2025年1月19日日曜日

深層心理の操作法としての宗教的儀式について(4)

 宗教的儀式によって深層心理を操作するという話の第4回目。

人をトランスに入れて,一種の暗示を与えることによって,人々の心理を変化させようとすることは,宗教では普通に行われてきたということになる。この人々の心の変容が,その人の役にたつのであれば良いのだけれど,誰かのために都合よく行動するような価値観を植え付けられるようになるとそれは「洗脳」となる。

それを容易に行う方法は古来研究されてきていて,そもそも「洗脳」という言葉も朝鮮戦争における思想教育から生まれている(中国語。英訳はBrainwash)。もちろん,思想だけでなくカルトな教団の偏った教義を植え付けるのにも洗脳は使用されている。簡単なのは独房などに閉じ込め,視聴覚刺激や薬物と一緒に洗脳を行うことだろうけれど,この方法は下手をするとその人の心を壊してしまう可能性がある。洗脳が「やりすぎ」になりがちなのである。

その点,伝統宗教は長い歴史の中で,「ほどほど」な量を把握している。例えば密教は厳しい修行によって悟りを得る宗教だけれど,次の命がけの厳しい修行に耐えられるかどうかを,高僧たちが判断し,許可してから修行を行うのだという。そこらへんのボーダーラインは1000年以上の歴史の中で成功した人と失敗した人のデータを積み重ね,「ここまでだったら大丈夫」という検討によって得られているのだと思われる。一方,新興宗教やカルト宗教では,その境界の判断を飛び越えて,安易に薬物や視聴覚の効果を与えることで,「悟り」を得ようとすることや「洗脳」しようとするので失敗してしまう人が出てきてしまうのだろう。儀式の真似事をすることで不十分な儀式となってしまい,失敗して重大な結果を招く,というのはモキュメンタリー「飯沼一家に謝罪します」でも描かれていたことである。

そして私には武道の世界でも同様なことがあると思われる。段階を踏んで修行を進めていかず,一足飛びに高度な修行に入ってしまうと,身体だけではなく心の健康も損ねてしまう修行法が古来伝承されている武道にはあったりする。あるいはいきなり高い段階の修行をしようにもその効果が得られなかったり,そもそも意味が理解できないものもある。適切に伝承されてきた武道にはそうした修行のノウハウが伝統宗教同様に蓄積されているものである。

こうして考えると宗教であっても,武道であっても,修行の高い段階に進むためには,それを伝え,また修行時期を判断できる良い指導者の存在が不可欠であることがわかる。この良き修行者が不在となれば,こうした珠玉の遺産は継承されず潰えてしまうのである。いままでにどれだけの「法(技術)」と「教え」がこの世の中から消滅してしまったのだろうか。そして将来,また誰かがそれらを再発見することは可能なのだろうか。人類が失ってきた遺産の大きさについて思う。

(とりあえず,このシリーズ完結です)


#例えば,継承が途絶えてしまった古武術などどれだけあるのだろうか?例えば,江戸時代初期,往時1万人以上の門弟がいて隆盛を誇っていたという無住心剣流がその後急速に力をなくし,潰えてしまったという。技術が高度化しすぎるのも(天才しか理解できなくなり)継承が難しくなってしまうので課題なのだなぁとしみじみ思う...

2025年1月18日土曜日

深層心理の操作法としての宗教的儀式について(3)

宗教儀式とは深層心理の操作を行うものだという話の続きである。第1回目第2回目と続き,今回は第3回目である。好きなんです,この話。

これまで宗教儀式は,教義を信者に植え付けるため(暗示を与えるため,あるいは洗脳するため)に効果的な環境下において行われるという話をした。例えば,巨大な建築物による威圧,内部の暗い環境,あるいはお香などの香り,そして低く響く音楽または詠唱。こうしたものを集団的に人々に与える,あるいは独り個室の中で与えられれば,人はトランスに入りやすくなるだろう。

