2025年4月13日日曜日

偽りの記憶

 リバイバル上映をしている映画「Love Letter」を,シネスイッチ銀座で観たという話を書いた。しかし,文章を書いているうちに,その記憶が本当のものなのか,偽りのものなのか,自信が持てなくなってきた。

調べてみると「Love Letter」のシネスイッチ銀座での上映期間は,1995年3月24日~1995年6月29日らしい(なんてロングラン!)。

1995年は私が博士後期課程を修了した年である。1995年3月に大学を卒業しているから,3月24日はすでに卒業式を終えているはずである。4月に備えて引っ越し準備に忙しかったに違いない。そんな時期に映画を観に行く余裕が私にあっただろうか。相当に疑わしい。

しかし,映画館で確かに観た記憶があるし,中山美穂のポスターを見てため息をついた覚えもある。でも1995年の3月下旬に本当にシネスイッチ銀座に足を運んだのだろうか。

偽りの記憶かもしれない。あれから30年,今の自分の記憶がこの長い間に影響をうけていつのまにか作られた可能性も捨てきれない。えてして人間の記憶なんて容易に変更されるし,捏造されるものなのだ。そして私もこの年齢になって自分の記憶の確かさに全く自信が持てない。

でもそれはそれでいいのではないかとも思う。こうして自分の気持ちが幸せになるのであれば,捏造された記憶があってもよいのではないだろうか。つらい記憶よりも,こうした幸せな記憶の方が毎日を生活していくためにずっと必要なのだし。

2025年4月12日土曜日

Love Letter

 岩井俊二監督,中山美穂主演の「Love Letter」が,公開30周年記念,中山美穂追悼ということで,4Kリマスター版として現在上映中である。残念ながら私が住んでいる長岡では上演がなく,新潟市まで行かなければ観ることができない。上映期間中に私も観られるかどうか。

この映画は岩井俊二の長編映画デビュー作で,中山美穂が女優として名を挙げた傑作である。私は,これをシネスイッチ銀座で観た記憶がある。

私はその当時大学院生で,月に2本程度のペースで映画を観ていた。全国ロードショーの大作も観たし,名画座で単館上映みたいな映画も見ていた。シネスイッチ銀座は銀座にあるけれど比較的小さな名画座で(近くには有楽町の大きな映画館があったし),ゆっくりと映画を楽しむことができる場所だった。

「Love Letter」という作品はそんなに大々的に宣伝されていなかったのではないかと思う。私も別の映画を観に映画館に足を運んで,この映画の予告編をみて存在を知ったような気がする。1995年当時はインターネットもなかったので情報の広がりも悪かったし,岩井俊二もそれほど有名でなかったから話題にあまりならなかったと思う。そして主演も中山美穂であったので,テレビドラマの延長のようなどこかよくあるアイドル映画ではないのか,という印象を持っていた。ただ予告編の中山美穂,豊川悦司,酒井美紀,柏原崇などが映される画面と小樽の風景が非常にきれいで,それで興味を持ったような記憶がある。

映画を観て,たいへんに切ない気持ちになって映画館を出た覚えがある。映画館の壁に貼ってあったLove Letterの中山美穂のポスターを見て,ふぅー,とため息をついたことを覚えている。作品は切なさのてんこ盛りだった。

まず,高校生時代のエピソードを演じる酒井美紀と柏原崇が素晴らしかった。私もまだ若かったので,高校生時代のファンタジーな(実際にはありえないくらいロマンチックな)物語に胸が痛くなった。お互いに気にしながらも素直に近づけない,恋愛のような友達のような。そんな経験できなかった甘酸っぱい出来事がみずみずしく描かれていた。

次に素晴らしいのが,現代の中山美穂の二役と,関西弁を話すカッコいい豊川悦司,そしてそれを取り巻く大人たち。そのひとりひとりがアートのように綺麗に描かれていて,場面場面が心に残る。このあたりが岩井俊二の才能の素晴らしさなのだろう。私も作品の中の美しい大人のようになりたい,と憧れを持った。登場人物の誰もが美しく,素敵なのだ。そして舞台となる小樽がノスタルジックに描かれていて,だれでも小樽に行きたくなってしまう。

しかし,この映画は1995年だったから成立するファンタジーであることに気づく。まず,中山美穂が死んでしまった婚約者に手紙を出すところから物語が始まるのだけれど,手紙を送る住所が卒業アルバムに載っている時代なのである。そこから文通が開始されるけれど,「文通」というのが今となってはあまりに非効率的である。しかし,だからこそ古めかしく,そしてロマンチックである。「文通」だからこそ,勘違い,すれ違いが生じ,それが物語を動かしていく。

また,当時は学校の図書館で本を借りるためには図書貸出カードに名前や返却日時を記入していて,それが映画では重要な役割を果たすのだけれど,そのシステムは現在の若い人たちが見ても理解できないだろう。私などは,図書貸出カードを見るだけで図書館に通った学生時代が,数々の借りて読んだ本とともに想い出されるのだけど。

このように,当時の人たちがノスタルジックさとファンタジーを感じるアイテム,設定が詰め込まれ,小樽の風景とともに美しい思い出が描かれていく。場面場面がすべて美しい。岩井監督のデビュー作にして最高傑作と言われるのも理解できる。

雪原をバックに「お元気ですかー  私は元気でーす」と叫ぶ中山美穂はこの2025年の現在でさえミーム化されていて,一体どれだけの人がこの映画に心を動かされたのかと思う。それは,私のような50代の老人にとってもそうだし,現代の若者が見ても,50代の私たちと同じではないにしろ,なにかしらの感動を与え続けていることは,このリバイバル上映が話題になっていることがよく示しているのだと思う。

先日,韓国の20代の女の子たちが北海道を訪れるYouTubeの動画を見た。雪原で「お元気ですかー」と叫んでいた。私も小樽の雪原をいつか訪れてみたい。


#出演していた篠原勝之(ゲージツ家 クマさん)は当時52~53歳だったらしい。私の年齢はすでに彼を越えてしまっていた


2025年4月5日土曜日

春望は「しゅんぼう」と読む

 中国の人が驚くことのひとつに,日本人が漢詩を読めるということがある。レ点などを用いて日本語に翻訳して漢詩を理解する。そのことに大いに驚く人が多い。

ずいぶん以前のこと,中国の杭州,浙江大学を訪問した際に,研究室の方が西施にゆかりがある西湖を案内してくれた。そこには,蘇軾の読んだ漢詩が書かれた建物があって,その内容を日本人が理解することに大いに驚いていた。私などは,そんなこと中学校で習うよ,と笑っていたけれど,たしかに外国人が百人一首を読んで理解するのであれば,やっぱり驚くとは思う。ただ漢詩は中国語で読まなければ,韻を踏んでいることがわからず,せっかくこのラップ全盛の世の中でそれが理解できないのは残念である。

春になると思い出す有名な漢詩がある。「代悲白頭翁」の「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」がそれなのだけれど,もうひとつ私が思い出すのは,「春望」である。「国破れて山河在り」から始まる杜甫の五言律詩である。

春望   杜甫

国 破 山 河 在
城 春 草 木 深
感 時 花 濺 涙
恨 別 鳥 驚 心

烽 火 連 三 月
家 書 抵 万 金
白 頭 掻 更 短
渾 欲 不 勝 簪

昔は覚えてそらんじることができたものだけれど,いまではすっかり忘れてしまった。年齢をとることによって,昔手に入れた宝物をどんどん失っているような気がする。

最近知って驚いたのは,私はこの詩を「しゅんもう」と覚えていたのだけれど,「しゅんぼう」と読むの方が一般的らしいこと。


2025年3月29日土曜日

人への話しかけかた

 私は少なくない頻度で,見も知らない人に話しかけることがある。もちろん一番多いのは,学生相手だけれど,街中でも知らない人と会話を始めることが結構な頻度である。

街中では話しかけられて会話が始まることが多いけれど,学内では学生に私から話しかけることが多い。他愛のない話をするのである。

人に話しかけるときには,ちょっとした間(タイミング)が大切である。このタイミングを逃すと,相手に言葉が届かなかったり,届いたとしても相手が拒否する反応を起こすことになってしまう。相手がついつい会話に参加してしまうようなタイミングというものが,どうも存在するようなのである。

まずは相手に自分の存在を認識してもらうことが大切である。相手に突然後ろから声をかけたら,あるいは物陰から相手に声をかけたら,たぶん相手はびっくりしてしまうだろう。これではいけない。私がいるということをまずは相手に知ってもらわなければならないのである。

次に警戒心を持たれないようにすることが大切である。私などは人相が悪いから笑顔であることが必須である。敵意を持っていませんよ,と相手に表情,姿勢などで伝えることが必要である。もちろん,相手へ近づくときも,相手が認識できるように,そして真正面から向き合うのでもなく,斜め後ろ,あるいは横に並んで,同じ方向を向いて話しかけるなどの工夫が必要である。

