2008年7月14日月曜日

文字と記憶力

相変わらず小林秀雄の講演を聴いている.
やっぱり面白い.
彼が残した文章とは異なり,
明快な話しぶりに思わず引き込まれてしまう.

この講演の中で,
プラトンの「パイドロス」に言及している
箇所があった.
(講演では,小林が「諸君の中に,
読んだことがある人はいるか?」と
聴衆に向かって尋ねている.
一人くらいは手を挙げた様子.
残念ながら私は読んだことはない)

その中でソクラテスは,エジプト神話の話をひいて,
彼の「文字」に対する考えを述べている.

古代エジプトで,田舎の神がいろいろと発明をする.
その中の一つに「文字」があった.
これを都の神のところへ持って行って
自慢したのだという.

この「文字」さえあれば知識を蓄えることができ,
大変便利なものである,と.

しかし,その都の神は,

そんなものができれば,人々の記憶力は
悪くなってしまうではないか,

と言ったのだというのである.
ソクラテスは,文字というものがあっても,
そこに蓄えられるのは知識であって,
智慧ではない.
本当に智慧のある人たちが増えるわけではない,
と思っていたと小林秀雄は注釈している.

そして,小林は本居宣長の著作にも
同様の記述がある,と紹介している.

古事記などは,文字がない時代のもので,
文字を使っている私たちの時代から見れば,
いろいろ思うところがあるけれど,
文字が無い時代にあっては,
文字が無いことが当たり前で,
それで用は足りていたのである.
そして,ものを覚える力が
良かったはずである,みたいなことを
宣長は書いているらしい.

このソクラテスと宣長の共通性を
小林は興味深く思い,
講演で紹介している.

多くの知識を蓄積することができたとしても,
それは単に「ものしり」を増やすだけで,
智慧がつくわけではないと喝破しているのである.


最近,私は物覚えが悪く,
常にメモを愛用している.
どの仕事術でもメモの多用を進めている.
ある仕事術では,
「ユビキタス・キャプチャ」と称して,
トイレや風呂の中でもメモを取ることを
奨めている.
(確かにそうしたところでアイデアが
浮かぶことも多いのだけど)
とにかくメモを取り,文字にして残す.
それを心がけている.

さて,その私が上記の講演を聴いて思ったのは,
メモを取ることは,
本当に脳にとって良いことなのか,
それはわからない,かもしれないということである.

メモを取ることによって,脳は些細な事柄を
数多く覚えておかなければならないという
負荷から解放される.
その低減された負荷の分をより創造的な
活動に割り当てればよいというのが,
多くの仕事術の考え方なのだけど,
果たしてそれは記憶力の低下を
促進していないか少し不安になってきた.

以前よんだ,「『頭がいい』とはどういうことか」
という本の中で,IQが非常に高い人の言葉として
紹介されていたのは,頭の働きを良くするためには,
ノートを取らずに頭の中ですべてを処理する,
ということだった.

う~ん,そうかもしれない.
しかし,そうかもしれないけれど,
現在の私が処理しなければならない事柄は
頭の中ですべてを覚えるには容量が大きすぎる.
やはりメモに頼らなければやっていけないなぁ...

とはいえ,「ものしり」では困る.
メモはあくまでも知識であり,
それを使いこなす智慧のレベルまで,
頭を鍛えなければならない.

そして,そうした洞察力などは
鍛えることができる,と小林秀雄は言っているのである.

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