2025年11月24日月曜日

金運上昇で有名な高龍神社に参拝する

私は神社を参拝することは大好きなのだけれど, まだ地元長岡の神社をすべてお参りできたわけではない。今回は,金運アップで有名な(らしい)高龍神社にお参りしてきた。

初夏,学会で長岡にいらした方も「高龍神社」にわざわざ参拝に出かけられていたくらい金運アップで全国的に(一部,龍神ファンに)有名だということは知っていたのだけれど,私は今回が初めてである。

長岡駅からは車で30分はかからない。神社には専用の駐車場もあるので参詣しやすいのだけれど,春から夏のシーズンは参拝者が多くてこれらの駐車場は満杯になることが多いのだという。今回は,先週に降った雪もまだ残っているくらいの寒さであったので,参拝者は少なく駐車場にもすぐに車を停められた。しかし,こんな肌寒い季節にこんな山奥にわざわざ足を運ぶ人がこんなにいるなんて。。。と驚くくらい人が多く,途中の山道では何台もの車とすれ違った。

高龍神社の駐車場に車をとめて,まずはその上流にある「不動社」に参拝しようとする。歩いて15分くらいの山道を登る。天気が良かったので,迷わず徒歩で進み始めたのだけれど,ひとり,谷沿いの道(舗装はされているのだけれど)を歩いていると熊と遭遇しないか,だんだん怖くなってきた。周囲に目を配りながら速足で歩き,社を見つけたときは少々安堵した。

「不動社」は,滝行などがおこわわれる神聖な場所である「不動滝」の上に建っている。普通に社務所が隣にあって,駐車場も完備。まずは人がたくさんいることに安心した。この不動社は1200年前に弘法大師が開いたということで不動明王が祀られている。

向こうに見える滝の下は修行場となっているらしく,階段がつながっている(常時閉鎖)

早速,社にお参りをして,また駐車場まで坂を下る。下り坂は楽で時間も早いけれど,やっぱり熊が気になる。今度は春か夏に来よう。

あらためて高龍神社にお参りする。高龍神社は参道からいくと118段の石段を上った先にある。階段の半分のところまでエレベータがあるのだけれど,私は石段を登り始めた。そして60段くらい登ったところで,やっぱり後悔した。腿が動かなくなってくる。上から階段を下りてくる人に「頑張って」と励まされながら,なんとか社までたどり着く。これだけで達成感を得ることができる。

高龍神社の石段の上り口

石段の上にある社

早速お参りをして,仕事開運のお守りを購入し,恒例のおみくじを引く。「中吉」。しかし,仕事,待ち人,探し物,多くの項目に「失敗する」と書いてあった。どうもこれらの失敗を活かしてのちの成功につなげよ,とのお告げらしい。前途多難である。。。

上の社からみる風景は,まさに山中のもの。川の音も聞こえ,滝→蛇→龍への発展がここでも進んだのだろうと推測された。蛇は特に金運に関係が深いから,全国から参拝者が絶えないのだろう。ちなみに帰りは迷いなくエレベータを使用させていただいた。

本当は「奥の院」にも参拝しようかと思ったのだけれどすでに冬囲いされたとのこと。次の機会を待つことにする。

社の隣に龍が巻き付いた石柱が立っている

2025年11月23日日曜日

旧小澤家住宅とおみくじ

 11月の日曜日。合氣道の稽古の時間を間違ってしまって,午後から時間が空いた。そこで,以前から気になっていた新潟市の文化財にもなっている旧小澤家住宅に足を運んだ。

小澤家は廻船を運航し,明治以降栄えた商家とのことである。昔ながらの豪商の邸宅の佇まいが今も残されている。

美しい商家の佇まい

内部は,意外に柱などが細く,ガラス窓が大きくとられていた。もちろん蔵などは立派で,かつてここに仕舞われていた道具や財などに思いをはせさせられる。また中庭がたいへんに凝ったものになっていて,主人の趣味の良さがうかがわれた。四季を通じていろいろな表情を楽しむことができるだろう。

飾られている額も,池田勇人や田中角栄(ちょうど飾られてはいなかったようだけれど)の書であって,さすが財をなすものは政治とのつながりも強いのだなぁと思っていたら,小澤家2代目,3代目当主はどちらも国会議員であった。3代目の「小澤辰男」氏は私もよく覚えている。自民党田中派だった。なるほど。。。

床の間や柱などは瀟洒な印象であるけれど,部屋の構成などは実用性も兼ね備えていて,なるほど栄えた商家というものはこういうものかと納得がいった。奥の座敷は,市民に貸し出されていて,ちょうど服飾などを出張で販売している方々がいた。単なる文化財としてではなく,市民が利用できる建物ということが素敵である。見学して損はない,素敵な建築である。おススメ。

なぜか住宅内におみくじがおいてあったので,ありがたく引いてみた。

引いて以来持ち歩いている「天下無双」のおみくじ

「天下無双」と書いてあった。かなり気分をあげてくれる。


2025年11月16日日曜日

カラテ・キッドがなければ世界の空手のイメージはもっと殺伐としたものになっていただろう

 「カラテ・キッド」シリーズの最新作「カラテ・キッド:レジェンズ」を観た。初期のシリーズの主役であるラルフ・マッチオとCGではあるがミヤジ先生ことノリユキ・パット・モリタが出演していて,胸が熱くなった。そこで思ったのだけれど,この二人が映画「カラテ・キッド」(邦題「ベスト・キッド」1984年)で西欧に作った空手のイメージはとても影響が大きく,そして非常に良い印象を与えたのではないだろうか。

それまで,映画に出てくる「空手」といえば,ブルースリーのカンフー映画のように悪者が遣う武術としての印象が強かった。だいたいラスボスが空手家で,ブルースリーがカンフーで勝利するというラストになっている(例えば,「怒りの鉄拳」とか「ドラゴンへの道」とか)。高校生の頃,空手道部だった私はそれがつらかった。現在だって,ドニー・イェン主演のイップ・マンシリーズにおいては,どうも空手家が悪者で出てきているらしい(見ていないのだけれど)。

国内の空手映画にしても,私が高校生の頃では,「史上最強のカラテ」シリーズの極真空手や,千葉真一,倉田保昭,真田広之に代表されるアクション映画が主流で,「空手は荒々しいもの」というイメージが一般的だったと思う。

それが「カラテ・キッド」で大きく変わった。映画の気の弱い内気な高校生がミヤジ先生が教える空手によって成長し,いけすかないライバルとの闘いに勝利を収めるという,まるでジャンプ漫画のような展開がとても爽やかで,カラテとは人間の成長を促すための武道だというイメージが定着したのではないだろうか。最後にカラテ大会で優勝するのだけれど,そのときになってもとても主人公のラルフ・マッチオが強くなったように見えないのが素晴らしい。あくまでも精神性と技によって勝利するのである。

一方,「カラテ・キッド」における悪役は,同級のやはり空手選手の高校生なのだけれど,彼が通う道場「コブラ会」では,道場主によって「勝つためには手段を択ばない」という教えがされていて,最後はそこに通っている道場生が可哀そうに思えてくる。そのように映画が作られているのがまた素敵である。