そして相手の緊張が解けるタイミングで話しかけることが大切である。相手を見ていると最初私が近づくことによって緊張するが,敵意がないとわかると相手の無意識の緊張が解けるのがわかる。それから話しかけるようにするのが良い。

最後は,言葉のかけ方である。もちろん大声などで話しかけたら相手はまた私に警戒し始めるだろう。あたかもそれまで会話をしていたかのような雰囲気で話しかけるのがよいのである。相手もつられて会話に参加してくれる。それが理想である。

私は無意識のうちにこうしたことを行っていたと以前に気づいてから,もう少し意識的にそのスキルを磨きたいと思った。しかし,意識的に行うことがむしろ相手に緊張をもたらし,あまりうまくいかないことも多いことを知った。あくまでも無意識的に行うことが大切なのである。武道と一緒でなかなかに難しい。

2025年3月23日日曜日

会話の始めかた ~「いや,でも」~

 最近気づいたことがある。なにかしらのトピックについて会話を私から始めようとするとき,私のひとこと目が,

「いや,でも...」

という言葉から始まることが多いということである。もちろん,この言葉の前には会話がない。私は突然,「いや,でも」と話し始めるのである。

自分では無意識のうちに,「いや,でも,~って~ですよね」とか,「いや,でも,私思うんですけれど...」などと会話を始めるのだけれど,気がつくとかなりおかしな会話の始め方である。私にとっては自然でも,もしかして周囲の人は奇異に思っていたのかもしれない。

なぜ会話の始まりが,「いや,でも...」となるのかというと,あたかもそれまで会話が継続していたかのような雰囲気を作ることができたり,相手の中で思考が続いていることを想定して,そこに会話を挿し込んでいくような雰囲気を作ることができたりするためだと,自分では考察している。

会話のはじまりを突然「実は」とか,「少しいいでしょうか」などとすると相手が身構えてしまう。それを避けるために私は無意識に使っていたようだ。同様の目的で,「そういえば,~って~ですか?」という始めかたも私の会話には多い。

あたかもこれまでも親密に会話していたかのように,会話をはじめる私なりの工夫だったのだろう。しかし,それがこれまで無意識に行われたことに気づき,驚いた。気づいてみると,「いや,でも」の頻度がかなり多い。もう少し,へんな前置きの言葉なく,会話を親密な雰囲気の中で始めることができるよう,精進したいものである。

2025年3月22日土曜日

大福と日本酒

 長岡に来て土地柄もあって日本酒をよく口にするようになった。新潟の新鮮な海鮮や野菜,煮物から漬物まで,日本酒はいろいろな料理によく合う。最近ではおいしそうな料理をみると,日本酒と一緒にいただいたらどんなにおいしいだろうとゴクリと喉が鳴るようになっている。

もちろん,日本酒に合う料理,合わない料理というものがあるけれど,今回は意外な組み合わせをご紹介したい。それは,

大福と日本酒

である。私がまだ大学院生だった頃の話。武道の合宿に出かけた際,夜は当然のことのように畳の和室に車座になって宴会が始まった。誰かが日本酒の一升瓶を抱えてきて,乾きものをつまみに私もチビチビ飲んでいた。昼間の稽古は厳しく,身体はもうクタクタだったのを覚えている。

そこで誰かが「大福」が実は日本酒にあう,という話をし始めた。誰だったかは覚えていないのだけれど,「間違いない」という風に自信たっぷりに言われたので(あいまいな記憶だけれど),たっぷりと餡が入った大福を片手に,コップ酒とあいなった。

左手でほおばると疲れ切った身体に甘い甘い大福は本当に美味しく感じられた。そして右手でコップでぐいと酒であんこを流し込む。これが思いもかけないほどうまかった。「和」と「和」なのでもともと相性は良いのだろうけれど,身体がどんどん次を欲する感じがするほど美味しかった。ジャイアント馬場の大好物が大福だったという話を思い出す。疲れた身体には甘味と酒なのだ(馬場は下戸だったと記憶しているけど)。

ただこの食べ合わせには重大な問題がある。それは美味しくてついつい飲みすぎることである。案の定,私は翌日ひどい二日酔いになった。甘い大福で胃が持たれているのでそうとうたちが悪い二日酔いだった。貧血気味で立てなかったくらいである。しかしそこは武道の合宿。なんとか午前中の稽古を何度も吐きそうになりながら,横になりたいのを我慢して続けていたことは,今はよい思い出である。

疲れた身体に大福と日本酒。スキーに行った晩などにぜひ試してほしい。たぶん私が言ったことは正しかったと納得してもらえるだろう。ただしくれぐれも飲みすぎには注意してほしいけれど。

2025年3月16日日曜日

マダム・ウェブ

 「マダム・ウェブ」(2024, S・J・クラークソン監督,ダコタ・ジョンソン主演)

が,2024年のゴールデン・ラズベリー賞の最低作品賞も受賞したらしい。私自身も大きな声ではないけれど,心より同意する。

本作は映画館で観たのではないのでアクションシーンの評価はしづらいけれど,マーベル映画のスパイダーマン世界の話なのかと期待して観て,全然想像と違う...と思ったのをよく覚えている。

映画のあらすじとしては,ニューヨークの女性救命士があることをきっかけに未来予知の能力を覚醒させ,3人の女の子を悪の手から守り,自らの出生の秘密とも向き合うことによってマダム・ウェブになるオリジンストーリー。

と書くと女性たちが大活躍するアクションヒーロー物語,といいたいところだけれど,実際は中身が薄く,主人公のダコタ・ジョンソンの魅力だけで成立している映画だった。ストーリーが全く平坦で,本人の心情もそうだし,助ける3人の女の子の背景の掘り下げも非常に浅い。

マダム・ウェブというのは漫画の中ではすでにヒロインとして確立しているキャラクターらしく,その背景を知っている人にとっては興味深いストーリーなのかもしれないが,そうした知識がなければ,ただただ登場人物たちのエピソード紹介に終始する印象である。最終的には,3人の女の子とダコタ・ジョンソンは正義のヒロインたちになるのだけれど,結局その理由が腑に落ちない。正直観ていて「ノラない」のである。

ネット記事を読むとダコタ・ジョンソン自身もストーリーが最初のものと大きく変わってしまい戸惑ったとインタビューに答えているから,相当脚本が変更されたのだろう(ちなみに本作は最低脚本賞も受賞している)。

さらにダコタ・ジョンソンも最低女優賞をもらっているのだけれど,私は彼女のファンなので,それは許す(笑)。

ということで私の評価は久しぶりに厳しく,★☆☆☆☆(星1つ)。ダコタ・ジョンソンの魅力だけで星一個分。

2025年3月15日土曜日

Wolfs

 沖縄出張の機内で

"Wolfs"(2024,ジョン・ワッツ監督,ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット主演)

を観た。fixerと呼ばれるトラブル解決人の話。女性の地方検事が巻き込まれた男娼(ではないけど)とのスキャンダルの解決のために別々の雇い主から依頼されたクルーニー,ピットが演じるそれぞれ一匹狼の解決人2名が,薬物抗争に巻き込まれ,いつのまにか良いバディになっていくお話。

ストーリー的には甘々で驚くべきものはあまりないし,ツメも甘く解決されていない謎も多い。でもそれはどうも続編が制作されることが決まっていたからかもしれない。しかし,この映画は日本では公開されず,アメリカでも映画館で公開だったものがAppleの配信になってしまうなどの方針転換があって,ワッツ監督がAppleに不信感をもって続編を作ることを断念したとのこと。そのため,謎は謎のまま残されてしまった。これから,このビッグスター2名のバディものが続くのかという期待がつぶされてしまったのは悲しい。

しかし,私は十分にこの映画を堪能した。結局は,イケオジ2名の堪能映画であって,ふたりがいかにカッコよく,いかにダサいかを楽しむ映画なのである。そのため,たぶん製作費はギャラの他にはあまりかかっていないように思われ,アクションよりは各人のカットばかりが多用されている。それがまたいい。たぶん映画の本道を楽しみたい人にとっては物足りないのだろうと想像はするけれど,私にとっては二人の魅力で十分なのである。

ただ,この映画でもっとも目立っていたのは,とにかく走る男娼(ではないけど)Kid役の若い男の子かもしれない。

私の評価は★★★★☆(星4つ)!


#wolfの複数形はwolvesだけど,どうも一匹狼が2名ということでwolfsらしい。

2025年3月2日日曜日

その音楽は,あっているの?

