語を自ら作り出すこともできるのだ。以前の このブログで紹介した次の話 もこの文脈で理解できる。 ある部族の3人の姉妹が川に行って,真ん中の娘だけがワニに食べられてしまったのだという。現代の私たちはこれを説明するときに,「偶然」という言葉を用いる。たまたま真ん中の娘が食べられたのは「偶然」なの...

最高のオバハン中島ハルコ~マダム・イン・ちょこっとだけバンコク

 疲れた状態で観たいテレビ番組というのは,それなりに限られるものだけれど,今期,そうした数少ない番組の中のひとつが, 「最高のオバハン中島ハルコ~マダム・イン・ちょこっとだけバンコク」(フジテレビ,東海放送) である。名古屋の美容整形外科医である中島ハルコが,恋愛,家庭,後継ぎなどいろいろな問題を解決していくコメディ物語。大地真央演じるスーパーレディーで,かつ上から目線の中島ハルコが,独特な観点で物語を解決していく。そしてそこに大きく振り回されるフードライターの不惑の女性を松本まりかが演じている。そもそも林真理子原作の小説らしいけれど,テレビ用に内容は大きく変わっているということである。 なぜ気楽に番組を観ていられるかというと,結局のところ番組の建付けが中島ハルコを黄門役とした「水戸黄門」となっているからなのだ。相談をもちこまれた問題を中島ハルコが解決して一件落着,すっきりと番組が終わってくれる。ちゃんと中島ハルコのそばには助さん格さんに相当する2名の事務長と秘書(?)が控えているし。 実は今回で第3シリーズとなる。たぶん人気があるのだろう。物語のフォーマットは「水戸黄門」ではあるが,解決する問題は「ロマンス詐欺」「後継者問題」「地域振興」「国際結婚」など現代的なものであり,それもハルコ独自の価値観から解決されたりするので,面白い。また,第1シリーズは名古屋が舞台で,第2シリーズは岐阜,そして今回はタイも舞台に含まれていて,それぞれ雰囲気が変わって飽きさせない設定になっている。 松本まりかの演技が,シリーズを経るごとにますますコメディよりになっているのがちょっと気にかかるけれど,彼女が語り部役割となっていて視聴者に解説してくれて物語がわかりやすくなっている。また彼女は,第1シリーズで不倫から立ち直り,今シリーズではロマンス詐欺から立ち直り,と不幸のどん底からいつも立ち直っていく物語になっているので,感情移入もしやすく,人気の理由になっているのだろう。 あるとき,名古屋に行った際に,この中島ハルコの舞台のポスターを見かけた。舞台化もされているらしい。大地真央の舞台は華やかだろうなぁ,と観てみたい気がする。 第3シリーズももう半分は過ぎているのだろうけれど,いまから第4シリーズも期待したいものである。深夜に気楽に観られる番組って,生活に案外に大切な役割を果たして...

ファンタジーでバランスをとる

ハリーポッターの最終巻が 日本でもとうとう発売されたという. 第1巻が発売されたのはもう何年前の ことだろうか. 私がはじめてみたのはもう10年近く 前だったろうか. たしか,TVのニュースでイギリスで 話題になっているとのことを知り, 横浜の洋書店で初めてペーパーバック (もちろん英語版)を見つけたのだった. そして購入したのだけれど, その英語版はいまだ読んでいない(笑). そのうち世界中で大人気ということで, 日本語版の第1巻が発売された. それはすぐに読んだ(笑). 良くできた物語設定だと思ったことを 覚えている. しかし実は,第2巻以降は読んでいない. なぜなんだろう. 自分でもよくわからない. たぶんあの本の厚さが 生理的に受け付けないのか... 映画も良くできていて, こちらは第3作まではしっかり観た. 家にもDVDがそろっている. (そういえば今日は ダニエル・ラドクリフ君の誕生日とか) しかし,第4作ともなると, あの本の厚みが災いして, とても映画の2時間で 理解できるものではなくなっている. あれは原作を読んだ人にしか わからないのではないだろうか. (もちろん大まかなところは理解できる) ということで,私は あまりハリポタには関係なく 生活しているのだけれど, 朝日新聞の記事で, 世相が暗いとファンタジーが流行るという ことが書いてあってなるほど,と思った. 「指輪物語」や「ナルニア国物語」は 第2次世界大戦後に,「ゲド戦記」は ベトナム戦争の頃に出されたのだという. そして,「ハリポタ」は9.11の影響を 強く受けているのではないかとの指摘である. 確かに,世界が暗い話題であふれると 人はファンタジーの世界に 憧れるのかもしれないとは思う. どこかでバランスをとりたく思うのかもしれない. 実は私は,上にあげたファンタジー物語を 読んだことがない. (そういえば「はてしない物語」も 後編の途中でとまっている) どうも私はファンタジーは苦手なようだ. ドラゴンクエストの世界とも無縁だし. とすると,私はファンタジーでバランスをとる 必要がない人間なのだろうか. う~ん,この人生,暗くて辛いことも 数多くあるのだけれどなぁ.