この映画によって,世界に紹介されていた「極真空手」のような荒々しいイメージだけでなく,人間の成長のための(特殊な人のためではなく,普通の高校生でも成長できるという)カラテというイメージが定着したのではないだろうか。もしも「カラテ・キッド」という映画がなければ,現在の「カラテ」の世界はもっと殺伐としたものであったに違いない。またもしかすると空手人口ももっと少なかったかもしれない。

「カラテ・キッド」の成功を受けて,さらにラルフ・マッチオ主演の「カラテ・キッド2」,「カラテ・キッド3」が作られ,少女がミヤジ先生に空手を習う「4」が作られた。さらにカラテではなくカンフーでリメイクされた,ジャッキー・チェンとジェイデン・スミス(ウィル・スミスの息子)主演の「カラテ・キッド」がある。そして今年の公開となったラルフ・マッチオとジャッキー・チェンが先生としてカラテとカンフーを教える「カラテ・キッド レジェンズ」とずっと続いてきた。そのうえ,ラルフ・マッチオとそのライバルが親世代になった「コブラ会」というスピンオフNetflixの連続ドラマもシーズン6まで作成されている(未見だけど。また「--レジェンズ」でも映画の最後に出てくる)。

とにかく「カラテ・キッド」はみんなが好きなストーリーなのである。そしてそのために,カラテのイメージが大きく改善されている。空手に関わる人々は,「カラテ・キッド」に感謝しなければならないだろう。

2025年11月8日土曜日

今秋に観た映画のまとめ

 しばらくブログの更新が途絶えた。沖縄(電気学会 電力・エネルギー部門大会)に行って,疲労(?)で倒れて,その後フィラデルフィア(IEEE ECCE2025)に行って,そのあと札幌(電気学会 研究会)に行き,そしてまた倒れていたからである。

いろいろと記事にすべき出来事はあるけれど,ちょっと時期を外してしまったこともあり,今後なにかの折々に書くことにして,今回はこの期間に観た映画の感想についてまとめる。

映画を観たといっても,現在話題の「鬼滅の刃」,「国宝」,「チェーンソーマン」などを映画館で観たわけでなく,残念ながら出張時の航空機の中,ホテルのVODなどの小さな画面で観ただけである。本当に情けない。

どんなに小さな画面で観たとしても(アクションの迫力はほとんどないにしても),映画を観たことは観たので,感想はある。最近の老化のためか,観てもすぐに感想を忘れてしまうことも多いので,Xにポストしているようにしているので,ポストをコピペすることで今回はまとめる。

まず以前の出張時(電気学会 産業応用部門大会@徳島?),ホテルのVODで観た映画から。以下,Xのポストのコピペ。

1. 少し前にみた「Everything Everywhere All at Once」。映画館で観たら何が何だかわからなかったろう。ホテルのVODで観た。夫婦,親子の関係をある特殊な視点から見た映画なのだろうか。夫役がグーニーズ,インディジョーンズの子役だった人でうれしい。★三つ

次からは,フィラデルフィア出張の往復の航空機の中で観た映画。

2. 「コンサルタント2」前作が結構面白かったので視聴。ベンアフレックのサバン症候群の演技が目を惹きつける。弟が大活躍で今回は主役が弟と言っても過言ではない。四つ

3. 「バレリーナ」アナデアルマスの当たり役(シリーズ化されないかもしれないが)。火炎放射器を用いたアクションがなんとも良い。カルトの犯罪組織の話。ジョンウィックがガッツリ出演。四つ

4. 「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング」トムは相変わらず全力疾走。そして飛行機の格闘がすごい。これでもかというスリルの連続。本当にこの先は製作されないのだろうか。トム以外では考えられない役になってしまった。四つ

5. 「カラテキッドレジェンド」ジャッキーチェンの控えめな演技とラルフマッチオの優しさがいい感じ。コメディタッチのところもあるし。ただ主人公の性格が少し鼻につく。ガールフレンドは可愛い。定番の話展開。三つ

6. 「フィールドオブドリームス」またまた観てしまった…何度見ても泣ける。最後の父親とのキャッチボールで主人公の心の痛みが癒やされる。理解ある奥さんがまた良い。定期的に見るべき映画。五つ  以前のレビュー

7.「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」クリヘム・ソーが大好きなので迷わずに見た。物語に深刻さがないのがいい。ピンチもほとんどないし。そして相変わらずロキが魅力的なのだ。三つ

8. 「マトリックス レザレクションズ」情報量が多い作品なので久しぶりに見直してみた。女性の自立、活躍が一つのテーマとみた。キアヌの情けなさが良い。ただメタ的な作品批判は必要だったのか?三つ 以前のレビュー

9.「ブレイド」公開当時、このバンパイア映画のスタイリッシュさにメロメロにやられた。ウィズリースナイプス絶頂期の作品。とにかくカッコいい。ハードなアクションもいたって真面目で良い。五つ

ということで9本の映画についての簡単な感想をまとめた。これらの面白い映画を,機内のあの小さな画面で観たという事実が悲しい。映画はやはり大きなスクリーンで観なければ。まずは時間の確保と,映画館に行こうとする元気を取り戻さなければ。。。

2025年10月13日月曜日

とんかつはどこから食べる?ラーメンは?そしてマックのセットは?

とんかつを胃が受け付けなくなってきたという話をした。 しかし,単に身体が受け付けなくなっただけであり,相変わらずとんかつが大好きなことには変わりがない。

とんかつ屋のカウンター。アツアツの揚げたてのとんかつが皿に盛られてやってくる。さて,あなたはどこから食べるだろうか?もしもとんかつが普通の盛り付け方であったのであれば,私は左から3番目の一切れから食べる。なぜならば一番大きく,そしてそれがロースとんかつであるならば,脂身がちょうど割合よく含まれている部位だからである。アツアツの熱で豚肉の脂が溶けていて,そのジューシー感を味わうことができるはずである。

とんかつの脂の甘さを味わうために,塩を振って食べる。とんかつが冷えていく前の一番熱い時に,最も脂ののっている箇所を食べる。これが最高だと思っている。

一方,ラーメンはどうだろうか。私は,ラーメンが運ばれてきたら,スープよりも麵の上に乗っている魅力的な数々の具よりも,まず麺をスープの中から引き出して食べる。たぶん店主は一番麺が美味しい瞬間を見計らってその一杯を出しているはずである。だからこそ,その一番美味しい瞬間の麺を味わうのが店主に対する礼儀なのだと思っている(ウソ。そんなたいそうなことは思っていない。でも麺が一番美味しい瞬間を考えて店主は一杯を運んでくるに違いないとは思っている)。スープを愛でるのはその次である。なんたってラーメンは麺を食べるのだから,麺ファーストで順番を考えたい。