 テレビを見ていたら,「本麒麟」のCMが流れて,アース・ウィンド・アンド・ファイアの"September”が聞こえてきた。思わず「なぜ?」とつぶやいてしまった。たしかに爽やかな曲調なのだけれど,なぜこの2月の大雪の時期に?そう思うのだけれど,どうも日本では洋楽の歌詞の内容はあまり重要視されないらしい。

このことを強く思ったのは,WBCの野球大会の放映のときである。WBCのCMが流れるたびにジャーニーの「Separate Ways」が流れるのである。この曲は私が洋楽を聴きまくっていた中高生の頃,すなわち80年代の前半に流行っていた曲で,男女が分かれて別々の道を歩んでいこうっていう内容だったと記憶している。それがなぜWBCで流れるのか?どんな意図があるのか?私には全然わからない。

野球選手の画面のBGMで「Separate Ways」が流れるたびに,意味は関係なく曲調がカッコいいというノリだけで流しているのだとしたら,と考えると聞いているこちらが恥ずかしく思ってしまうのである。どうせだったら,サバイバーの「Eye of the Tiger」とかに代えてくれたらいいのに。。。

流れる洋楽の歌詞が,番組やCMの内容とあっていない例はまだまだありそうである。そのたびに私は少し,「アレっ」て思うのだろう。

以前,カップヌードルの宣伝でクィーンやヴァンヘーレンなどが歌っている画像に日本語の替え歌をのせていたCMがあったけれど,そちらの方がずっとセンスが良いと思う。

2025年3月1日土曜日

私の好きなスープレックス

 現在の私は投げることはできないけれど,私はスープレックスが大好きである。

スープレックスとは,プロレスの神様,カール・ゴッチの定義によれば「後ろから相手の胴をクラッチして反り投げてブリッジで固めるもの」(Wikipediaからの引用)とのことであり,ジャーマンスープレックスホールドの派生技をいうらしい。

なので定義通りにいえば,ホールドを不要とする私の投げは「スープレックス」ではなく,単なる「サルト」であるらしい。そのうえクラッチするのは相手の後ろからとは限らないから,それもスープレックスの定義から外れている。しかし,多くの日本人が間違って呼ぶように,柔道でいうところの裏投げ風の投げ技をここではスープレックスと呼ぶことにしたい。

昔は私もスープレックスのために,ブリッジを稽古し,首ブリッジなどして首を鍛えたりしていた。しかし,投げるだけならばジャーマンスープレックスホールドのように首で支える必要もないので,スープレックスのために首を鍛えるのをやめた。ブリッジもずいぶん背筋力が落ち,身体を反る柔軟性もなくなってしまったので,現在はまともにできなくなってしまった。そう,現在の私にはもうスープレックスを投げる体力がない。

しかし,それでもスープレックスが大好きなのは,それが一投必殺の技だからなのである。相手の胴,あるいは腕ごと身体をクラッチして,受け身が取れない状態で後ろに反り投げをする。コンクリートの地面にたたきつけることになるストリートではもちろん危険極まりない技となる。ここでは自分はブリッジすることなく,自分の身体を相手をクッションにして守る。それが私のスープレックスなのである。

私が遣えたスープレックスは3種類(ちなみに前田日明は12種類と言われていた)。

まずバックドロップ。バックドロップは私の定義で言えばスープレックスで「ベリー・トゥ・バック」のサルトにあたるわけだが,柔道の基本的な裏投げでもある。有名な格言のとおり,「バックドロップはヘソで投げる」のである(ベリー・トゥ・バック)。バックドロップには多くの名手がいるけれど,私が好きなのはジャンボ鶴田のバックドロップ。鶴田が本気で投げたら,相手はすぐに失神してしまうのではないかと思わせる完成度である。もちろんプロレスの試合ではそれなりの気遣いをしているのだろうけれど。

次は,変形のフロントスープレックス。本来,フロントスープレックスは「ベリー・トゥ・ベリー」(ヘソとヘソをあわせる)で投げるわけなのだけれど,これは非常に背筋力を必要とする。プロレスラーだけでなくアマレスの選手が「ベリー・トゥ・ベリー」で投げるのを見るとゾッとするほど危険な技である。当然,私にはそんな風に投げることができないのだけれど,変形として相手の斜めの角度に入るのを得意としていた。

最後は,キャプチュード。前田日明のオリジナル技らしい。しかし,相手の片膝を抱えて投げるのは,空手の「バッサイ大」の分解の変形になるのではないかと私は思っている。バッサイでは,後方に投げないけれど...蹴りのサバキからの投げ技は古来存在している。

ということで,スープレックスを再び遣えるようになるまで体力を元通りにしたいというのが今年の目標である。現状,スクワット10回がつらいのだけど...

#こう考えると,レスラーや柔道家はいかに危険な技を遣えるのか,ということに思い至り,恐怖する


2025年2月24日月曜日

年老いたものの身体の鍛え方はどうあるべきか

 私の身体的なピークは50歳代半ばと思って,50歳くらいまでは稽古してきたけれど,長岡に移ってから全くその目論見は外れている。とにかく稽古時間が少なくなり,また年齢による身体能力の低下により新型コロナやインフルエンザ,その他の病気に対し抵抗力がなくなって,全般的にいわゆる体力が低下したために,もう思うように心身が動かなくなってしまった。よく「錆びつく」という言葉が使われるけれど,うまく言ったものである。まさに私の体は錆びついている。

これからまた稽古には精を出したいと思っているけれど,時間をいかに作るかが課題である。一方,体力をつけるための稽古も年齢を経たために,これまでの力任せの筋肉トレーニングからなんらかの方向に変わっていかなければならない。

一般的に武術的な身体は体幹を鍛えるけれど,いわゆる筋トレはあまり行わないものだと思われている。それが力に頼らない武術であればあるほど,稽古の抽象度は上がっていき,筋トレの重要度は下がっていく。しかし,私はそうとは思っておらず,やはりそれなりに身体は鍛えたいと思っているのである。もちろん精神的な抽象度の高い心法の稽古は武術の根幹をなすものだと思っているけれど,全盛期のマイク・タイソンのように圧倒的な筋力とスピードをもつ相手に「術」が有効であるためには,相当の練度が必要である。それができるレベルは「達人」である(まぁ,私の最終目標である池波正太郎「剣客商売」の秋山小兵衛はそれができる設定になっているけれど)。

なにが言いたいかというと,武術であるためには試合(死合)の場で生き残らなければならず,筋力とスピードがあるものがやはり基本的には強いのであって,抽象論・精神論だけを語る似非武術者にはなりたくない,ということなのである。ゴリラは技を知らずとも強いのである。筋力があるだけで人は強いのである。そうした人たちと戦っても,負けないようになりたい。そうした稽古をしたいと考えているのである。

少なくとも,人をスープレックスで投げられる体力まで復活させたい。また一撃で人を倒せるほどの突きの撃力を相手に伝達できるほど体幹を鍛えたい。そして寝技に対応できる背筋をつけたい。身体の基本的な筋力をまた元のレベルまで戻したい...

ということで,体力ゼロの現状からいかにつけていくのかを考えている。少しずつ少しずつ身体を作っていきたい。うーん,とりあえず空手の型から始めるかな...

2025年2月23日日曜日

最高のオバハン中島ハルコ~マダム・イン・ちょこっとだけバンコク

 疲れた状態で観たいテレビ番組というのは,それなりに限られるものだけれど,今期,そうした数少ない番組の中のひとつが,

「最高のオバハン中島ハルコ~マダム・イン・ちょこっとだけバンコク」(フジテレビ,東海放送)

である。名古屋の美容整形外科医である中島ハルコが,恋愛,家庭,後継ぎなどいろいろな問題を解決していくコメディ物語。大地真央演じるスーパーレディーで,かつ上から目線の中島ハルコが,独特な観点で物語を解決していく。そしてそこに大きく振り回されるフードライターの不惑の女性を松本まりかが演じている。そもそも林真理子原作の小説らしいけれど,テレビ用に内容は大きく変わっているということである。

なぜ気楽に番組を観ていられるかというと,結局のところ番組の建付けが中島ハルコを黄門役とした「水戸黄門」となっているからなのだ。相談をもちこまれた問題を中島ハルコが解決して一件落着,すっきりと番組が終わってくれる。ちゃんと中島ハルコのそばには助さん格さんに相当する2名の事務長と秘書(?)が控えているし。

実は今回で第3シリーズとなる。たぶん人気があるのだろう。物語のフォーマットは「水戸黄門」ではあるが,解決する問題は「ロマンス詐欺」「後継者問題」「地域振興」「国際結婚」など現代的なものであり,それもハルコ独自の価値観から解決されたりするので,面白い。また,第1シリーズは名古屋が舞台で,第2シリーズは岐阜,そして今回はタイも舞台に含まれていて,それぞれ雰囲気が変わって飽きさせない設定になっている。