そしてさらに,カタルシスを与えるような物語を与える,あるいは「あなたはあなたのままでいい」などという確固たる肯定感を受け付けるようにすれば,儀式を主宰する人,団体に心酔しやすくなるに違いない。絶対たる肯定感を権威者から与えられたら(例えば,神様がそれでよいと言っている,のように),その人は安心して性格,行動なども変わる可能性が高くなる。この効果の良い面に着目すれば(教えが性善として与えられれば),宗教は良いものだということになり,古来その良い効果を得るために宗教は信じられ,尊重されてきたのだろう。

このトランスを安易に得る方法もある。それは薬物などである。私の生まれる前だけれど,60年代~70年代にヒッピー文化というものがあって,そこではLSDなどを使って安易にトリップして価値観が変わる体験をすることが流行していたのだという。当時ビートルズだってインドのグル,マハリシに傾倒したし,カスタネダの呪術師ドン・ファンに関わる著作が話題になっていた(ちなみに私はカスタネダの著作は未読である。いつか読んでみたいけれどその機会と時間に恵まれていない)。ベトナム戦争など世界的に社会に不安を感じる人が多くなって,そうした精神世界に安定を求める人々が多かったということだろう。

暗示を与えるのであれば,宗教のミサのように人々をトランスに入れてから,寓意的な物語を植え付けるのが良いような気がするけれど,もっと劇的な効果が必要であれば,対象である人の人格を徹底的に否定するようなことを長時間して,それから絶対的な肯定をしてあげる方法もある。これを宗教的儀式と同様に特殊な環境下で行えば非常に効果的である。さらに人格否定を集団で個人に対して熱狂的に行えば,より効果的な異常な雰囲気を作り出すことも容易になる。ただし,こちらは人を他人や団体の欲望・利益のためにコントロールしようという面が強く,社会的ではない。


2025年1月13日月曜日

深層心理の操作法としての宗教的儀式について(2)

 宗教的儀式は,人々をトランスに入れ深層心理を操作することによって「救われる」などという考えを植え付けることが目的ではないだろうか,という話の続き。(あくまでも個人的な考えです)

人々の集団をトランスに入れることは,「集団催眠」という言葉がよく知られているように比較的に容易であるといわれている(最近は「集団ヒステリー」という言葉を聞かなくなったが)。周囲の人々が次々とトランス状態になっていくと,自分もトランスに入りやすくなってしまう。催眠商法などがその最たる例である。

トランス状態に導きやすい環境ということにはいくつかの特徴がある。それらのいくつかを上げてみる。

まず環境の暗さ。明るいところでは顕在意識が強く働くため,暗示などが効きにくい。薄暗いところであると,潜在意識が優位になってきて,トランスに入りやすくなる。同じ映画を観るという体験でも,薄暗い映画館の中で観るのと,明るい自宅のリビングで観るのでは,その体験の深さが違うことはよく感じられるのではないか(だから映画は映画館で観たい!)。

「暗さ」というのは照度・輝度という単位で測られるものを指すだけではない。環境の「暗さ」とは,その土地土地の心理的な影響もある。伊勢神宮の参道の明るさと,因縁のある心霊スポットの暗さは,これは測定器で測れるものというよりも,自分の心理状態の反映が現れているといえる。なにか「ジメジメ」して「暗い」。「肌寒さを感じる」,「気味が悪い」という印象は,人間の感覚を鋭敏にし,一方で思考を内向的にする。結果,トランスに入りやすくなる(光の点滅も「てんかん」を引き起こすなど人間に大きな影響を与えるけれど,それはまた別の機会に)。

次に,音楽や詠唱。クラシック音楽には宗教音楽という分野があって,音楽の中でも最も古い部類に分けられる。例えば,「チャント」。古代のチャントはずいぶんと単調な音型の繰り返しであったらしい。それがグレゴリオ聖歌のようにだんだん複雑なものに進化していったとのことだけれど,人間はこうした単調な音型が繰り返されることによってトランスに入りやすくなる。歌われている内容などあまり関係ない。むしろ何を言っているのかわからないくらいがちょうどいい。それが繰り返されることにより,脳は感覚が鈍化していく。また,中~低音域の人間の声はやはり人に効果を与えやすいのは間違いがない。催眠術師の声がだんだん低く,ゆっくりと,やわらかくなっていくのもその効果を狙っている。仏教における声明などもそうだし(黛敏郎の「涅槃交響曲」などを聴いてほしい),躁状態に導くのであれば祭りにおける太鼓のリズムも人々を陶酔に誘い,効果的である。