他にも順番を考える食べ物があるだろうかと考えてみて,ひとつ思いついた。マクドナルドのバーガーセットである。マックのセットにおいては,まず最初に食べるのはフライドポテトである。アツアツでなければ,あのカリカリ感とホクホク感を味わえない。トレイの上に受け取ったらすぐにポテトを食べる。あるいはドライブスルーで受け取ったらすぐに袋をあけて,ポテトを手にとって食べる。セットではポテトをいかに美味しく食べるかがキモである。そう,マックのフライドポテトこそ,その美味しさが時間とともに(温度とともに)指数関数的に減少していく食べ物なのである。

2025年10月12日日曜日

ファッション今昔 (4) ~ズボンの太さ~

 ズボンの太さは周期的に細くなったり,太くなったりしていることは,自然なことなのだろう。今は太いズボンが流行っている。

ストレートではなく,バレルなどと呼ばれる膝あたりにかけて大きく太くなり足首に向かってテーパーになっている形が流行っている(ニッカポッカ風?)。一方,シャツなどは短尺が流行っているようだ。確かに,短尺なシャツと太いズボンを合わせると足が長く見えるような気がする。

しかし,私のような年配者として,その組み合わせは中学,高校時代のヤンキーの格好を思い出させる。短ランとボンタン。まさに現在の流行である。ファッションは繰り返されるというけれど,こんな感じのリバイバルとは。。。と少し呆れる。最近はヤンキーが流行っているようだし(東京卍リベンジャーズとか,WIND BREAKERとか?)。

#その他,薄い色のブルージーンズ,破れているジーンズなどがもう時代遅れなのはわかるけれど,ベージュのチノパンがダサいと言われていることはちょっと悲しい。これほどスタンダードなズボンはないと思うのに。

2025年10月11日土曜日

ファッション今昔 (3) ~シャツのタックイン~

 私が中高生時代,シャツの裾はズボンの中にいれてベルトを締めるのが当たり前だった。シャツの裾を出して着るのは,「不良」の証だった。

それが,裾を出すのがカッコよくて,裾を入れるのがダサいとなってきたのは一体いつの頃なのだろう?私が大学1年の頃はまだタックインしていたような気がする。

ビジネスの場ではいまだにタックインするのが礼儀とされているところも多い。そのために私は腹が出ていることを隠せない。幸い,大学はあまり服装を注意されることがなく,私は暑さもあって夏はシャツの裾をズボンの外に出しているけれど。しかし,寒くなると普通のシャツはタックインしている気がする。

しかし,最近の「前だけタックインする」とか,「前の半分だけタックインする」などのセンスには,私はまだついていけない。あれがカッコいいのだろうか。なんの意味なのかよくわからない。意味が分からないのは年老いた私だけなのだろうか。。。

#数年前に流行ったカーディガンの肩から斜めにひっかけるファッションもよくわからなかった。バブルの頃のカーディガンの肩掛け(石田純一風)はまだわかる。

2025年10月5日日曜日

ファッション今昔 (2) ~サンダル~

 サンダルの履き方も,私が若い頃とずいぶん変わってきた。サンダルの下に靴下を履くかどうかという問題である。

まぁ,私のころはお洒落なサンダルといえば,革製のスリップオンのサンダルで,さすがにビーチサンダルということではなかったけれど,クロックスのようなタイプやベルトでかかとを固定するタイプが普及するようになって,変わってきたのだろう。

裸足の汚い足先が見えるサンダルは確かにだらしなく見えるし,学生時代私は冬でも裸足にサンダルを履いていたから,それは寒々しく見えただろう。一方,靴下を履いてからサンダルを履けば,つま先を見せることなく,また冬でもサンダルを履いていても暖かそうである(履くかどうかは別にして)。

確かに合理的なような気がするけれど,実はまだ私は慣れないでいる。サンダルだったら穴の開いた靴下はすぐにバレてしまうし。


2025年9月28日日曜日

ファッション今昔 (1) ~Tシャツ~

 私は服装にほとんど頓着しない方で,ほとんどユニクロばかり着ているのだけれど,最近の若い人の服装は,私のようなおじいさんからみるとずいぶんと私が若い頃と変わってきている。

まず驚いたのが,Tシャツの下に下着を着るのが普通になっているということ。私が高校生くらいの頃は,Tシャツのというのは素肌の上に直接1枚着るものだった。当時のファッション誌を見れば,ジェームス・ディーンがリーバイスの501を履いて,その上はヘインズの白Tシャツ(赤パック)を着るというのがカッコいいと呼ばれる基本形だったと思う。日本でいえば,吉田栄作がそうだった。たしか袖口を少しまくっていたような。。。

しかし今では下着を着るのが普通らしい。たぶん乳首が透けて見えるなどの問題を解決するためだと思われるけれど,その下着も透けないようにするのがマナーらしい。今はユニクロの五分袖のTシャツが素敵だけれど,おじいさんになってTシャツを着るのが難しくなってきた。やはり筋肉が落ちて(特に胸)腹が出てきたからだろう。そのうえ,真っ白なTシャツも痛々しく見えるようになってきてしまった。肌のハリがなくなり色もくすんでしまったからだろう。

白Tを着ることができなくなってきたのは本当に悲しい。白洲次郎のジーンズ・白Tの姿の写真が残っているが,彼のかっこよさが本当にうらやましい。

#そもそもジーンズを履くこともためらわれるようになってきた。トシだなぁ。


2025年9月27日土曜日

那覇の街で御嶽をめぐる

 電気学会電力・エネルギー部門大会に参加するため,一週間近く沖縄那覇に出張してきた。素晴らしい天気に恵まれ,実り多い学会だったけれど,出張最終日の移動日である土曜日の午前,フライトの時間まで那覇の街を散歩した。それは,那覇の街に点在する御嶽をめぐるためである。

沖縄はオカルティックな場所として,たいへんに魅力的である。あちらこちらの島にいまだ多くの神事の儀式が残っているし,数は少なくなったとはいえノロ,ユタといった特別な能力をもっているといわれる人たちも日常生活の中に生き残っている。本州にも聖地や霊能者がもちろん存在するわけだけれど,そうしたオカルト的な人やモノの濃度が沖縄はずっと高いような気がする。そういった意味で私にとって沖縄はたいへんに魅力的な場所なのである。

さて,御嶽(うたき)である。これは琉球の宗教において儀式を行う場所である。こうした琉球王朝によって認められた祭事所が沖縄のあちこちにあり,それらはいまも地元の方々によって維持されているのだ。今回は訪れることができなかったが,重要で有名な御嶽などは山や岩などが聖域のシンボルとなっているけれど(観光地にもなっている),街中にも祠が置かれて御嶽と呼ばれている。

Google Mapによれば泊っていたホテルの近くにも3つ,4つあるということなので,どんなものなのか散歩がてらに見に出かけたのである。

一つ目の御嶽。街中の小さな公園の隅にその祠はあった。祠の中にはなにかで使用された石?のようなものがあって,廃墟ではないことがわかる。しかし,なにも文字などは書かれていない。これがほんとに御嶽なのかとずっと疑問に思って周りをうろうろしていた。

小さな公園の片隅の祠

二つ目は,立体駐車場の1階奥に見つけた。駐車されたバイク列の向こうの草むらにその祠はあった。本州だったらとっくに移動されているだろうけれど,ここでは大事にされてそのままに保存されているようである。しかし,いったいどんな神事がここで行われるというのだろう?