週末の読書の記録.カーヴァー,ラヒリ,上遠野,マルケス.

この週末は忙しさの反動か, 本を数冊読んで過ごした. 今日は休日ということもあり, それらの本の感想をまとめておく. このブログが読書メモになることには 少し気が引けるけれど. 1.「大聖堂」   レイモンド・カーヴァー ようやくこの短編集の最後の掌編, 「大聖堂」を読み終えることができた. 盲人である妻の友人に対する 夫の気持ちが変わっていくところが面白い. とはいえ,正直に言うと私もこの主人公に 似ている気がして,なかなかつらかった. もちろん,素晴らしい短編であることには 疑問を挟む余地はないけれど. この短編集で私が好きなのは, 「 羽根 」,「 ささやかだけれど役に立つこと 」, 「 僕が電話をかけている場所 」あたりかな. 「 シェフの家 」も捨てがたい. 何度も言うけれど,私はこのレイモンド・カーヴァーに ぞっこんなのである. 「カーファーズ・ダズン」の序文に紹介されている カーヴァーの言葉, 「僕には幾つかのオブセッションがあって, 僕はそいつに「ヴォイス」を与えようとしているんだ. たとえば男と女の関係, どうして僕らは往々にして自分たちがいちばん価値を 置いているものを手放す羽目になるのかということ, 自分たちの中にある力や資質をうまく扱えないこと. 僕はまた生き延びるということにも関心がある. どん底にまで落ちたときに,人はどのようにすれば 浮かび上がれるものかということにね」 に代表されるように,彼は損なわれてしまうものに 大変興味があるようだ. 人生は輝かしいものばかりで構成されているわけではない. 私もこの歳になって,そこらへんのことがようやく 理解できるようになってきたようだ. この「 大聖堂 」と「 象 」という二つの短編集は 特に40歳を越えた男性方に ぜひお薦めしたい佳品である. 2.「停電の夜に」   ジュンパ・ラヒリ 私と同い年. しかし,三十代前半に書いた短編の数編が 「ニューヨーカー」に掲載され,なんとピューリッツァー賞まで 受賞するという才女. (ついでにいうと,素晴らしい美貌の持ち主でもある) 話題にはなっていたけれど,どうもその作品に触れる機会が 最近まで無かった. 「 停電の夜に 」とい...