松本まりかの演技が,シリーズを経るごとにますますコメディよりになっているのがちょっと気にかかるけれど,彼女が語り部役割となっていて視聴者に解説してくれて物語がわかりやすくなっている。また彼女は,第1シリーズで不倫から立ち直り,今シリーズではロマンス詐欺から立ち直り,と不幸のどん底からいつも立ち直っていく物語になっているので,感情移入もしやすく,人気の理由になっているのだろう。

あるとき,名古屋に行った際に,この中島ハルコの舞台のポスターを見かけた。舞台化もされているらしい。大地真央の舞台は華やかだろうなぁ,と観てみたい気がする。

第3シリーズももう半分は過ぎているのだろうけれど,いまから第4シリーズも期待したいものである。深夜に気楽に観られる番組って,生活に案外に大切な役割を果たしているのだ。

#某消費者金融のCMの「今野」役の人も出ていて,ところどころCMをにおわせるメタなネタを入れてくるのも面白い。


2025年2月22日土曜日

身体を動かして心を調える

 この半年以上非常に体調が不良で,心身共に俗にいう不定愁訴が続いていて,パフォーマンスが落ちている。仕事状態も過飽和だったし,健康状態も新型コロナ,インフルエンザ,その他と通院を繰り返す有様だった。

おそらく年齢のせいだとは思うのだけれど,昔みたいに体力がない。そのため,集中力も欠くことになり,仕事の生産性も悪化し,仕事が溜まっていくという負のスパイラルに陥ってしまった。

新型コロナ,インフルエンザなどのために,ストレス発散の合氣道の稽古などにも行けなかったことも体力を落とした大きな原因だろう。

常々,自戒しているのだけれど,人間というのは決して精神だけで存在している高尚な存在ではないと思うことにしている。腹も減るし,眠くもなるし,疲れもする。そうした身体状態はその人の思考に強く影響を及ぼす。体調をまず整えなければ,自分のパフォーマンスも落ちるし,思考傾向もネガティブに陥りやすい。そのことはこれまでの人生で散々学んできた。なのに,ついつい精神状態だけで物事がうまく進むと考えてしまいがちなのである。いまだに。

自分の精神状態にもっと気をつけたい。いまどのような状態にあるのか,その状態は思考にどのような影響を与えているのか,そうしたことに敏感でありたい。そしてそのために,自分の身体の状態を繊細に把握できるようにしたい。呼吸,血圧,疲労などいろいろな観点から身体状態を知るインデックスはあるだろう。スマートウォッチなども良い測定器となるだろう。

中国武術では「調身,調息,調心」が重要視されている。まさに「調心」のために,まずは「調身」が基礎なのである。

2025年2月15日土曜日

スコップとシャベル,そしてショベル

 雪国では,車がスタックしたときのためにスコップ・シャベルが必需品である。私もラゲッジスペースにいつも積んである。さて,みなさんは長柄のこの雪を掘り返す道具をなんと呼ぶだろうか。

スコップ? シャベル?

どうも,どう呼ぶかは地域によって違うらしい。いや,同じ地域でもスコップと呼ぶ人もいるし,シャベルと呼ぶ人もいるようだ。どうもよくわからない。

私は,ガーデニングでよく使われる短い柄のものをスコップと呼び,雪かきに使うような長柄のものをシャベルと呼んでいる。どうも逆に呼ぶ地域もあるらしい。いや,私も気分によって変わっているし。

東西で違うのかとも思ったのだけれど,全国から学生が集まってくる長岡技術科学大学の学生に尋ねてもどうもはっきりしない。またシャベルの先端が丸い場合と平らな場合で使い分けている人もいる。

ネットで調べてみると,JISではっきりと定義されているようだけれど,日常生活においては混在しているようだ。

ふと,気づいたのだけれど,シャベルだって,「シャベル」と呼ぶ人と「ショベル」と呼ぶ人もいる。英語ではShovelらしいので,どちらも通用しそうだけれど,私は雪かき用はシャベル,一方重機はショベルカー,そして必殺技はショベルフックである。

2025年2月9日日曜日

雪かきを繰り返す

 大寒波がやってきた。一日に40~50cmの雪が積もり,人々は朝晩に雪かきを繰り返す。そんな大雪がやってきた。

夜,帰宅のために大学の駐車場に行くと,私の車が雪に埋もれていた。広い駐車場に私の車と隣の車,2台だけが雪にまみれて取り残されていた。遠くから駐車場のオレンジの照明が2台を照らしていた。

雪に埋もれた私の愛車

「やれやれ。雪かきにどのくらいの時間がかかるだろう」と呆れながらも,家に帰るにはやるしかないわけだから,車に常備しているスコップと雪かき棒を取り出し(取り出すためにも雪をかくわけだけれど),屋根の上に積もっている雪から落としていく。

そのうえ,私の車は残念ながら四輪駆動ではないので,雪が地面に積もっているとスタックしやすい。そのため,駐車場から道路までの道のりも雪かきして確保する必要もある。この日も駐車場のほぼ真ん中から駐車場の入り口までの道もスコップでつくる必要があった。

結局,40分。駐車場を出るのに要した。。。

スーパーに寄ってから自宅に向かう。しかし,私が住んでいる住宅への連絡道路は除雪が十分でなく,思いっきりその道路の入り口でスタックしてしまった。タイヤが雪に埋まって,車はもう前にも後ろにも動かない。それから30分,タイヤの周りの雪をスコップで掘り起こし,先に買っておいた「脱出ラダー」なども使ってみたけれど効果なし。どうしようかと途方に暮れかけているところに,「スタックしたのですか?」とジープに乗った若い二人が車から降りてきてくれた。私は事情を話し,一方の人に運転席に乗ってもらって,私ともう一人の人で車を前後から押すことにした。それまでの雪かきの努力もあってかすぐに脱出。本当にありがたかった。どこかで困っている人がいたら,私も押してあげようと思った。

その日,なんとか家にたどり着くことができたが大学の駐車場から要した時間は2時間半。心底ヘトヘトになった。部屋で着替えた頃にはもう日付も回ろうとしていたけれど,その後温かいお風呂に入ってリラックス。たいへんな夜だった。

朝起きて住んでいる住宅の駐車場で車を出すために雪かきをし,大学に着いて駐車スペースを確保するために駐車場の雪かきをし,夜,帰宅しようとして車を駐車場から掘り出すために雪かきをし,そして住宅の駐車場に着いて車を駐車するために自分の駐車スペースをまた雪かきする。寒波が続き,積雪が続く限り,この作業は繰り返されるのだ。

村上春樹は,誰が書いても良いような文章を書く仕事を「文化的雪かき」と呼んだ。しかし,この雪国の雪かきはフィジカルな「雪かき」である。誰がやっても良いけれど,雪かきした人には,疲労と(腰の)痛みを伴う。

2025年2月8日土曜日

マーラー 第8番交響曲

 このブログではときどき音楽について記事を書くけれど,意外にもマーラーの作品に関する記事が少ないことに我ながら驚く。こんなにマーラーの音楽を聴いているのに。

最近,テレビのCMでマーラーの第8番交響曲が流れているのに驚いた。マーラーという音楽家は有名だけれど,8番交響曲はかなりマイナーな気がするからだ。

この交響曲は別名「千人の交響曲」などと言われ,大編成のオーケストラと合唱団で演奏されるので本当に千人近い演奏者が必要となるのだ。そのため演奏機会が本当に少ない。CDの録音も他のマーラーの作品に比べぐっと少ないので,そもそも演奏を耳にする機会が少ないのである。

マーラーでさえもこの曲について,自分の作品の中で最大のものだ,と言っているし,「大宇宙が鳴動する」とまで言っている。とにかくスケールがでかいのである。

曲は2部構成なのだけれど,第1部冒頭からオルガンが鳴り響き,「来たれ、創造主たる聖霊よ!」とドカーンと歓喜の大合唱から曲が始まる。最初聴いたときにはびっくりした。レナード・バーンスタインの演奏の映像が残っているけれど,やっぱりレニーは指揮台の上で飛び跳ねている。とにかくすごい圧力なのである(この部分がCMで使われている)。

そのまま曲は盛り上がっていき,第1部が終了する。第2部は,ゲーテのファウストをもとに歌が入り,比較的落ち着いているけれど,曲が長い。1時間弱ある(第1部とあわせると演奏に90分程度要する。CDは通常2枚組)。正直をいうと途中で飽きてしまうこともしばしばである。でもマーラーのポジティブな部分は,彼の人生においてこの曲でピークに達していることは良くわかる。