立体駐車場の奥にあった祠

これらの御嶽は,本州でいうところの各集落の神社みたいな役割なのかもしれないが,御嶽の方がより私たちの生活に近いようだ。御嶽の祠はあまりに自然に街に溶け込んでいて,見つけたときに,おっ,と驚かされる。実はもうひとつの御嶽も探していたのだけれど,とうとう見つけることができなかった。たぶん工事中の2階建て駐車場の工事中の囲いの中にあったのだろう。

今回はほんの1時間程度しか御嶽巡りができなかった。しかし,がぜんと興味が湧いてきた。もっともっと御嶽をめぐってみたい。そしてどのような神事がおこなわれるのか,この目で見てみたい。私の中で沖縄の魅力はますます増している。

#おまけ。沖縄では路地などにこうした「石敢當」と書かれた塀,石などをよく見かける。これも魔除けである。



2025年9月15日月曜日

生殺与奪の権を任せることができる人

 あなたには生殺与奪の権を任せることができる人がいるだろうか。すなわち,その人が私を殺そうとすればすぐに殺すことができることができる人,自分の命を預ける人が。

私には思い当たる人がひとりいる。それは,いつも通っている床屋の主人である。

床屋ではカミソリを使って顔の毛を剃る。このとき,カミソリの刃は私の首筋に当てられている。そう,主人に魔がさして悪い考えが浮かび,そのカミソリをちょっと横に引くだけで私の命はなくなるのである。実は私は顔を剃るたびにそのことを心の中で思っている。

もちろんそんなことは起こらないと主人を信用しているのだけれど,それはなぜかと考えてみた。

それは主人が私にそんな悪い考えを持たないと私が思っているからである。主人にそうする必要がない。私を殺そうとする動機がないからである。それくらい良い距離感で人間関係が薄いからである。もしも変に知り合いで,お互いなにか心の中に抱えているのであれば,とても怖くて顔を剃らせることはできなくなるだろう。床屋の主人と客というほどほどに薄い人間関係こそが,私を主人に生殺与奪の権を任せることができる理由なのである。

漫画「北斗の拳」において,敵となる北斗琉拳の遣い手の将,ハンのエピソードとして,ハンがハンの髭を剃る男の心の動きを察して,カミソリをもつ男を震え上がらせる場面がある。あんな風に私も人の心の動き,他意を察知することまでできるように精進したいものである。

2025年9月14日日曜日

「引き寄せの法則を全部やったら,効きすぎて人生バグりかけた話」がかなり面白かった

 この数年,角由紀子という女性の活躍がオカルト界隈では話題となっている。彼女は不思議系サイトの「TOKANA」を立ち上げて編集長を務め,辞めたのちはYoutuberとして華々しい活躍をされている。そんな彼女の単独初著作が出たので読んでみた。

「引き寄せの法則を全部やったら,効きすぎて人生バグりかけた話」(角由紀子,扶桑社)

たいへん興味深い内容であった。「引き寄せの法則」というのはスピリチャルの世界ではもう10年近く(?)流行っている概念で,ポジティブな思考がリアルな世界に影響を及ぼし現実化するというものであるが,私がこれを信じているかといわれると結構否定的である。いわゆる「思考のバイアス」が働いて,なにか良いことが少しでも起こればそれは,「引き寄せ」が働いたのだ,と思ってしまうことが基本的な構造だと思っている。まぁ,現実世界の(村上春樹が言っている)小確幸に注目し,毎日を精神的に幸せに過ごすことは大変良いことだと思うけれど,実際の良いことにあう確率が高くなるとは簡単には信じられない。もちろんネガティブな考えをもつよりもポジティブな考えに基づいて行動したほうが成功の確率は高くなることは,そのとおりだと思うけれど。

さて,本書である。タイトルには「引き寄せの法則」とあるけれどあまりそんな印象は受けなかった。実際の内容は意識の変性,変革を起こすといわれているスピリチャルな方法を,実際に著者が試してみた体験談となっている。これが生々しくてたいへんに面白かった。著者が試したものは,

  • シータヒーリング
  • 倍音セラピー
  • タマエミチトレーニング
  • ヘミシンク
  • ブレインマシン「KASHIMA」
  • アイソレーションタンク
  • アヤワスカ儀式
  • ブッダ直伝瞑想

である。私は常々,人間の意識というものは容易に変性意識に導かれて変革されるものだと思っていて,自己啓発セミナーなどによる暗示・催眠・洗脳,薬物,光と音の刺激などの手段がそれを実現するものだと思っているのだけれど,どれも怖くて手を出せない。それを上記の多数の項目を試してみてその体験談をまとめているこの著書は大変に興味深い。彼女はこれらの方法を試すことによって幽体離脱やハイヤーセルフや菩薩様にあうことなど,種々なオカルト体験をしているのである。

特に南米の奥地までいって,現地の霊能者等に導かれておこなったアヤワスカ儀式のルポは素晴らしい。アヤワスカというのは幻覚を引き起こす植物で,その茶を飲んで儀式を行う。詳細は本書を読んでもらえばよいが,多くの人格が現れてそれを俯瞰する意識の存在を実感したのだという。たぶん幻覚剤によって深層意識までが表出しいろいろな感覚を体験したということになるのだろうが,私はそれを体験しようとしてアマゾンにまで行こうなどとはとても怖くて思えない。著者の勇気を尊敬するとともに,体験したことは非常に貴重であると思う。

最終的にスピリチュアルな手段に頼らず,原始仏教的な瞑想をして変性意識にならずに丁寧な生活を心掛けるような心持ちになって,沼っていたスピリチュアルからデトックスした著者のスピリチュアル旅の現時点が興味深い(今はまた別の脳のトレーニングを試しているようだけれど)。

意識に働きかける手段(スピリチュアルな体験)を求めている人には,よいガイドになるのではないだろうかと,本書を推したい。

2025年9月13日土曜日

ぼうさいこくたい新潟

 9月6日,7日は,新潟市の朱鷺メッセで開催された「ぼうさいこくたい2025」に参加してきた。大学の「地域防災実践研究センター」として,新潟県のぼうさいフェアとあわせて,展示を10件も出展していたので,そのうちのひとつ「雪と倒木のデータプラットフォーム」の担当として説明に立っていたのである。

各展示の内容については,センターのウェブページを見ていただくことにして,今回は「ぼうさいこくたい」の印象について少しだけ書き残しておく。

「ぼうさいこくたい」は「こくたい」の名前通り,1年に一回,各都道府県を回りながら開催される,防災,減災などに関わる取り組みについて発表し,技術交流・意見交流をすることが目的の展示会である。各自治体,インフラ,NPOなどの情報交換の場になっているだけでなく,企業などにとっては商談の場となっている。