物語の必要性

古来の哲人たちの中には, 自ら教えを著すことなく, 弟子たちやその後の追随者がその教えを 書物に残した場合が多くある. 不完全な言葉によって教えを説いても, 誤解が広がるだけと考えたからかもしれない. そこで弟子たちは,師の教えを物語として残した. この点が重要なのだと思う. 人は,人の言葉だけでは理解を 共有することができない. 田口ランディさんの著書に, 「人は人とわかりあえない,ということのみ わかりあえる」といった意味の言葉があったが, 確かにそうかもしれないと思う. 所詮,違う脳,違う感覚器,違う身体をもつ 個体なのだ. 同じ考えをもつことなどありえない. だから言葉だけで理解を共有することは本当に難しいだろう. それでも教えを残す必要があった. だから弟子たちは短い言葉で伝えることをしなかった. その教えが説かれた背景,状況などを細かく, そして時には脚色をして物語として伝えた. より正確に教えを伝えるために. たとえば,もしも電気工学がシンプルな4つの方程式, すなわちマクスウェルの方程式だけで 理解しろ,といわれたらどうだろう. (すみません,例えがぐっと専門的な話になって) 確かにこの世界の電磁現象は, マクスウェルの4つの方程式だけで記述できるかもしれないが, それで終わりというわけではない. 4つの方程式は,電磁気学のいうなれば"骨"であって, さまざまな事象に現れる"血肉"が付いているわけではない. しかし,この血肉こそが,電磁気学を面白くし, 私たちに学問の喜びを与えるものなのである. だから私たちは電磁現象を理解するために, さまざまな事象についてマクスウェルの方程式を適用する. 学生たちは理解のために,適用例,例題,演習問題を必要とする. それで,現象の複雑さ,学問の面白さを理解する. 大切な教えの理解には,物語(ストーリー)を必要とする. そこに含まれる意味が深ければ深いほど, そこには精密なストーリーとそのバリエーションを必要とする. それは,哲学であっても工学であっても変わらない.

恩田陸「蛇行する川のほとり」: 少女漫画の美しい世界

今年の目標の一つは,50冊本を読むことなのだけれど,既に今年に入って3冊を読んでしまった.いや,もっとゆっくり読むはずだったのだけれど,「読んでしまった」という感じなのである. 読んだ本は, 恩田陸「蛇行する川のほとり」1~3巻 である.3巻というと相当な分量を思い浮かべる方もいるかと思うけれど,その実一冊あたり122~123ページで(作者の意図で各巻ほとんど同じページ数になっている),一冊あたり1時間ほどで読み終えてしまう程度なのである. 内容は作者が少女漫画を目指したという通り,女子高生という多感な時期,すなわち少女から大人になる特別な季節に起こった悲劇の話である.それも過去に起こった殺人事件が起因しているというミステリーとなっている. しかし,ミステリーといっても,主題は少女たちの成長物語で,少女たちが持つ(あるいは持つであろうと期待する)特別な世界で交わされる好意と悪意について話が進められていくのである.思い浮かべる光景は,萩尾望都の世界.ふわふわ,キラキラの世界の中で残酷なまでに事件が起こっていく.そのせつなさが,描かれた理想的な少女世界と対比されて,心のなかにずっとあとを引くものになっている. 6人の少年少女たちが,親が不在のひとりの少女の家に泊まりこんで,演劇で使う「背景画」を夏休みの期間に描き上げる作業に取り組むのだけれど,各巻はそれぞれ別の登場人物の視点から語られていく.それぞれの成長が描かれ,そして殺人事件についてもそれぞれにとっての真実が語られていく.彼らが背景画を書いている演劇は,「藪の中」を題材にしたものとされていて,それがこの物語を示唆しているものとなっている. とはいえ,人がうらやむ美男美女が6人でキラキラと夏の日差しを浴びながら緑の庭で紅茶を楽しんだりするのだから,そうした夢のような美しい世界が好きな人にはぜひオススメの物語である.ずいぶんと青春が遠くなってしまった私が読んでも,心の奥に少しだけ忘れたものを思い出したようにキラキラとするものがあった(告白するのは恥ずかしいが). 実はこの本は,恋愛小説なのか,SFなのか,はたまたミステリーなのか全く前知識なしに読み始めた.そのため話の展開がどうなるのか読めないまま,物語の最後の場面まで引っ張られていってしまったという感じであった.そんな感覚ははじめてのこ...