そして,やはり難解である。私は複数の録音を所有しているけれど,バーンスタインやガリーニ,テンシュテット,ネーメ・ヤルヴィ,インバル,ショルティ,そして小澤などの録音ではどうもすっきりしなかった(レニーのものは迫力は凄いけれど)。それが,ブーレーズの録音を聴いたときに,ようやくいくつかの部分がすっきりと聴けたのである。だから,もしもこの曲を初めて聞くという人には,ぜひブーレーズの録音をおススメしたい。正直,好き嫌いがはっきりする曲だと思うので,マーラー初心者の人はもっと耳にやさしい第1番か第5番の交響曲をお勧めしたい。

2025年2月2日日曜日

抵抗心を起こさせない心理的誘導 (2)~心理誘導~

合氣道の流麗な技は相手に抵抗心を起こさせないから可能となるという話をした。相手の氣を導いて技を行っている途中で相手が抵抗心を起こしたら技は成立しなくなる。いかに相手に抵抗心を起こさせず,導くことができるか,それが重要なポイントとなる。

日常生活のコミュニケーションにおいても合氣道と同様のことが言えると私は考えている。相手の心に抵抗心を起こさせず,いかに喜んでついてきてくれるように導けるか。そのように相手の心を誘導する技法について私は常々考えている。喜んで協力してくれるような状態に常に導くことができれば,チームとして最高の能力を発揮できるはずである。

そのために心理的な誘導をする場合,コミュニケーションの最中に相手に抵抗心を起こさせないようにすることが肝要である。心理的な誘導も同様。反発心,疑念を持たせるとだめである。一番良いのは誘導されているとわからないように誘導すること。争う機会がない。占い師も客が疑念を持ち始めたらもう終わりである。

ではどうやったら相手に抵抗心を起こさせないことができるのか。

まず話の内容が大切である。相手にとってのメリット,デメリットを理解してもらい,疑問点,不安が無いようにする。継続した協力をお願いするにはこの内容の理解は欠かせない。

次に内容の伝え方である。相手にネガティブな感情を起こさせないようなコミュニケーションが重要である。

1. 表情:顔が笑顔でなく緊張した表情であったり,眉をひそめたり吊り上げたりしていると,相手は何が始まるのだろうと身構えてしまう。つまり抵抗心が生まれる。リラックスした表情で話をしたいものである。

2. 姿勢:前のめりで話をされたらどうだろう。やはり身構えてしまうのではないだろうか。俗にいう「けんか腰」というものである。表情に比べて人間の姿勢はその人の感情を伝えやすい。

3. 内容の説明の仕方:コップの中に水が半分満たされている。「半分しかない」と説明すればネガティブに受け取られてしまうだろう。「半分ある」あるいは「半分もある」と説明するとニュアンスが変わってくる。人間は不安から解放された状態にある方が能力を発揮できる。ポジティブに伝えることが大事であると考えている。

4. 口調,声の質,身体などノンバーバルな伝達方法には特に注意が必要である。コミュニケーションがうまくいっているという雰囲気をつくるためには,話す内容よりもこうした言葉以外のコミュニケーションが重要である。腹が立っていることをすぐに表情や姿勢,声の高さ,話すスピードなど,表面に出してしまう癖は直したいものである。

5. 一つの方法として,相手を誘導しているという自分の意図が伝わらないようにコミュニケーションをすることもある。これこそが心理誘導で最も効果的なのではないだろうか。武道だったら,攻撃する前に自分の意図・気配が相手に伝わってしまったらダメである。いつのまにか,私の話に引き込まれている。そんなコミュニケーションが最も効果的だと思っている(現代催眠に近い話だけれど)。

つまりは,武道における立ち合いというのは究極のコミュニケーションであって,それをもとに考えれば,日常生活のコミュニケーションに応用できるということなのだ。もちろん,私は修行中なので,自分の思う通りにはコミュニケーションが持てていません。あしからず。。。


2025年2月1日土曜日

抵抗心を起こさせない心理的誘導 (1)~心身統一合氣道~

私が稽古している心身統一合氣道にはいくつかのプリンシプルがあって,それに基づいて技を行うのだけれど,そのひとつに「争わざるの理」というものがある。

合氣道の演武をみると八百長にしか思えない技が数多くみられるが(本当に八百長もあるけれど),それはこの「争わざるの理」に従って技を行っているからに他ならない。私が稽古している合氣道では「相手の氣を導いて」技を行うことになっている。すなわち,相手の思うように攻撃させてあげるから(氣を尊んで導くから),技が成立するのである。

もちろん,相手の攻撃にはあたらないことが前提で,こちらがそれを導いてよけるわけなのだけれど,基本的に相手は(よけられるけれど)私を攻撃しようとする欲求を満たすことなるので,相手は私を攻撃している最中には(たとえば私を殴ろうとしてこぶしを振り上げておろす間には)別の攻撃をしてこないのである。その間に技を行う。これをアメリカンファイティングスタイルのように,相手が右手で殴り掛かってくるのをこちらの左手で止めると,当然その瞬間相手は左手を出してきて,いつまでたっても相手の攻撃はおさまらないことになる。私も攻撃を受けるのに精一杯でいつかはスキができてしまう。

相手の攻撃を受け止める,すなわち遮ると相手の次の攻撃がやってくる。相手の心に瞬間的な抵抗が生まれるからである(ほぼ格闘技の稽古によって無意識に次の攻撃が繰り出されるのでその心の働きは察知することは難しいけれど)。

合氣道の「争わざるの理」とは,この抵抗心を相手に起こさせないという意味も含まれているのではないかと私は思っている。相手の心を汲んで氣を導き,この抵抗心が相手に生じない限り,相手はよろこんで私についてきてくれる。だから合氣道の技が成立するのである。

またこのような技を行う限り,相手は反撃する機会を失ってしまう。結局,何をされたかわからないうちに投げられてしまうのである。その結果,道場の稽古だと相手は投げられると何をされたのかわからなくなるで,思わず笑ってしまうのである。

このように正しい合氣道の技が行われているのであれば,無理を通したゴツゴツとした技はありえない。そもそもゴツゴツとした技では,力と力のぶつかりあいがどこかにあるので,筋力などに大きな差があれば,技が成立しないのである。それをごまかすためには当身を多用することになる。(もちろん,私は有効な攻撃として当身を否定するものではない)

藤平光一先生が,280 kgの石を投げることはできないが,280 kgの相撲力士であれば投げることができる。それは心があるからだ,とおっしゃっていた。抵抗心を起こさせず,氣を導けば合氣道の技が可能となるということだろう。

合氣道の流麗な演武は,攻撃をする相手に抵抗心を起こさせずに導くから可能となるのである。

2025年1月25日土曜日

マーラー交響曲第7番,東京フィルハーモニー,広上淳一の演奏会に行く

 長岡に引っ越してきて6年が過ぎた。長岡では,音楽に触れる機会がほとんどない。まして生のオーケストラの演奏会にいくことなど,まったく考えもしなかった。

関西にいた頃はそれでも年に1回程度,何かしらの演奏会に行っていた。それ以前に茨城県に住んでいたころは,水戸芸術館で開催されるコンサートに年に数回足を運んでいた(子供が生まれる前までだけれど。一番,演奏会に行っていたのは東京の大学の博士後期課程の頃だったろうか。その頃はコンサートに行って生演奏を聴くのが楽しくてしょうがなかった。いつでも東京ではコンサートが開かれていたし)

長岡には,そもそもオーケストラが来ることなどめったにないのだけれど,今回たまたま東京フィルハーモニーが長岡に来ることを知った。演奏曲目はなんとマーラーの交響曲第7番。対局である。そもそもマーラー7なんて聴く機会はめったにないから,ぜひ行きたいと思っていたのだけれど,最近の私のスケジュールはあとからどんどん詰まることが多いので,チケットを購入するのをためらっていた。そして,とうとうコンサート当日になって行けることがはっきりしたので,当日券もあるというので聴きに行くことしたのである。

会場に行って,当日券がわずかであるけれどあるということで,窓口に行って購入しようかというときに,後ろから杖をついた紳士が私に,「おひとりですか?」と声をかけてきた。「はい」と答えると,「私の隣の席のチケットが一枚余っているのでいかがですか」という。どうも奥様が急にコンサートに来られなくなったということらしい。その方は品もよさそうだったので,その方からチケットを譲っていただくことにした。席はS席で,前から3列目という演奏者の動きがはっきりと見える位置で,私としてはたいへん申し訳なく思うほどだった。当初,その紳士は代金は不要だとのお話だったけれど,私としてもとてもそういうわけにもいかないので,販売価格だけれどチケット代5000円はお渡しした。これで少しは気楽に演奏を鑑賞できる。。。正直,そう思った。

隣に座ったその紳士は,クラシック音楽ファンのご様子で,時にはわざわざ東京や川崎にまで足を延ばして演奏会に行くらしい。素敵なご趣味である。一方,私は6年ぶり以上の演奏会で,少しワクワクしていた。