一昨年は横浜,昨年は熊本開催,今年の新潟で10年目の開催ということになるが,今回の新潟開催では過去最高の400を優に超える展示の申し込みがあったとのことである。また来場者も1万9千人以上あったとのことで,近年の災害の高頻度化,激甚化を背景に年年注目が高くなっているのは間違いなさそうである。

初日には,坂井内閣府特命担当大臣,花角新潟県知事,中原新潟市長などが列席されてオープニングセレモニーが行われ,翌日には,愛子様がいらっしゃった。私は愛子様が参加されたセッションのひとつ(能登半島地震の現場からという話)に一緒に参加させていただいたので,愛子様のお姿を拝見することができた(熱心にメモを取られてプレゼンを聴かれていた)。初日,二日目とSPと警察の警備の数は凄かったが。

今回思ったのは,技術者は,現場の声をちゃんと効果的に収集することができているのだろうか,という疑問であった。災害現場にいなかった私たちは,得てして勝手な想像で防災,減災の技術を研究開発しようとしてしまう。そこにはどうしても「見落とし」が発生しやすくなってしまう。本当に重要なサポートはなんなのか,そしてそれを実現するための技術とはどういうものなのか,それらを現場からのフィードバックをもとに考えていくのは至極当然のことである。しかし,こうした災害現場の生の情報は,研究に関わる技術情報と違って学会などにいって比較的容易に入手できるものではなく,一般の方々の中にはいって吸い上げなければなかなか集まらないものなのである。そのためにアンケートなどの聞き取り調査が行われるのだけれど,「災害時に不便であることは当たり前」というバイアスが避難している方々の思考にもかかってしまい,なにかに不便であるという情報が見えなくなってしまうということが起こっているのではないか,という懸念を持ったのである。

今回はそういったことに気づかされたぼうさいこくたいであった。来年は鳥取県の開催とのことである。

2025年8月31日日曜日

舟を編む ~現代における「言葉」の意味をあらためて考えた~

 あちらこちらで良作と話題になっていた「舟を編む」の地上波放送がとうとう終わってしまった。私もこれは毎週見逃すことができなかったドラマとなっていた。

衛星放送で以前に放映されたものを再編集して地上波放送したらしい。たぶんそれなりに多くの場面がカットされていたと思われる。途中,松田龍平なんて一場面しか出演していなかったけれど,もしかするとBS版ではもっと活躍していたのかもしれない。そう思うと,BS版もぜひ観てみたいと思う。

「舟を編む」は10年以上前に本屋大賞(だった?)を受賞していて,当時も「辞書編纂」というテーマが話題になっていたのをよく覚えている。だから,私もいつか手に取って読みたいと思っていた作品なのである。

しかし,本とは設定が違っているらしい。ドラマでは主人公は池田エライザ演じる辞書編集部に配属されてきた女性社員となっているが,原作では野田洋次郎演じていた先輩編集部員,馬締が主人公だったらしい。さらに新型コロナウィルスの感染の影響が描かれているなど,話題はアップデートされているらしいのだけれど,それらには全然不自然さを感じずに楽しむことができた。

このドラマをみて,「言葉」がもつ力について少しまた考えてみた。残念ながら人間は言葉を通じて話し合わなければお互いの意思疎通が基本的にできない。だからこそ,もう少し言葉の遣い方について気をつけたらよいのだろうとか,SNSでテキスト偏重のコミュニケーションが多くなってきたからこそ,正確に思いを伝えるための言葉選びが大切なだろうとか,この年齢になってもいろいろと考えてしまった。その意味でも素敵なドラマだった。

ところで,最近,Tverで池田エライザと田口トモロヲの「名建築で昼食を~大阪編~」が再アップされていて,全話見直してあらためて彼女の魅力を認識した。以前から注目していたけれど,俳優や歌手だけでなく,映画監督の分野でも彼女の才能を発揮しはじめているらしい。まだ20代とのこと,今後の活躍にたいへん期待している。

#彼女は左利きのようだ。「舟を編む」,「名建築で昼食を」を見ていて気付いた。

2025年8月30日土曜日

キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド

 電気学会産業応用部門大会の開催地,徳島への飛行機の往復移動の機内で久しぶりに映画を観た。

「キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド」(2025)

相変わらず座席の前の小さなディスプレイで観るおかげで,マーベル系のアクション映画の迫力はほとんど感じることができない。どうもアクション映画は私の評価においてかなり損をしている。

今回のキャプテン・アメリカはスティーブではなく,その名称を引き継いだサム・ウィルソンであり,血清を打った「超人」ではなく「常人」であることがひとつのキーになっている。化け物たちと戦う普通の人間としての苦悩が(少し)描かれている。もちろん,ハリウッド映画なので,彼はヒーローとして描かれるのは間違いないのだけれど。

そして見どころは,やっぱりハリソン・フォード演じる大統領ロスである。彼が出てくるだけで画面に重みが感じられるようになる。ハリソン・フォードの「格」というものなのだろう。人間性というのはどうしてもにじみ出てくるものらしい。

この作品の前にどんな話があったのか,ロスがハルクに対して何をしてのか,など情報が無いままの視聴であったので,感動の度合いが小さくなってしまったのかもしれないが,前代のキャプテン・アメリカや,曲者のアイアンマンの人物造形の深さに比べて,第2次アベンジャーズの面々はどうしても脇役的な軽さを感じてしまう。この先,マーベルシリーズはこのまま続いていくのだろうか?

ということで,今回の評価は★★★☆☆(星三つ。満点は五つ)。

#最近,全然映画館に足を運んでいない

2025年8月24日日曜日

長野への旅(6)~戸隠神社・奥社・九頭龍社~

 中社から30分ほどあるいて,奥社参道の入り口にたどり着く。トイレでペットボトルに水を汲んで外に出て参道で泥にまみれた靴を何度も洗う。参道に入る前からもう泣きそうであった。

さて,奥社参道の入り口には駐車場があって戸隠そばが食べられる蕎麦屋なども並んでいるのだけれど,かなりの人で混雑していた。蕎麦屋になんてとても入れるような雰囲気ではなかった。それでも当日朝食は民宿でたっぷりといただいていたので,腹もそれほど減っておらず,奥社に向かって参道を歩きだした。

奥社への参道はおよそ2km。ゆるやかな上り坂である。やはり前日の雨の影響でところどころで足元が滑る。ただ,大きな杉が続くこの並木は有名らしく,木陰の中を歩いていくのは気持ちがよかった。ただし,人が多くて参道には人の列がずっと続いていたけれど。。。

途中,参道の道の半ばくらいに赤い門がある。その姿をみてやっと自分は以前にここに来たことがあるのではないかと思い出した。そう,大学1年の夏,合氣道部の合宿で戸隠に来ていて,合宿の中日のハイキングで戸隠神社を訪れたのだった。あのときも天気が悪く,雨で道が川となっていて,スニーカーが水没して汚れたのを思い出した。40年ほど前と同じだ。そして,この赤い門の前で撮った写真があったのを思い出した。私がここに来たのは初めてなんてではなく,39年ぶりだったのだ。