未来への10カウント,木村拓哉への期待

 50歳を過ぎてから私の中でこの数年,木村拓哉,キムタクの株が上がり続けている。彼ももう50歳になろうとしているけれど,私にとって彼の魅力は増し続けているのだ。 私はヒーローの晩年の生き方に強く惹かれるところがある。たとえば 野球の巨人軍のスター選手たち 。期待されてはいたものの不本意な成績のなかでどのように生きていくのか。どうやって選手生活に幕を下ろすのか。晩年の過ごし方こそ彼らの(才能ではなく)性格が出る。 もちろんスポーツ選手だけでなく往年の芸能界のスターたちの晩年にも興味がある。たとえばクリント・イーストウッドやマイケル J フォックス。順調な人生であっても,難病とともにある困難な人生であっても,彼らは彼らの人生の中における役を全力で果たそうとしている。日本でも,石原裕次郎や渡哲也,あるいは原田芳雄,松田優作。ヒーローたちがどうやって人生の晩年を過ごすのか。そんなことが気になるような年齢に私もなったということだろう。 そんな私が,今後の大成を強く期待しているのがキムタクなのである。彼がもし普通のスターだったらたいへんに難しい立ち位置にいたのだと思う。彼のパーソナリティが強く出すぎて,あるいは私達がそのイメージを強くモチすぎたために,彼が演じる役の範囲が狭くなる恐れがあった。 しかし,彼は彼独特のブランディングによって,つきぬけた存在になりつつある。往年の石原裕次郎,高倉健,三船敏郎,勝新太郎などに連なる,存在こそが魅力ある役者の系列に入りつつあるのではないだろうか。 今期の彼主演のドラマ「未来への10カウント」を観た。正直,今の時代にあまり流行らない高校が舞台の学園ドラマだったので驚いた。フォーカスされているのはキムタク演じる主人公の再生の物語なのだけれども,ボクシング部の学生たちが抱えている悩み,恋愛,いじめなどの問題にそれぞれスポットが当てられて,今時めずらしい青春ドラマでもあった。 ただし,現在のドラマで視聴率が良いものは,だいたいドギツい人間関係や不条理な悲劇,陰惨な猟奇事件などの展開があったり,真犯人探しなどの謎解きがあったりするのに対し,本作はあまりにもストレートな学園ドラマだったので,視聴率が上がらないのではないかと心配し,実際そうであったみたいだけれど,私は悪人が出てこないこのドラマが結構好きであった。キムタクがこの作品を選んだという...

空からオタマジャクシ,謎は謎のままに.

空からオタマジャクシが降ってきた, というニュースを聞いて, 村上春樹の小説を思い出したのは 私だけではないだろう. 村上春樹の新しい小説「1Q84」が すごいことになっていて, 世間はその話題で持ち切りだけど, 残念ながら,その小説の話ではない. 「海辺のカフカ」では, 空から魚やヒルが降ってくるという エピソードが出てくる. 彼の小説らしく,それがなぜ起こるのか, どんな意味があるのか,などには ほとんど言及されないのだけれど, 不気味な予兆としては効果十分である. イノセントなナカタさんというお爺さんの キャラクタとあいまって, 非常に印象的なシーンになっている. 現実にも,空から魚が降ってくるという話は, 世界ではいくつかあるようだけど, 今回は竜巻が起こるような天候ではなかったらしいし, 降ってきたのがオタマジャクシだけ,というのも ずいぶん不思議だ. 科学的にはなかなか説明が難しいのだろう. (科学的な仮説を立てるには証拠が必要となるから) 昔の人だったら,これは妖怪のしわざとして 片付けるに違いない. 天狗とか河童とか. あるいは天変地異の予兆であると 人々はおそれおののくのかもしれない. (ほんとにそうかもしれないけど) 科学が無かった時代には, 説明がつかないことに説明をつけるためには, 妖怪が必要だったのである. 説明がつかないことをそのままでおいておくことは, いまも昔も,人はできないことらしい. なにかしら説明がないと, 人々はすっきりできないのである. 健全な精神のためには物語が必要なのである. その物語を語る役割をするのが 現代では科学であり,昔では妖怪であった. それに付加される物語はずいぶんと変わったけれど, 説明・理由づけを求める人間の特性は 変わらないままなのだなと思う. 一方,説明がつかない物事からは 人は離れることができなくなる. ずっとペンディングの状態である. こうやって人々の関心を惹き続けているのが, 謎を謎のまま残している村上春樹の小説ではないかと思う. 彼の小説には,推理小説のように トリックが明かされることを期待できない. 複雑な世界,理由がつかない現象, そうしたものをある程度の諦念を抱きながら, そのまま引き受けていかなければならないということ. それが彼の小説のひとつの特徴であり, 魅力であるのだ. 謎は謎の...