炎ももちろん効果的である。ろうそくの灯がゆらめくのを見つめていれば心が無になっていくし,仏教の護摩祈祷などは炎の形が大きく変化して,それに集中することはさらに効果的である。

こうした考えてみると,教会やお寺のお堂で行われる宗教的儀式は,トランスに入りやすくなるような条件を複数備えていることに気づく。さらに集団で行われることによって,トランスに入りやすい人が呼び水となって,集団催眠のように多くの人を導きやすくなっている。残念ながら人間というのはそのようにできていて,潜在意識は「善悪」を判断することができず,儀式は私たちの深層心理に深く影響を与える。そうした儀式のなかで,歌や説教,効果音などによって,カタルシスを信者に与えることによって,人々は魂の浄化,救済を感じ,宗教家は信者を増やすことができる。なんとよくできたシステムだろう。人間が社会性を持ち始めてから,やはり儀式と宗教は人々をまとめるために必要不可欠のものだったに違いない。感心せずにはいられないのである。


2025年1月12日日曜日

魔界転生...東映時代劇の最高傑作!

 「魔界転生」(1981年,深作欣二監督)

を観た。今年3本目。

なんといっても私はこの映画が大好きで,何度も観ているはずである。妖奇ファンタジーホラー時代劇というべきか。深作欣二のケレン味たっぷりの演出がもう最高である。この2年後に深作は「南総里見八犬伝」(薬師丸ひろ子,真田広之)を撮っているけれど,作品のクオリティは,こちらの方が10倍以上素晴らしいと私は思っている。

なにが素晴らしいって,まず豪華な俳優陣。主人公の柳生十兵衛の千葉真一に対し,なんと天草四郎が沢田研二!魔界堕ちしてしまう十兵衛の父,宗矩には若山富三郎。そのほかにも宮本武蔵役に緒形拳,宝蔵院胤舜に室田日出夫,伊賀忍者霧丸に真田広之,細川ガラシャに佳那晃子。さらに神刀「村正」を打つ刀鍛冶に丹波哲郎,その養女に神崎愛。そして忘れてはいけない成田三樹夫ということで東映時代劇オールスターズとなっている(「柳生一族の陰謀」と似たような布陣?)。

今回観て,あらためて思ったのは細川ガラシャ役の佳那晃子の妖艶な美しさ。この美しさを映画の中に記録できたのは,佳那さんにとっても幸せだったのではないかと思う。炎に包まれた江戸城でなぎなたを振るう姿に惚れ惚れとする。男を,いや国をダメにする傾国の美女とは彼女のような人をいうのだろう。

次に思ったのは,アクションのすばらしさ。現代であったら絶対許されないような,あるいはCGで実現される危険なアクションがあちらこちらに見られる。昔は本当に身体をはって映画を撮っていたのだなぁと思う。最後の炎に包まれ落城していく江戸城の中での殺陣はどのように撮影したのだろう?CGのなかった時代だから,実際に炎を焚いたのだろうか。そのなかでの殺陣はさぞかし暑くて,危険なものであったろう。ちなみに本作のアクション監督は千葉真一となっている。なにか,無理をいいそう。。。

そしてもちろん若山富三郎の殺陣の素晴らしさ。なんど絶賛しても物足りない。もちろん,千葉真一や室田日出夫など,相手役があっての殺陣の出来栄えなのだろけれど,何度みても凄い。たぶん撮影時,若山富三郎は五十代半ばで(私と同じくらい?_)そろそろ体力的に衰え始めていただろうに,見事な足さばきで,ときどきジャンプも見せていて,この人ならではの殺陣を見せている。また目の芝居が素晴らしい。さぞかし,撮影現場では怖かっただろうなぁと想像する。

この作品があまりにも素晴らしかったために,この後も本作品は何度も映像化(映画,テレビドラマ,演劇)されている。魔界からよみがえった宗矩と十兵衛の親子対決なんて,思いついた山田風太郎は本当に天才。なんどみても良い映画。映画好き,時代劇好きにはぜひみていただきたい傑作である。

評価はもちろん星5点満点★★★★★!