戸隠神社奥社参道途中の門。神社内で最も古い建物だという。

その後また15分歩いて,ようやく奥社に続く階段の登り口に到着。ここまで奥社の参道入り口からおよそ30分かかった。奥社は階段の上にあるのだけれど,階段の上まで人の列が続いていて,遅々として進まない。結局,またそこから1時間かけてようやく奥社の神前に着いた。

奥社の祭神は「天手力雄命(あめのたたぢからおのみこと)」で,あの天岩戸を開けて天照大神を洞窟の中から出した神である。その岩の一部が飛んできて戸隠山になったという伝説があるそうである。ようやく手をあわせて,その隣にある「九頭龍社」へと移動する。こちらはなんとほとんど人が並んでいなかった。

戸隠神社奥社

九頭龍社

実は今回私が戸隠神社に来ようと思ったのは,この九頭龍社にぜひ参拝したいと思ったからである。祭神は九頭龍大神。奥社の創建は一説によれば紀元前200年以上らしいのだけれど,この九頭龍社はさらにその創建は古く,どうも修験道の人たちが関わっているとのことである。

一時期,一部で龍神ブームがあったけれど(知らない人も多いけど),その龍神信仰において最古の神社といえば戸隠神社なのである。ご利益は雨ごいの他に,なぜか縁結び,歯痛らしい。ありがたく手をあわせた。正直,クタクタだったので,さらにお守りを買うのに並ぶのはさすがにあきらめて参道をもとに戻る。中社まで歩いてまた一時間。。。とにかく疲れた。

そこから一般道で長岡まで帰って疲労は確かにひどかったけれど,今回はじめての一人旅,善光寺,長野県立美術館,野沢温泉,戸隠神社をまわって本当に満足した。やはり非日常に身を置けるのである。忙しくする必要はない,今回のような余裕あるスケジュールで時間をつぶす。こんな素敵な時間はこの年齢になるとなかなかない。近いうちにまた計画しよう。

#これにて長野の旅シリーズは終了です

2025年8月23日土曜日

長野への旅(5)~戸隠神社・中社~

 戸隠神社に参拝に行こうと思いついたのは,野沢温泉に泊まり外湯に入っていた時である。ふと「戸隠神社」というロードサインを途中で見かけたことを思い出して,そうそう遠くないのだと気づいた。車ならば結構近いのではないか,と思い,調べてみると1時間ちょっとのドライブだったので,雨も当日上がるとの予報だったし,足を伸ばしてみることにした。

朝10時前に野沢温泉を出発し,戸隠神社の中社の駐車場に11時過ぎに到着する。前日の雨も予報通りあがって日差しが強く,とにかく蒸し暑かった。

中社の祭神は「天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)」。知恵の神様ということで,心からお参りする。境内にはご神木の巨木もあって森の中の社という印象で素敵な場所だった。

中社の鳥居

社につづく階段

中社

次に奥社に向かう。奥社参道入り口はおよそ2kmくらい離れたところにあるので,森の中の連絡道を歩いていった。かつての参道や通り道であり,途中女人禁制であったころの名残の伝説が残った石などを横に見ながら奥社に向かう。ただし,雨が降った翌日というのがまずかった。あちらこちらが泥でぬかるんでいて,私の革のスニーカーはべったりで泥で汚れ,ペットボトルの水で洗い流すなどの応急処置が必要になったほどだった。森の中の連絡道ではなく,整備された車道を歩くべきだったと何度も何度も後悔した。

#中社の駐車場は無料であるが,奥社のものは有料である

長野への旅(4)~野沢温泉外湯めぐりのはずだったけれど~

野沢温泉村の楽しみは,なんといっても温泉である。野沢温泉には無料で入ることができる(少々の寄付はあるけれど)外湯が13か所あり,その中の数か所を巡ることがこの旅の目的の一つであった。

実は野沢温泉には学生時代,たびたびスキーで訪れていたのでそうした情報を知っていたのである(まぁ,情報は三十数年前の古いままだけれど)。私の学生時代,毎年新年最初に研究室で集まるのが,指導教員の嶋田先生の定宿である野沢温泉の,とある民宿ということになっていた。もちろん研究ではなく,スキー目的に集まるのである。そこで研究室のみんなに「新年おめでとうございます」と挨拶し,初すべりに出かける。当時はスキーブームで本当に楽しかった。

野菜たっぷりとハンバーグメインの夕食を食べ終わったあと,当日長野市を歩き回っていた私は疲れ切っていたのだけれど,せっかくなので外湯に出かけることにした。まずは「大湯」。浴槽は「あつ湯」と「ぬる湯」の2つに分かれていて,ぬるい浴槽の方を試す。「じゃぶっ」と手を入れて,温度を確かめてみるととにかく熱い。「どこがぬるいんじゃ」と小言を言いながら,とても浴槽に入る勇気はない。浴槽についている冷水の蛇口をひねって浴槽をぬるめる。もしも地元の人がいたらとても水を入れる勇気はないけれど,幸いにして明らかに旅行できているどこかのサークルの男の子たちが4~5名いただけだったので,こっそりと水を入れたのだった。

なんとか蛇口の周りがぬるくなってきて私が入ることができるようになり,私もようやくお湯に入ることができた。それでも身体中がジンジン痛みを感じるほどの熱さだった。一体,どんな人間が「あつ湯」の浴槽に入ることができるのだろう???

大湯を出て,雨の中を身体を冷やしながら夜の温泉街を歩く。学生時代の研究室の定宿もまだ健在であることを散歩中に確認した。なんだかうれしかった。

少しだけ身体が冷えてきたので,次の「松葉の湯」に向かう。実際には最初の大湯で身体が十分あたたまり,次の湯に行く必要はないかも,とも思っていたのだけれど,野沢温泉まで来て温泉1か所とはもったいないと思い,少し無理して「松葉の湯」に行ったのである。

松葉の湯も空いていた。湯温も大湯に比べて少し低かったので,こちらではゆっくりと浴槽に入ってのんびりすることができた(それでも十分に熱いお湯だが)。ここにきてようやく温泉を満喫という感じ。松葉の湯に無理して来て良かった。

その後,宿にもどって布団に入る。近頃では珍しいほどリラックスして寝ることができた。本当は夜に,持参した本をゆっくりと時間をかけて読もうと思っていたのだけれど,疲れがそれを許さなかった。日付が変わらないうちに眠りに落ち,7時間以上一度も起きることなく眠ることができた。これは夜中に目が覚めやすく,朝早く目がさめてしまいがちな老人にとってはかなりうれしいことなのである。

翌朝,たっぷりと朝食をいただき,コーヒーまでいただいて,チェックアウトの10時近くまで落ち着いた朝を過ごすことができた。疲れもとれて,2日目の目的地,戸隠神社に向かった。