すべて忘れてしまうから

 「すべて忘れてしまうから」というTVドラマを観ている。主演は阿部寛。作家の主人公の彼女(尾野真千子)がある日突然いなくなってしまう。そんなことから始まる物語である。彼女がいなくなって,彼女に対する気持ちだけでなく,自分のことがわかりはじめるのが面白い。阿部寛の情けない男の演技も魅力的だけれど,出演者もちょっと癖のある人ばかりで,ついつい観てしまう番組なのである。 物語には彼女の失踪話を中心にしていろいろなエピソードがちりばめられているのだけれど,それらがいちいち絶妙な話なのである。「絶妙」というのは,日常の範囲を超えるような話ではないけれど,それでいて心が1ミリだけ動くようなちょっとした出来事であって,大きな感動などでは全然ないところがミソである。 しばらくして,このドラマには原作があることを知ってさらに驚いた。なぜなら,話があってないようなドラマだから。どうも原作は「燃え殻」という作者の同名のエッセイ集らしくて,そのエッセイで紹介されているエピソードを脚色してドラマに取り入れているらしいことがわかると,そのエッセイが読みたくなって,とうとう購入してしまった。 「燃え殻」という人は,遅咲きの作家で,日ごろはどうもTV製作の下請けの仕事をしているらしく,小説は5年ほど前に処女作を出している。エッセイ集はSPAなどに連載しているものをまとめたもので,そのひとつが「すべて忘れてしまうから」ということになる。 エッセイ集にある各エピソードは3~4ページほどなのだけれど,やはりどれも絶妙なところを突いている。ちょっとだけ心に引っかき傷をつけるような話ばかりである。どう傷つけるかと言われるとそこが説明が難しくて,こればかりは読んでもらうしかないのだけれど,作者は自分と同じように(そしてみんなと同じように),心を傷付けながら生きてきた人なのだとは理解できる。 多くの人が日々いろいろな出来事に傷ついて生きているわけで,それらをいちいち記憶にとどめていたらとてもやっていけない。しかし,この作者はそんな生活の中で忘れ去られている小さな出来事を丁寧に拾い上げて作品の中にとどめている。だから読むと心が少しだけ動くのだろう。 TVドラマの方は,彼女探しの経糸の物語があってその結末が楽しみなのだけれど,一方で原作のエピソードがどのようにに紹介されていくのかも楽しみなのである。 そして...

苦い後味

相変わらず忙しいのだけれど, それでも移動中の車内などで本を読んでいる. 先日読み終えたのは, 「象」(レイモンド・カーヴァー,村上春樹訳) . この前に読んだ 「必要になったら電話をかけて」 で, すっかりファンになってしまったカーヴァーの短編集である. なぜこんなにもこの作家に惹かれるのか. まずは,文体がいい. これは村上氏の訳の影響もあるのだろうが, 修飾の少ない短文を積み重ねて, 淡々と物語が進んでいく作品が多い. こうした簡潔な文章は私の中にリズムを生み出し, すぐに物語の中に引き込まれてしまう. それが気持ちがいいのである. 次に,登場人物がいい. 多くの作品で,もうどうしようもない現実に追い込まれた 中年男が登場する. これが全然ヒーローでもなく,冷酷な悪党でもない. どこにでもいる,弱い男なのである. 村上氏がいうところの「ズルズルとした状況」においても, 未来に希望がもてるような果断を行うこともない. ただ,にっちもさっちもいかない状況に耐え忍ぶだけである. 「象」という作品では,最後に少し明るい描写があるのだけれど, 状況的には全く何も解決されない. 救いのない,あまりにも苦い現実. だからこそ,リアリズムを感じることができる. どうしたものか,そこに非常にシンパシーを感じてしまう. 私がそういう状況というわけではないのだけれど. そして構成がいい. 単純なひとつの物語で終わるものにはなっていない. いくつかのエピソードが複合的に積み重なって, 作品に広がりを与えている. 主たる話には関係のないエピソードにも, なにかしらの意味があり, それらが読後感に大きく影を落とす. この重さがたまらなくいい. この「象」という作品集は,生前,最後に 刊行されたものであるらしい. 最後に収録されている「使い走り」には, カーヴァーがよく並び称されている(らしい) チェーホフの最期が描かれている. 登場人物たちそれぞれの心情, そしてやはり短文で描写されていく情景. それらは静的ではあるけれど, 非常に緊張感をもって読ませるものになっている. この作品を書いていたころは,カーヴァーは 癌による自分の死期を知っていたらしい. 闘病生活のなか,最後の力を振り絞ってまとめたということを 村上氏の「解題」を読んで知ったときには, なるほど,それでと,納得したくらいで...