2025年1月11日土曜日

ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー

 「ベイビーわるきゅーれ」に続いて,第2弾も鑑賞。

ベイビーわるきゅーれ2ベイビー」(阪元裕吾監督,2023年)

今年2本目の映画。主演2名をはじめとして前作と変わらない登場人物で世界観は維持されている。主演の女の子の殺し屋2名を殺して自分たちが正規の殺し屋になろうとする,殺し屋のバイト格である若い男2名の話を軸とした作品。相変わらず社会不適応者である女の子の殺し屋2名(高石あかり,伊澤彩織)の日常生活がコメディとして描かれる。

正直な感想として,前作に比べちょっと今回は余談というか,寄り道のエピソードが多いような気がする。そのために,なにかノイズが多くてストーリーへのフォーカスが甘くなっている印象である。メインである丞威と濱田龍臣が演じる殺し屋2名の話に戻ってくると,画面がしまるのだけれど。この若い男2名の結末は破滅であろうということを私たちは理解して映画を観ているので,もっともっと彼らに死亡フラグを立ててもよかったのではないかと思う。本作ではこの二人の演技のみずみずしさが一番強く印象に残った。

この4人によって行われる最後の場面の殺陣はよいのだけれど,最初に男2名があっさりとやられてしまうのに最後の戦いではすごく強くなっていることや,主人公2名も強さ,弱さがそのときどきで一定していないことが気になった。殺し屋の戦闘能力が場合によって変わってしまうのは,プロフェッショナルとしてどうなのか,と思う。主人公は,プロであるという設定なのだから,もっともっと闘いについてはシビアでよいのではないかと思った。

実は,このシリーズには第3弾「ベイビーわるきゅーれナイスデイズ」があり,テレビ東京の連続ドラマ「ベイビーわるきゅーれエブリデイ!」が続く。3作目の映画はまだ観ておらず,テレビドラマは実は最初で観ることに心が折れてしまっていた。もう少し落ち着いたらどちらも観てみたい。その期待を込めて,今回の評価は星3つ(5つが満点)★★★☆☆

2025年1月5日日曜日

深層心理の操作法としての宗教的儀式について(1)

 「飯沼一家に謝罪します」の記事においても書いたけれど,人間にとって宗教的儀式は確かに効果があると思っている。

人類において「神が先か,儀式が先か」という議論があるけれど,やはり「儀式が先」の説が有力らしい。それほど人間にとって,儀式は重要な意味を持っているのだ。

儀式は簡単に言えば,人をトランスに入れて,そのうえで深層心理を操作するものであると考えている。日頃から人々に教義を植え付けておき,十分な信心があるうえでトランスに入れるのだから,トランスにも入れやすいだろうし,その深さも深いものになるだろう。

宗教的儀式が行われる環境もトランスに人を入れやすいものになっている。例えばキリスト教。見上げるような荘厳なゴシック建築の教会。その中は薄暗く,ステンドグラスからの光を見上げるように作られている。目の前には由緒あるキリストの像がゆらめくろうそくの炎の向こうに見える。そしてまるで天から降り注ぐようなパイプオルガンの低音を響かせた和音が鳴り響き,合唱ののちに神父をはじめとする朗々とした朗読が始まって集団で祈りを捧げる。集団トランスに入る準備は万全である。