2025年8月16日土曜日

長野への旅(3)~野沢温泉の民宿への道に迷う~

 長野への一人旅。長野市で県立美術館を観たあと,当日の宿を予約しておいた野沢温泉に移動する。長野市中心部から1時間ちょっとの道のり。長野市街以外は道路は空いていて,カーナビの予定通りに野沢温泉に着く。

ただ,野沢温泉街の道がとにかく狭い。私のカローラがギリギリ通れるかどうかという道ばかり。当然すれ違うこともできない。そして,それも急坂。エンジンに負担がかかる道だ。両脇は温泉の排水なのか側溝に水が流れていて,いつタイヤを落としてしまうかハラハラする。

目当ての民宿も全然見つからない。民宿に電話をかけて訊くのだけれど,今,どの道を進んでいるのか見当もつかない。結局民宿の人が道路まで出てきてくださって,誘導してくれた。私の顔も知らず,どんな車に乗っているかも伝えなかったにも関わらず,一発で私を見つけてくださった。よほど私は不安そうに運転席に乗っていたのだろう。

夕食の時間に間に合って,食堂へ。夕食を予約していたのは私だけだったようで,食堂には私の食事だけが用意されてた。たいへんおいしそうなサラダが並んでいる。疲れ切った私の身体が強く欲する。しかし,とにかくまずはビールを頼んだ。

至福の夕食。サラダとビールと魚のホイル焼き

至福の一杯のあと,ゆっくりと1時間ほどかけて地元の野菜をつかった美味しい食事をいただく。リンゴのコンポートとバニラアイスのデザートまで出していただいて大満足。もしも食事を予約していなかったら,疲れ切った私が野沢温泉街を夕食を食べる場所を探してさまよう羽目になっていただろうから,本当に予約しておいてよかった。次回は,宿おススメのワインを飲みながらしみじみ食べたい(今回はビールを一本で終わってしまったけれど)。


2025年8月15日金曜日

長野への旅(2)~長野県立美術館~

 この夏休み,長野にひとり旅をした。朝に長岡を車で出発して,高速道路を使わずに長野市まで行く。所要時間はおよそ3時間。幸い天気は雨が少々,ほとんど曇りでドライブは快適だった。

長野ではまず善光寺に参拝した。海外の人も多かったけれど,東京や京都,高山ほどではない。長野駅から善光寺までの参道をゆっくりと歩き(とにかく暑かったけれど),道沿いの店々を覗きながら歩くのは楽しいものである。

善光寺で参拝した後(本堂内,山門内,資料館など入場料を支払えば参観できるけれど,人が多くて行かなかった),今回の長野におけるメインの目的,長野県立美術館に行く。

長野県立美術館はその建物が美しく,それだけで観る価値があり,すでに私も訪れていたのだけれど,今回は展示も観ようと思い,再度訪れたのである。

長野県立美術館(NAM)

まず企画展を観た。「NAMコレクション2025 第Ⅱ期」という展示で,チケットを購入し案内されるままに会場に足を踏み入れたのだけれど,そこで言葉通り言葉を失うほど,本当に驚いた。なぜならばそこには,マルセル・デュシャンの「Fountain」が展示されていたからである。

マルセル・デュシャンの"Fountain"

度肝を抜かれるとはまさにこのことだった。教科書にも載っているような現代美術の超有名な作品がこんな長野の美術館にあるなんて!確認のために何度も作品の周りをぐるぐるとまわった。

Wikipediaで調べてみると,さすがにデュシャン自身が作ったものではなく,デュシャン研究家の人が作った複製品8点のうちのひとつらしい。 京都国立近代美術館所蔵となっている。

しかし,本当に驚いたなぁ。ただ,この作品の歴史的な意味を知っているからこそ感動したのであって,正直作品自体に心が震えるというものではなかった。やっぱり便器にサインをしただけのものである。現代美術ってやはりわからない。。。

その他,常設展では長野ゆかりの芸術家の作品が展示されていて,ゆっくりとした時間を過ごすことができた。

さて,この美術館は2館に分かれた建物構成になっていて,もう一つは「東山魁夷館」となっている。こちらの展示も観覧した。

東山魁夷といえばあの美しい青緑色の森林と白い馬のモチーフが印象的であるけれど,それは50代を越えた頃からの作風で会って,この展示では20代の若い頃の作品も展示されていた。ただ,正直にいうと若いころの作品にはあまり心を惹かれなかった。それよりもやはり森林や山にかかる雲などを描いた,年齢を経てからの作品が興味深く,特に唐招提寺の襖絵は彼が自然を見てどのように感じたのかが直接わかるような美しさと壮大さがあふれていて,観ているだけで私も自然に対峙しているような感覚になった。

また同じように印象的だったのは,彼が雑誌「新潮」で担当していた表紙の作品たちである。雑誌の表紙だけに簡素なモチーフの組み合わせで目を引くように構成される作品のデザイン性が素晴らしく(私が言うことではないが)風景画の画家だと思っていた東山魁夷の洒脱なセンスにあらためて感じ入った。

今回の長野県立美術館への訪問は,たいへんな驚きと面白さを感じることができる実りあるものであった。展示物を調べていったわけではなかっただけに,心から驚いた。こうした楽しみが地方の美術館巡りにはあって,ついつい旅行先で美術館には足を運んでしまう。

#旅の情報

長野市は道が狭く,渋滞ばかり。時間に余裕をもっていった方が良い。駐車場は長野駅東口から出て,10分くらい歩いた場所に安いところが多くあり,500円/日くらいで駐車できる。

長野駅から善光寺までは参道を通っておよそ30分くらい要する。

2025年8月14日木曜日

長野への旅(1)~生まれて初めての一人旅~

 この夏休みに旅行にひとり出かけた。たぶん,たぶんだけれど,仕事関係ではなく,私が私のためにお金を払って一泊旅行をしたのは生まれて初めてではないかと思う。地方に行くのはほとんどが出張であり,いろいろな場所に旅行はしたけれど,また家族旅行はあったけれど,自分ひとりのために計画を立てて旅行をしたのは初めてである。

私には夢がない,と常々思っていたのだけれど,Youtuberの旅行動画を見ているうちに,私も旅をしてみよう,と思い立ったのである。とはいえ,そう思ったのはお盆期間のちょっと前。空いている旅館も少なく,宿泊代も相当お高い。それでもなんとかビジネスホテルではないところに泊まりたくて,また一泊で行けるところを探して,結局落ち着いた旅行プランが,

「長野市 善光寺・県立美術館」→「野沢温泉」(宿泊)→「戸隠神社」

である。野沢温泉での宿泊先は民宿で,夕食,朝食をつけてもらった。出張では朝食をつけることがほとんどなく素泊まりばかりなのだけれど,今回は夜に食事の店を探す手間もなく(夕食を食べる店を探すことも,それはそれで楽しいのだけれど)民宿で用意していただく美味しい夕食,朝食を堪能することとした。

旅行サイトで予約する際に,何度も食事の有無を確かめた。そして出張のホテルだったらさっさと予約確定ボタンを押すのに,今回はドキドキしてなんどもなんども条件を確かめてから予約を確定させた。こうしたドキドキ,ワクワクがうれしい。