「なぞの転校生」について:2.出演者が素晴らしい

「 なぞの転校生 」の第2弾.今回は出演者について. まずは,なぞの転校生 山沢典夫役の 本郷奏多 さん.彼の精妙な演技なしにはこの番組の成功はなかった.手放しで大絶賛.ネタバレになるけれど,転校生の彼はアンドロイドなのだ.そしてアンドロイドゆえのつらさ,苦しみを味わうことになる.それを表現する彼の演技が素晴らしかった.アンドロイドなのでモノを食べない,肺がないので吹奏楽はできない(しかし,ピアノは弾く).そしてどんなに悲しくても涙を流せない.人間とは違う少し不自然なしぐさ,その一方で人間よりも人間らしい(でもアンドロイドの)感情の表出.すっかり彼のファンになってしまった.最終回,彼が長い長いセリフは,このドラマの一つのテーマについて語っていて,きっと多くの人が長い間覚えていることだろう. 次に,主人公がもう二人.岩田宏一役の 中村蒼 さんと香川みどり 桜井美南 さん. 中村君は,普通の高校生を過不足無く演じていた.彼は若手俳優として実力派なのだろう.さわやかかつ,のびやか,それでいて平凡.そんなどこにでもいる高校生が,ある日突然異次元の出来事に巻き込まれていく,その不安がよく出ていたと思う.また,桜井さんもまた普通で素晴らしい.どこのクラスにでもいる素敵な女の子を演じていて,青春時代を思い出しそうになる(そんな青春なかったけれど).彼女はなんと新人ということらしいのだけれど,今後の活躍に期待したい. この二人のどこにでもあるような高校生活が,かけがえのないもののように見える.そんな風にドラマは作られている.これは,他の世界からやってきた山沢典夫他の人たちからの視点であって,観ている私たちも自分たちの生活のかけがえのなさに気づくようになっている.花の美しさや,青空の美しさ,学校という社会の複雑さ.そんな事柄がとても魅力的に感じられてくる. そして,異次元世界の王女を演じた 杉咲花 さん. 物語の後半は,彼女の演技が特に目を引きつけた.なんという演技力だろう.彼女が表現した,世界を失うものの悲しみは,こちらの胸を熱くさせた.彼女の登場がドラマを引き締め,そしてクライマックスへと導いてくれた. これらの若手俳優のみなさんが本当に素晴らしかった( 椎名琴音 さん, 樋井明日香 さんもいい感じ). そして,その他にも素敵な,そして実力派の俳優がしっ...