宗教でこうした儀式によるトランスを重視するのは,それによって人々が「救われた」と思うからではないだろうか。日常生活の中で単に神父から説教を受けるよりも,教会の儀式の中でトランスに入り,潜在意識にはたらきかけるように「物語」として暗示がなされる。そして「困難の中にあってもそれは神が与えたものだ」,「正しいことをしているので不安に思うことはない」,「将来救済される」などの考えの種が潜在意識の中に植え付けられていくことによって,人々の心は軽くなり「救われた」という感覚を得ているのではないだろうか。

神様の非合理的な話は,トランス状態だからこそ論理的な判断を行う顕在意識の殻をスルーして,直接潜在意識の奥深く,自分では認識できない深層心理に届きやすいのではないかと思う。トランスに入った人が認識できないうちに深層心理が操作される可能性があるのである。

人々をまとめていくには,政治学よりも宗教の方がより効率的であり強固な団体を作りやすいことは明らかである(皆が宗教を信じればの話だけれど)。古来,集団生活が必要だった人類は,だからこそ神がいなくとも儀式が必要であったのではないかと思うのである。

トランス状態にして深層心理を操作する。そこに宗教的儀式の意味があると思うのである。

2025年1月4日土曜日

ベイビーわるきゅーれ

 記念すべき今年初の映画鑑賞一本目は,

ベイビーわるきゅーれ」(阪元裕吾監督,2021年)

であった。朝ドラの主演が決定した高石あかりと,ジョン・ウィックでもスタントを演じている伊澤彩織の主演による女の子二人の殺し屋によるほのぼの(?)ストーリー。アクションはハードだけれど,日常生活は社会不適応者のために失敗ばかりでほぼコメディという,そのコントラストが面白い映画である。

以前から話題になっていて(アクション映画がどんどんおススメされる私のYoutubeにも何度もおススメされているし),観よう観ようと思っていたのだけれど,なかなかその機会がなかった。今回はAbemaで正月に観ることができたのである。

うーん,面白いし,魅力的なんだけれど,「カワイイ」と「過激」が共存するこの映画は日本でしか生まれなかっただろうな,という感想をまず持った。世界的にウケるのだろうか,とも思ったのだけれど,この映画は海外でも結構注目されたというから,一定の層(たぶんちょっとオタク的な人々)には歓迎される内容なのだろう。

内容といえば,まったくWetな要素がないのもいい。恋愛だとか哀れみだとか,そんな日本映画にありがちな湿った演出がないのが素晴らしい。こうしたところは「シン・ゴジラ」にも通じていて,死亡フラグなど考えなくて済むので気楽に観ることができた。

主演の二人がこの映画にぴったりで,独特の雰囲気を醸し出していて良いと思った。実際には伊澤の方が高石よりも8歳も年上とのことであるが,ドライで少しかみ合わない,それでいて友情があるような不思議な(殺し屋だったらそうなのかも,と思わせる)関係性をちゃんと成立させている。こういうファンタジーに納得性を持たせるのはやはり役者の力なのだと思わせる。

今年一本目は当たりであった。これは幸先がよさそうである。評価は,今後の期待も含めて星4つ(満点は5つ)★★★★☆。

2025年1月3日金曜日

飯沼一家に謝罪します

年末にまたモキュメンタリーを観た。

 「飯沼一家に謝罪します」(テレビ東京,深夜,全4回)

イシナガキクエを探しています」に続くTXQ FICTION第2弾である。

今回は,1999年に矢代という民俗学者が,運気を上げたいという飯沼一家にある儀式を行ったところ,TV番組で100万円とハワイ旅行を獲得したのだけれど,そのすぐあとに家が全焼して一家が焼死するという不幸に見舞われた,という話。儀式は失敗したのではないかと気づいていた矢代が2004年に「飯沼一家に謝罪します」というTV番組で公開謝罪をし,彼自身もまた別の儀式を行って行方不明ということになったことの真相を,2024年のこの番組で追う,というものである。