東京フィルを聴くなんていつ以来だろう?今回は,本来この曲は首席指揮者のアンドレア・バッティストーニが振るはずだったのだけれど,なんとケガをしてしまったらしく,急遽,広上淳一が代役で振ることになった。そもそもこのコンサートは,本来はアンドレア・バッティストーニが11月に振るはずだったものが1月に延び,そして広上が振ることなったのである。やれやれ。

マーラー7の大曲なのに,急遽の代役ということで心配したのだけれど,演奏は良かった。さすがマエストロ広上。経験豊富なのだろう。しかし,演奏は良かったと思うのだけれど,この曲は複雑すぎて聴いていても(少なくとも私には)正直難しい曲なのである。メロディーに心を委ねるということができない。いろいろなモチーフが重なり合って,そして大きな音とともに演奏され,どうも支離滅裂に聞こえる曲なのだ。しかし,だからといって嫌いかといわれると,実はそうでもない。実際,この6年間,マーラーの作品のなかで最もよく聴いたのは(CDなどで)この7番なのである。特にアバド&BPOの録音を好んで聴く。

生演奏はいろいろな音がクリアに聞こえてくるので,やはりCDなどとは異なる感動が得られる。特にマーラーのこの作品は,ギターやらカウベルやら鉄琴,果てはムチ?などいろいろな楽器で演奏されるので,生演奏を聴いているとハッと気づかされて楽しいのである。80分を超える大曲だったけれど,おかげさまで集中して聴きとおすことができた。東京フィル&広上の素晴らしさに拍手。でも,曲が終わって楽員が立ち上がり聴衆に向かって挨拶するときには,楽団の顔に笑顔は少なくて,私は「演奏は期待通りではなかったのかな」と勘ぐってしまうほどだった。拍手が続き2回,3回とあいさつするうちにみなさん笑顔になってきたけれど,少しそれが気になった。私としては,作品を堪能できて十分満足だったのだけれど。

ということで,6年ぶりくらいのコンサート経験。思ったのは,「やはりときどき生演奏を聴かないと音楽の本質に触れることはできないなぁ」ということ。長岡に来て,大型のステレオセットで音楽を聴くこともない。PCの小さなスピーカーか,カーステレオで聴くばかりである。深く反省。残り少ない人生なのだから,せめて音楽会くらいは足しげく通いたいものである。

#広上淳一の最後の挨拶で,「昨晩,お酒を堪能させていただいた」「オーケストラがなくなるようなときは,人類滅亡のときだ」「震災で被災地の人たちに励まされた。彼らに癒しの時間を届けたい」という言葉が心に残った。

2025年1月19日日曜日

深層心理の操作法としての宗教的儀式について(4)

 宗教的儀式によって深層心理を操作するという話の第4回目。

人をトランスに入れて,一種の暗示を与えることによって,人々の心理を変化させようとすることは,宗教では普通に行われてきたということになる。この人々の心の変容が,その人の役にたつのであれば良いのだけれど,誰かのために都合よく行動するような価値観を植え付けられるようになるとそれは「洗脳」となる。

それを容易に行う方法は古来研究されてきていて,そもそも「洗脳」という言葉も朝鮮戦争における思想教育から生まれている(中国語。英訳はBrainwash)。もちろん,思想だけでなくカルトな教団の偏った教義を植え付けるのにも洗脳は使用されている。簡単なのは独房などに閉じ込め,視聴覚刺激や薬物と一緒に洗脳を行うことだろうけれど,この方法は下手をするとその人の心を壊してしまう可能性がある。洗脳が「やりすぎ」になりがちなのである。

その点,伝統宗教は長い歴史の中で,「ほどほど」な量を把握している。例えば密教は厳しい修行によって悟りを得る宗教だけれど,次の命がけの厳しい修行に耐えられるかどうかを,高僧たちが判断し,許可してから修行を行うのだという。そこらへんのボーダーラインは1000年以上の歴史の中で成功した人と失敗した人のデータを積み重ね,「ここまでだったら大丈夫」という検討によって得られているのだと思われる。一方,新興宗教やカルト宗教では,その境界の判断を飛び越えて,安易に薬物や視聴覚の効果を与えることで,「悟り」を得ようとすることや「洗脳」しようとするので失敗してしまう人が出てきてしまうのだろう。儀式の真似事をすることで不十分な儀式となってしまい,失敗して重大な結果を招く,というのはモキュメンタリー「飯沼一家に謝罪します」でも描かれていたことである。

そして私には武道の世界でも同様なことがあると思われる。段階を踏んで修行を進めていかず,一足飛びに高度な修行に入ってしまうと,身体だけではなく心の健康も損ねてしまう修行法が古来伝承されている武道にはあったりする。あるいはいきなり高い段階の修行をしようにもその効果が得られなかったり,そもそも意味が理解できないものもある。適切に伝承されてきた武道にはそうした修行のノウハウが伝統宗教同様に蓄積されているものである。

こうして考えると宗教であっても,武道であっても,修行の高い段階に進むためには,それを伝え,また修行時期を判断できる良い指導者の存在が不可欠であることがわかる。この良き修行者が不在となれば,こうした珠玉の遺産は継承されず潰えてしまうのである。いままでにどれだけの「法(技術)」と「教え」がこの世の中から消滅してしまったのだろうか。そして将来,また誰かがそれらを再発見することは可能なのだろうか。人類が失ってきた遺産の大きさについて思う。

(とりあえず,このシリーズ完結です)


#例えば,継承が途絶えてしまった古武術などどれだけあるのだろうか?例えば,江戸時代初期,往時1万人以上の門弟がいて隆盛を誇っていたという無住心剣流がその後急速に力をなくし,潰えてしまったという。技術が高度化しすぎるのも(天才しか理解できなくなり)継承が難しくなってしまうので課題なのだなぁとしみじみ思う...

2025年1月18日土曜日

深層心理の操作法としての宗教的儀式について(3)

宗教儀式とは深層心理の操作を行うものだという話の続きである。第1回目第2回目と続き,今回は第3回目である。好きなんです,この話。

これまで宗教儀式は,教義を信者に植え付けるため(暗示を与えるため,あるいは洗脳するため)に効果的な環境下において行われるという話をした。例えば,巨大な建築物による威圧,内部の暗い環境,あるいはお香などの香り,そして低く響く音楽または詠唱。こうしたものを集団的に人々に与える,あるいは独り個室の中で与えられれば,人はトランスに入りやすくなるだろう。

そしてさらに,カタルシスを与えるような物語を与える,あるいは「あなたはあなたのままでいい」などという確固たる肯定感を受け付けるようにすれば,儀式を主宰する人,団体に心酔しやすくなるに違いない。絶対たる肯定感を権威者から与えられたら(例えば,神様がそれでよいと言っている,のように),その人は安心して性格,行動なども変わる可能性が高くなる。この効果の良い面に着目すれば(教えが性善として与えられれば),宗教は良いものだということになり,古来その良い効果を得るために宗教は信じられ,尊重されてきたのだろう。

このトランスを安易に得る方法もある。それは薬物などである。私の生まれる前だけれど,60年代~70年代にヒッピー文化というものがあって,そこではLSDなどを使って安易にトリップして価値観が変わる体験をすることが流行していたのだという。当時ビートルズだってインドのグル,マハリシに傾倒したし,カスタネダの呪術師ドン・ファンに関わる著作が話題になっていた(ちなみに私はカスタネダの著作は未読である。いつか読んでみたいけれどその機会と時間に恵まれていない)。ベトナム戦争など世界的に社会に不安を感じる人が多くなって,そうした精神世界に安定を求める人々が多かったということだろう。

暗示を与えるのであれば,宗教のミサのように人々をトランスに入れてから,寓意的な物語を植え付けるのが良いような気がするけれど,もっと劇的な効果が必要であれば,対象である人の人格を徹底的に否定するようなことを長時間して,それから絶対的な肯定をしてあげる方法もある。これを宗教的儀式と同様に特殊な環境下で行えば非常に効果的である。さらに人格否定を集団で個人に対して熱狂的に行えば,より効果的な異常な雰囲気を作り出すことも容易になる。ただし,こちらは人を他人や団体の欲望・利益のためにコントロールしようという面が強く,社会的ではない。


2025年1月13日月曜日

深層心理の操作法としての宗教的儀式について(2)

 宗教的儀式は,人々をトランスに入れ深層心理を操作することによって「救われる」などという考えを植え付けることが目的ではないだろうか,という話の続き。(あくまでも個人的な考えです)

人々の集団をトランスに入れることは,「集団催眠」という言葉がよく知られているように比較的に容易であるといわれている(最近は「集団ヒステリー」という言葉を聞かなくなったが)。周囲の人々が次々とトランス状態になっていくと,自分もトランスに入りやすくなってしまう。催眠商法などがその最たる例である。