「大工と鬼六」と「トム・ティット・トッド」

先日,各地で似たような怪談,都市伝説が 採取されるという話で思い出したのだけれど, 昔話・伝承が世界で共通するということもある. 例えば,白鳥は,人の最期に関連した イメージをもつというのは, 日本武尊の話で日本人にはなじみであるけれど, 西洋の方でもイソップ物語に,白鳥は最期の時に もっとも美しい声で鳴くとあるように, 死に際に関連したイメージは共通であるようだ. (最後に作曲した曲,歌った曲などを 「スワン・ソング」などと呼ぶ) どうも東南アジアの方でも鳥と死後の世界というのは 強い関連があるらしく,この辺りは 人類共通のイメージなのかもしれない. 一方,そうとばかりは言えないこともある. 「大工と鬼六」という昔話をご存じだろうか. 大工の代わりに鬼が流れの急な川に橋をかける. その代償として,大工の目玉を要求する. しかし,鬼の名前を当てたら許してやるという条件を与える. とうとう橋はかけられて大工は逃げ出す. そして逃げた先の森で,子供(鬼の子供?)の不思議な唄が 聞こえてきて,そこで「鬼六」という名前を知る,という話である. 実はこの話は西洋の「トム・ティット・トッド」にそっくりである. この話は,子鬼が王妃のかわりに一か月の間に, 王様に要求された大量の糸巻をするが, その代わり王妃を妻にしようとする. やはり,名前を当てたら許してやるという条件は同じで, 王様が森の中で,子鬼が歌っている唄(名前が含まれている)を 耳にして,その話を王妃にしたことによって, 王妃は救われるというお話. その他にも同型の話がいくつか ヨーロッパで採取されているらしい. 最初知った時には,これはすごいことだと思った. 遠く離れた日本とヨーロッパで, こんなにも似たような話が見つかるなんて. これはやはり人間には元型というものがあるのだろうか, なんて,少し思ったりした. しかし,よくよく調べてみると, 「大工と鬼六」というのはある作家が書いた物語であり, どうもその作家は西洋の昔話を参考にしたらしいのである. 下敷きになったのは,北欧に伝わる同型の話らしく, 直接「トム・ティット・トッド」ではないのだけれど, その話を読んだ作家が翻案して書いたということらしい. それが柳田国男の本に紹介されて, あっというまに日本国中に広まったのである. この真相を知ったとき,少しがっかり...

キラキラしたクリスマス物語を読む時間を

クリスマス・シーズン,私のお決まりのブログ記事といえば, ジョージ・セルのベートーベンの第九の話 なのだけれど, もうひとつ,毎年のように書いているのが, C. ディケンズの「クリスマス・キャロル」 の話なのである. 2009年のクリスマス・キャロル 2008年のクリスマス・キャロル 今年は,iPhoneのiBookで読んでみたい. もちろん無料でダウンロードできる. ただし,英語で,iPhoneの辞書を使えるのだけれど, どうも英英辞書でしか引けないらしい. ちょっとつらい. まぁ,贅沢は言わないので良いのだけれど. 他のクリスマス物語といえば, T.  カポーティの「クリスマスの思い出」 . 最後の方で,主人公は大人になっていくのだけれど, そこらへんの描写が切なくてたまらないのである. そして短編では, ポール・オースターの 「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」 . もちろん, 映画 もオススメなのだけれど, 村上春樹と柴田元幸による 翻訳比べが 載っている「 翻訳夜話 」(文春文庫)も素晴らしい. あぁ,今年のクリスマスはいろいろあって, いつもの年と違うのだけれど, こうした,キラキラした物語を読む時間を なんとか持ちたいと思う. 少し早いけれど,みなさま, Merry Christmas!