(以下,ネタバレ)上の話だけ読んでもなんのことだか,まったくさっぱりわからない話なのだけれど,実は飯沼家には引きこもりの長男がいて,その長男の代わりに親戚の男の子が替え玉としてTV番組にでることになった。そして,この男の子が一緒に(不完全な)儀式を受けたために,火事の際には実は長男と一緒に助かったのだけれど,その後引きこもりになってしまい,病気になってしまった。このとばっちりをうけた男の子の母親がこの復讐のためにTV番組を作るように工作して,矢代に別の儀式をおこなわせ,自分の息子ともども救われない状態にしたというのが真相らしい。

そもそも民俗学者が宗教的な儀式をゼミの学生と一緒に行っているというのがツッコミどころなのだけれど,まぁ,「妖怪ハンター」みたいなものかとも思う。矢代が行った儀式では,みんなが嫌に思っていることを紙に書いて箱に入れたのだけれど,替え玉の男の子が「数学の試験」と書いたほかは,全員が「長男」のことを書いていた。これを知ったオカルトマニアの長男がその儀式を失敗させたのではないかということらしい。その長男だけは普通にリンゴ園を営んだりしていて助かっている。

私は,呪いや魔術というものの効果を信じているけれど(科学的な意味ではなく,深層心理を含む心理的な操作方法として),ここでは人智を超えた力が儀式によって働いているということになっている。それが失敗に終わって痛い目にあう,そんな話ということらしい。

さまざまな考察がネットにあげられているけれど,最初から番組として不完全なものとして作られているだろうから,結局正解など無いに違いない。しかし,「イシナガキクエ」もそうだったけれど,人間が人智を超えた闇にふれてしまうことによって,人生をおかしくしてしまうというテーマが描かれているように感じる。

そして,私も不完全な儀式は怖いという考えに同意するのである。


2025年1月2日木曜日

2025年の目標

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

ということで,今年もいつもコーヒー店に来てブログを書いている。毎年,今年の目標というものを立てるのだけれど,昨年も目標はなにひとつ達成できていない。忙しくて,そもそも目標達成のための努力すらできなかった。なんと恥ずかしいことだろう(かろうじて映画は12本以上みたけれど,そのうち8本は米国出張の往復の飛行機の中で観たものである...)。

「忙しさ」は自分でコントロールできるものである。それが昨年はできていなかった。これは深く反省すべき点である。また毎年なにかしら病院のお世話になっており,昨年は夏の腹痛による救急治療に加え,秋には「心筋梗塞疑い」と「新型コロナウィルス感染」があって,自分の健康管理についてもかなり問題があることが明らかとなった。心身の状態についてもコントロールできていない。

ということで今年は,

心身を自分のコントロール下に置き,少しはマシな人間になる

というのが目標である。そのために武道の稽古に精進したいと考えている。そして,昨年通りの目標に加え,次の目標を立てる。

  1. 慈眼温容
  2. 沈思黙考
  3. 稽古三昧
  4. 締切厳守

そして昨年の目標をそのまま受け継ぐ。

  1. 「叶えたい夢を見つける」
  2. 「身体を鍛えて体重を5kg減らす」
  3. 「合氣道の稽古量を増やす」
  4. 「本を12冊読む」
  5. 「映画を12本観る」
  6. 「人生をもっと楽しむ」
  7. 「身体の姿勢に気をつける」
  8. 「終活をはじめる」
  9. 「誠実に機嫌よく生きる」

実は,小倉智昭さんが年末に亡くなったニュースに触れ,彼が以前に書いた新聞のコラムを読んで深く思うところがあった。「年を取ってからやろう,引退してからやろう,なんてことはいざ年をとってみると体力がなくて全然できない」というような内容であった。この5年間,毎年のように身体に不調があった私には強い警告として心に残った。これからは,後悔しないように好きなことをして生きようと思う。

#こんなことを書いて,映画などでいう「死亡フラグ」にならぬよう気をつけよう。


深層心理の操作法としての宗教的儀式について(4)

 宗教的儀式によって深層心理を操作するという話の第4回目。 人をトランスに入れて,一種の暗示を与えることによって,人々の心理を変化させようとすることは,宗教では普通に行われてきたということになる。この人々の心の変容が,その人の役にたつのであれば良いのだけれど,誰かのために都合よく...