トランス状態に導きやすい環境ということにはいくつかの特徴がある。それらのいくつかを上げてみる。

まず環境の暗さ。明るいところでは顕在意識が強く働くため,暗示などが効きにくい。薄暗いところであると,潜在意識が優位になってきて,トランスに入りやすくなる。同じ映画を観るという体験でも,薄暗い映画館の中で観るのと,明るい自宅のリビングで観るのでは,その体験の深さが違うことはよく感じられるのではないか(だから映画は映画館で観たい!)。

「暗さ」というのは照度・輝度という単位で測られるものを指すだけではない。環境の「暗さ」とは,その土地土地の心理的な影響もある。伊勢神宮の参道の明るさと,因縁のある心霊スポットの暗さは,これは測定器で測れるものというよりも,自分の心理状態の反映が現れているといえる。なにか「ジメジメ」して「暗い」。「肌寒さを感じる」,「気味が悪い」という印象は,人間の感覚を鋭敏にし,一方で思考を内向的にする。結果,トランスに入りやすくなる(光の点滅も「てんかん」を引き起こすなど人間に大きな影響を与えるけれど,それはまた別の機会に)。

次に,音楽や詠唱。クラシック音楽には宗教音楽という分野があって,音楽の中でも最も古い部類に分けられる。例えば,「チャント」。古代のチャントはずいぶんと単調な音型の繰り返しであったらしい。それがグレゴリオ聖歌のようにだんだん複雑なものに進化していったとのことだけれど,人間はこうした単調な音型が繰り返されることによってトランスに入りやすくなる。歌われている内容などあまり関係ない。むしろ何を言っているのかわからないくらいがちょうどいい。それが繰り返されることにより,脳は感覚が鈍化していく。また,中~低音域の人間の声はやはり人に効果を与えやすいのは間違いがない。催眠術師の声がだんだん低く,ゆっくりと,やわらかくなっていくのもその効果を狙っている。仏教における声明などもそうだし(黛敏郎の「涅槃交響曲」などを聴いてほしい),躁状態に導くのであれば祭りにおける太鼓のリズムも人々を陶酔に誘い,効果的である。

炎ももちろん効果的である。ろうそくの灯がゆらめくのを見つめていれば心が無になっていくし,仏教の護摩祈祷などは炎の形が大きく変化して,それに集中することはさらに効果的である。

こうした考えてみると,教会やお寺のお堂で行われる宗教的儀式は,トランスに入りやすくなるような条件を複数備えていることに気づく。さらに集団で行われることによって,トランスに入りやすい人が呼び水となって,集団催眠のように多くの人を導きやすくなっている。残念ながら人間というのはそのようにできていて,潜在意識は「善悪」を判断することができず,儀式は私たちの深層心理に深く影響を与える。そうした儀式のなかで,歌や説教,効果音などによって,カタルシスを信者に与えることによって,人々は魂の浄化,救済を感じ,宗教家は信者を増やすことができる。なんとよくできたシステムだろう。人間が社会性を持ち始めてから,やはり儀式と宗教は人々をまとめるために必要不可欠のものだったに違いない。感心せずにはいられないのである。


2025年1月12日日曜日

魔界転生...東映時代劇の最高傑作!

 「魔界転生」(1981年,深作欣二監督)

を観た。今年3本目。

なんといっても私はこの映画が大好きで,何度も観ているはずである。妖奇ファンタジーホラー時代劇というべきか。深作欣二のケレン味たっぷりの演出がもう最高である。この2年後に深作は「南総里見八犬伝」(薬師丸ひろ子,真田広之)を撮っているけれど,作品のクオリティは,こちらの方が10倍以上素晴らしいと私は思っている。

なにが素晴らしいって,まず豪華な俳優陣。主人公の柳生十兵衛の千葉真一に対し,なんと天草四郎が沢田研二!魔界堕ちしてしまう十兵衛の父,宗矩には若山富三郎。そのほかにも宮本武蔵役に緒形拳,宝蔵院胤舜に室田日出夫,伊賀忍者霧丸に真田広之,細川ガラシャに佳那晃子。さらに神刀「村正」を打つ刀鍛冶に丹波哲郎,その養女に神崎愛。そして忘れてはいけない成田三樹夫ということで東映時代劇オールスターズとなっている(「柳生一族の陰謀」と似たような布陣?)。

今回観て,あらためて思ったのは細川ガラシャ役の佳那晃子の妖艶な美しさ。この美しさを映画の中に記録できたのは,佳那さんにとっても幸せだったのではないかと思う。炎に包まれた江戸城でなぎなたを振るう姿に惚れ惚れとする。男を,いや国をダメにする傾国の美女とは彼女のような人をいうのだろう。

次に思ったのは,アクションのすばらしさ。現代であったら絶対許されないような,あるいはCGで実現される危険なアクションがあちらこちらに見られる。昔は本当に身体をはって映画を撮っていたのだなぁと思う。最後の炎に包まれ落城していく江戸城の中での殺陣はどのように撮影したのだろう?CGのなかった時代だから,実際に炎を焚いたのだろうか。そのなかでの殺陣はさぞかし暑くて,危険なものであったろう。ちなみに本作のアクション監督は千葉真一となっている。なにか,無理をいいそう。。。

そしてもちろん若山富三郎の殺陣の素晴らしさ。なんど絶賛しても物足りない。もちろん,千葉真一や室田日出夫など,相手役があっての殺陣の出来栄えなのだろけれど,何度みても凄い。たぶん撮影時,若山富三郎は五十代半ばで(私と同じくらい?_)そろそろ体力的に衰え始めていただろうに,見事な足さばきで,ときどきジャンプも見せていて,この人ならではの殺陣を見せている。また目の芝居が素晴らしい。さぞかし,撮影現場では怖かっただろうなぁと想像する。

この作品があまりにも素晴らしかったために,この後も本作品は何度も映像化(映画,テレビドラマ,演劇)されている。魔界からよみがえった宗矩と十兵衛の親子対決なんて,思いついた山田風太郎は本当に天才。なんどみても良い映画。映画好き,時代劇好きにはぜひみていただきたい傑作である。

評価はもちろん星5点満点★★★★★!


2025年1月11日土曜日

ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー

 「ベイビーわるきゅーれ」に続いて,第2弾も鑑賞。

ベイビーわるきゅーれ2ベイビー」(阪元裕吾監督,2023年)

今年2本目の映画。主演2名をはじめとして前作と変わらない登場人物で世界観は維持されている。主演の女の子の殺し屋2名を殺して自分たちが正規の殺し屋になろうとする,殺し屋のバイト格である若い男2名の話を軸とした作品。相変わらず社会不適応者である女の子の殺し屋2名(高石あかり,伊澤彩織)の日常生活がコメディとして描かれる。

正直な感想として,前作に比べちょっと今回は余談というか,寄り道のエピソードが多いような気がする。そのために,なにかノイズが多くてストーリーへのフォーカスが甘くなっている印象である。メインである丞威と濱田龍臣が演じる殺し屋2名の話に戻ってくると,画面がしまるのだけれど。この若い男2名の結末は破滅であろうということを私たちは理解して映画を観ているので,もっともっと彼らに死亡フラグを立ててもよかったのではないかと思う。本作ではこの二人の演技のみずみずしさが一番強く印象に残った。

この4人によって行われる最後の場面の殺陣はよいのだけれど,最初に男2名があっさりとやられてしまうのに最後の戦いではすごく強くなっていることや,主人公2名も強さ,弱さがそのときどきで一定していないことが気になった。殺し屋の戦闘能力が場合によって変わってしまうのは,プロフェッショナルとしてどうなのか,と思う。主人公は,プロであるという設定なのだから,もっともっと闘いについてはシビアでよいのではないかと思った。

実は,このシリーズには第3弾「ベイビーわるきゅーれナイスデイズ」があり,テレビ東京の連続ドラマ「ベイビーわるきゅーれエブリデイ!」が続く。3作目の映画はまだ観ておらず,テレビドラマは実は最初で観ることに心が折れてしまっていた。もう少し落ち着いたらどちらも観てみたい。その期待を込めて,今回の評価は星3つ(5つが満点)★★★☆☆

2025年1月5日日曜日

深層心理の操作法としての宗教的儀式について(1)

 「飯沼一家に謝罪します」の記事においても書いたけれど,人間にとって宗教的儀式は確かに効果があると思っている。

人類において「神が先か,儀式が先か」という議論があるけれど,やはり「儀式が先」の説が有力らしい。それほど人間にとって,儀式は重要な意味を持っているのだ。

儀式は簡単に言えば,人をトランスに入れて,そのうえで深層心理を操作するものであると考えている。日頃から人々に教義を植え付けておき,十分な信心があるうえでトランスに入れるのだから,トランスにも入れやすいだろうし,その深さも深いものになるだろう。