濱マイク: 情けない男のカッコよさ

探偵 濱マイクが好きだった。 映画はシリーズ3本が作られていてその全てを観た。2002年のテレビドラマシリーズは12回分が制作されていて,それらは当時珍しいフィルム撮影,そして各回異なる監督が撮るというたいへん贅沢なシリーズだった。 行定勲や青山真治など各監督で全く異なるテイストで各話が撮られているから,各回一話完結でほとんど繋がりがない 。物語の設定だけ守られているようだ(実はそうでもないけれど)。最近,このテレビドラマの動画配信が始まったということで,もう一度見直したのである。やはり,そのすべてがカッコいい。 私はもともと情けない男が大好きである。そして 探偵の物語が大好きである 。ハードボイルドが好きなので,つまりは情けないハードボイルドの探偵が好きなのである。 たとえば,ロバート・アルトマン監督の映画「ロング・グッドバイ The Long Goodbye」。フィリップ・マーロウはハードボイルドだけれど情けない男として描かれている(NHKで浅野忠信主演でドラマ化された主人公はかっこよかったけれど)。そしてこの作品に大きく影響を受けたという松田優作の「探偵物語」。工藤ちゃんのカッコよさ,情けなさが際立っている。いまだに私の憧れのキャラクターだ。そしてその流れをさらに引き継いでいるのが,永瀬正敏演じる「濱マイク」なのである(その先も,「仮面ライダーW」とかあるのだし,また「金田一耕助」,「金田一はじめ」,「美食探偵 明智五郎」,「霊媒探偵 城塚翡翠」などもちょっと情けない探偵たちだ) 正直に言って,ドラマの各回の内容は理解できないものが多い。濱マイクをカッコよく描くことだけが目的の設定・ストーリーであって,トリックを解くわけでもないし,そもそも話に整合性はないし,ときにはSFのような設定になっている回もある。濱マイクのためのイメージストーリーというべきか。世間からかけ離れたストーリーだからこそ,濱マイクのカッコよさ,せつなさが際立っている。ミステリー展開を期待して見る作品ではない。 しかし,あらためていうけれど,ドラマのなにもかもがカッコいい。マイクのファッションもいいけれど,個性豊かな登場人物たちとの会話,煙草の吸い方など立ち居振る舞いもキザでカッコ悪く,それがすべてカッコいい。放映当時はこのキザさが不評で,ダウンタウンの松本などは「カッコつけすぎ」と嫌っていた...

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章

 「 デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章 」。この映画を観て初めに思った疑問は,なぜこの映画が大ヒットしていないのか?なぜ話題になっていないのか?ということである。私の周囲の学生にたずねても,本作の存在自体を知らない人が多かった。 なぜ?こんな名作になりそうなにおいがするのに? テレビ東京が製作委員会に含まれていてCMがメジャー局で流れていないからなのだろうか。どうして宣伝しないのだろう?本当にもったいない。 原作を読んだことはなかったけれど,「あのちゃん」,「幾田りら」が声優を務めているということで私は映画館に足を運んでこの映画を観た。原作者の浅野いにおも気になっていて,あの絵の感じに妙に惹かれていた。平日最後の夜の回。公開から1週間しかたっていないのに観客は私の他に5~6名がいるだけ。そんなものかと思っていたけれど、映画館を離れるときにはこの観客の少なさに腹が立ってきていた。 映画の内容は、宇宙から侵略者がやってきて大きな被害が出たのだけれど、その後大きな出来事は起こらず、侵略者が存在する世界で日常が進んでいく。そんな世界の女子高生の青春物語...と思っていたのだけれど、侵略者の存在はそんな軽いものではなかった。生活のいろいろなところに影を落とし、それが顕わにする私たちの生活の暗い部分。それを女子高生が(もっというと小・中学生のころから)経験していく物語である。 友達との関係、親との関係、教師への恋、陰謀論に翻弄される人たちとの不理解、暴走する正義感、弱者である侵略者などなど、女子が経験するにはつらそうなことばかりである。私はこの映画はあまりに生活の暗部をむき出しにしすぎるので、「残酷」だと感じた。観ていて胸が痛くなる。「どうかそちら方向にはいかないで!」と心の中で思うのだけれど、残酷にも私が予期するBad Endingに物語は向かっていく。 前章では、主人公である門出と凰蘭の日常と過去、侵略者との出会い、など、謎が散りばめられていて、最後に「どーなっちゃうの?」とある意味クリフハンガー的な終わり方で映画は幕を閉じる。観た人は後章が気になって気になってどうしようもなくなる最高の終わり方になっている。いいぞっ! こんな名作の予感しかしない作品に懸念されるのは次のふたつ。 1.当初,「後章」は4月下旬の公開だった。しかし,現在は5月下旬に延...