宗教的儀式が行われる環境もトランスに人を入れやすいものになっている。例えばキリスト教。見上げるような荘厳なゴシック建築の教会。その中は薄暗く,ステンドグラスからの光を見上げるように作られている。目の前には由緒あるキリストの像がゆらめくろうそくの炎の向こうに見える。そしてまるで天から降り注ぐようなパイプオルガンの低音を響かせた和音が鳴り響き,合唱ののちに神父をはじめとする朗々とした朗読が始まって集団で祈りを捧げる。集団トランスに入る準備は万全である。

宗教でこうした儀式によるトランスを重視するのは,それによって人々が「救われた」と思うからではないだろうか。日常生活の中で単に神父から説教を受けるよりも,教会の儀式の中でトランスに入り,潜在意識にはたらきかけるように「物語」として暗示がなされる。そして「困難の中にあってもそれは神が与えたものだ」,「正しいことをしているので不安に思うことはない」,「将来救済される」などの考えの種が潜在意識の中に植え付けられていくことによって,人々の心は軽くなり「救われた」という感覚を得ているのではないだろうか。

神様の非合理的な話は,トランス状態だからこそ論理的な判断を行う顕在意識の殻をスルーして,直接潜在意識の奥深く,自分では認識できない深層心理に届きやすいのではないかと思う。トランスに入った人が認識できないうちに深層心理が操作される可能性があるのである。

人々をまとめていくには,政治学よりも宗教の方がより効率的であり強固な団体を作りやすいことは明らかである(皆が宗教を信じればの話だけれど)。古来,集団生活が必要だった人類は,だからこそ神がいなくとも儀式が必要であったのではないかと思うのである。

トランス状態にして深層心理を操作する。そこに宗教的儀式の意味があると思うのである。

2025年1月4日土曜日

ベイビーわるきゅーれ

 記念すべき今年初の映画鑑賞一本目は,

ベイビーわるきゅーれ」(阪元裕吾監督,2021年)

であった。朝ドラの主演が決定した高石あかりと,ジョン・ウィックでもスタントを演じている伊澤彩織の主演による女の子二人の殺し屋によるほのぼの(?)ストーリー。アクションはハードだけれど,日常生活は社会不適応者のために失敗ばかりでほぼコメディという,そのコントラストが面白い映画である。

以前から話題になっていて(アクション映画がどんどんおススメされる私のYoutubeにも何度もおススメされているし),観よう観ようと思っていたのだけれど,なかなかその機会がなかった。今回はAbemaで正月に観ることができたのである。

うーん,面白いし,魅力的なんだけれど,「カワイイ」と「過激」が共存するこの映画は日本でしか生まれなかっただろうな,という感想をまず持った。世界的にウケるのだろうか,とも思ったのだけれど,この映画は海外でも結構注目されたというから,一定の層(たぶんちょっとオタク的な人々)には歓迎される内容なのだろう。

内容といえば,まったくWetな要素がないのもいい。恋愛だとか哀れみだとか,そんな日本映画にありがちな湿った演出がないのが素晴らしい。こうしたところは「シン・ゴジラ」にも通じていて,死亡フラグなど考えなくて済むので気楽に観ることができた。

主演の二人がこの映画にぴったりで,独特の雰囲気を醸し出していて良いと思った。実際には伊澤の方が高石よりも8歳も年上とのことであるが,ドライで少しかみ合わない,それでいて友情があるような不思議な(殺し屋だったらそうなのかも,と思わせる)関係性をちゃんと成立させている。こういうファンタジーに納得性を持たせるのはやはり役者の力なのだと思わせる。

今年一本目は当たりであった。これは幸先がよさそうである。評価は,今後の期待も含めて星4つ(満点は5つ)★★★★☆。

2025年1月3日金曜日

飯沼一家に謝罪します

年末にまたモキュメンタリーを観た。

 「飯沼一家に謝罪します」(テレビ東京,深夜,全4回)

イシナガキクエを探しています」に続くTXQ FICTION第2弾である。

今回は,1999年に矢代という民俗学者が,運気を上げたいという飯沼一家にある儀式を行ったところ,TV番組で100万円とハワイ旅行を獲得したのだけれど,そのすぐあとに家が全焼して一家が焼死するという不幸に見舞われた,という話。儀式は失敗したのではないかと気づいていた矢代が2004年に「飯沼一家に謝罪します」というTV番組で公開謝罪をし,彼自身もまた別の儀式を行って行方不明ということになったことの真相を,2024年のこの番組で追う,というものである。

(以下,ネタバレ)上の話だけ読んでもなんのことだか,まったくさっぱりわからない話なのだけれど,実は飯沼家には引きこもりの長男がいて,その長男の代わりに親戚の男の子が替え玉としてTV番組にでることになった。そして,この男の子が一緒に(不完全な)儀式を受けたために,火事の際には実は長男と一緒に助かったのだけれど,その後引きこもりになってしまい,病気になってしまった。このとばっちりをうけた男の子の母親がこの復讐のためにTV番組を作るように工作して,矢代に別の儀式をおこなわせ,自分の息子ともども救われない状態にしたというのが真相らしい。

そもそも民俗学者が宗教的な儀式をゼミの学生と一緒に行っているというのがツッコミどころなのだけれど,まぁ,「妖怪ハンター」みたいなものかとも思う。矢代が行った儀式では,みんなが嫌に思っていることを紙に書いて箱に入れたのだけれど,替え玉の男の子が「数学の試験」と書いたほかは,全員が「長男」のことを書いていた。これを知ったオカルトマニアの長男がその儀式を失敗させたのではないかということらしい。その長男だけは普通にリンゴ園を営んだりしていて助かっている。

私は,呪いや魔術というものの効果を信じているけれど(科学的な意味ではなく,深層心理を含む心理的な操作方法として),ここでは人智を超えた力が儀式によって働いているということになっている。それが失敗に終わって痛い目にあう,そんな話ということらしい。

さまざまな考察がネットにあげられているけれど,最初から番組として不完全なものとして作られているだろうから,結局正解など無いに違いない。しかし,「イシナガキクエ」もそうだったけれど,人間が人智を超えた闇にふれてしまうことによって,人生をおかしくしてしまうというテーマが描かれているように感じる。

そして,私も不完全な儀式は怖いという考えに同意するのである。


2025年1月2日木曜日

2025年の目標

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

ということで,今年もいつもコーヒー店に来てブログを書いている。毎年,今年の目標というものを立てるのだけれど,昨年も目標はなにひとつ達成できていない。忙しくて,そもそも目標達成のための努力すらできなかった。なんと恥ずかしいことだろう(かろうじて映画は12本以上みたけれど,そのうち8本は米国出張の往復の飛行機の中で観たものである...)。

「忙しさ」は自分でコントロールできるものである。それが昨年はできていなかった。これは深く反省すべき点である。また毎年なにかしら病院のお世話になっており,昨年は夏の腹痛による救急治療に加え,秋には「心筋梗塞疑い」と「新型コロナウィルス感染」があって,自分の健康管理についてもかなり問題があることが明らかとなった。心身の状態についてもコントロールできていない。

ということで今年は,

心身を自分のコントロール下に置き,少しはマシな人間になる

というのが目標である。そのために武道の稽古に精進したいと考えている。そして,昨年通りの目標に加え,次の目標を立てる。

  1. 慈眼温容
  2. 沈思黙考
  3. 稽古三昧
  4. 締切厳守

そして昨年の目標をそのまま受け継ぐ。

  1. 「叶えたい夢を見つける」
  2. 「身体を鍛えて体重を5kg減らす」
  3. 「合氣道の稽古量を増やす」
  4. 「本を12冊読む」
  5. 「映画を12本観る」
  6. 「人生をもっと楽しむ」
  7. 「身体の姿勢に気をつける」
  8. 「終活をはじめる」
  9. 「誠実に機嫌よく生きる」

実は,小倉智昭さんが年末に亡くなったニュースに触れ,彼が以前に書いた新聞のコラムを読んで深く思うところがあった。「年を取ってからやろう,引退してからやろう,なんてことはいざ年をとってみると体力がなくて全然できない」というような内容であった。この5年間,毎年のように身体に不調があった私には強い警告として心に残った。これからは,後悔しないように好きなことをして生きようと思う。

#こんなことを書いて,映画などでいう「死亡フラグ」にならぬよう気をつけよう。


偽りの記憶

 リバイバル上映をしている 映画「Love Letter」を,シネスイッチ銀座で観たという話 を書いた。しかし,文章を書いているうちに,その記憶が本当のものなのか,偽りのものなのか,自信が持てなくなってきた。 調べてみると「Love Letter」のシネスイッチ銀座での上映期間は...