ということで長野への旅が始まった。

2025年8月12日火曜日

とんかつが食べられなくなってきた

 新潟に出かけた帰り,久しぶりに腹が減ったと強く感じたので,「とんかつ」を食べたいと思った。それも脂身たっぷりのロースとんかつを。

私は昔からとんかつが大好物で,結構な頻度で食べている。少なくとも毎週1回は食べているような気がする。

私が学生時代,上京してはじめて渋谷の道玄坂にあるとんかつ屋に入ってその美味しさに衝撃を受けて以来,とんかつは私の人生になくてはならないものになった。

ちなみに,このとき渋谷のとんかつ屋に入ってはじめてキャベツがおかわり自由と言われてびっくりした。またカウンターで食べていたら,たぶんモデル事務所のスーツを着た若い男性のモデルたち(?)5,6人が店に入ってきて,彼らのあまりの美形さに(当時(80年代)のコカ・コーラのCMに出てくるような美形)感動したのをいまでも覚えている。

さて,その日,国道沿いにあるとんかつ屋に車を止めて入っていった。まだ夕方5時になったばかりの頃で,そんなに店は混んでいなかった。にもかかわらず,お店の一番人気の熟成とんかつ200gはすでに売り切れているのだという。私はたいそうがっかりして,別の熟成ロースとんかつを頼んだ。ただし,大きさは160g。心の中で私は「量が足りるかな...」などと心配していたのである。

そして,とんかつがやってきた。一口食べると(このとき,ひだりから3切れ目を最初にいただくのがツウの食べ方である),脂が口の中にひろがって甘く感じる。うまい。この店のとんかつは上級だ!この甘く感じるとんかつを塩で食べるのが最高なのである。そして,一切れずつ口に運ぶ。毎回毎回,口の中にひろがる美味しさに幸せを感じていた。

しかし,しかしである。とんかつも残りが少なくなってくるころには,「もう十分!」と私の満腹中枢がそう訴えかけてきたのである。若いころ,いや数年前にはこんな感じになることなんて一度もなかった。体調が悪いときならともかく,おなかペコペコで臨んでとんかつに満足感を覚えるとは。。。年齢のせいなのか,それともその日の体調が悪かったのか。とにかく全部は食べたけれど,途中でもう十分と思ってしまった。

翌日,まだしばらく胃がもたれていた。内臓の衰えを強く感じた。残された人生,美味しいものを食べるくらいしか楽しみが残されていないのに,十分に食べることさえできない体力というのはあまりにも悲しい。内臓力を鍛える方法はないものか,と本気で思う。


#一昨日,かつ丼を食べた。豚肉120g。やはり食べるのがやっとだった

2025年8月11日月曜日

武術の技法に関する誤った科学的解説について

 動画サイトを見ると,武術的な技を科学的に説明しようと試みている動画が数多く見受けられる。謎とされてきた技の術理を,万人にわかりやすく伝えようとしていることはたいへん素晴らしいことだと思っている。しかし,解説を聞いていると科学的に誤った理論で解説されているものもあって,残念に思うこともしばしばである。

多く見かける誤った説明のひとつに「遠心力」がある。たとえばパンチの一種であるフックを例にとる。よくされている説明が,フックのように腕を振り回すと遠心力によってパンチ力が増すというものである。これではまるで遠心力が相手にあたる方向に働く,すなわち拳が円を描いて相手を殴るのであれば,その円の接線方向に働いているかのように説明されている。

しかし,これは全くの間違いで,遠心力は中心と物体を結んだ物体の法線方向に働くものである。糸の一端に重りをつけて,もう片端を手で持つ。重りをぐるぐると手で振り回してから,手を離すと重りは回っていく方向ではなく手と重りを結ぶ糸の方向に飛んでいくことからも,それを確かめることができる。それを相手にあたる方向に遠心力が働くなどとするのは大間違いなのである。

相手に力を与える場合には,その方向に力を働かせる必要がある。拳や足を廻して当てるフックや回し蹴りで相手が横に吹き飛ぶのは,その方向に拳や足が力を働かせているからなのであって決して遠心力で吹き飛んでいるのではない。拳や足の質量が小さいのに人があれだけ衝撃を受けるのは,拳や足の質量だけではなく,身体全体の質量を用いた運動量を使って攻撃しているからである。

この「質量」という言葉に対して,武術では「重心」という言葉もよく使われているのだけれど,これもまた誤用がたいへんに多い言葉である。科学的に説明しようとするのであれば,そのあたりに気をつけておかないと,せっかくの良い解説の評価が低くなってしまうのでもったいない。

2025年8月9日土曜日

武道修行者にとって幸せな時代

 これだけ動画サイトなどが充実してくると,さまざまな武術の技術や教えが広く公開されることになって,現代は武術を学ぶ者にとっては江戸時代などと比べ物にならないほど便利な世界になっていることは間違いない。

たとえば,漫画「拳児」の原作者nお松田隆智が「謎の拳法を求めて」という本でいろいろな武術を紹介していた頃は,「柳生心眼流」や「陳式太極拳」,「八極拳」などと言われても実際の動きをほとんど想像できず,それらはまさに「謎」の武術であった。

漫画「男組」や映画「刑事物語」シリーズなどで,彼が監修した八極拳や蟷螂拳などが少し披露されているのを見聞きして,そんなものなのかと思う程度だったのである。月刊「空手道」,「武術(うーしゅう)」,「秘伝古流武術」,「フルコンタクト空手」などの雑誌や決して多くはない武道書がその情報源だった(「鉄砂掌」「実戦フルコンタクトカラテ実戦中国挙法太気拳」「What is karate?」あたりが懐かしい)。だからこそ映画「少林寺」(すべてが本物!という宣伝文句。リー・リンチェイの演武はブルース・リーやジャッキー・チェンのものとは全く違っていたこと)に衝撃を受けたのである。

しかし,現代は全く違う。従来,「謎の武術」と呼ばれていたものがどんどん紹介されているし,その一部の技術はなんと解説付きで公開されている。また伝説の名人・達人の動画も残っていたりして,彼らの技量の高さの片鱗がうかがえる。こんな状況は100年前には全く想像できなかっただろう。いや私が空手を始めた40年以上前においても考えもしなかった状況である。

武術修行者にとってなんと幸せな環境になったのだろう。昔は技を公開するだけでもはばかられたものである。なぜならその技を見せるときとは,己の命をかけて相手の死命を制する真剣勝負の場であって,自らの技術の情報を相手に開示するなんてとても怖くてできなかったからである。だから各流派には秘術がやまほどあった。印可状などの巻物を見ても内容が想像できない名称がそれぞれの技につけられている。しかし,現代ではそれが動画で公開され,誰でも見ることができるようになった。

そのうえ,それらの動画は,見る人が見れば技を公開している人の技量まである程度わかってしまう。昔は師をさがすのに3年はかけろ,と言われたものだけれど,武術家の実力なんて技を見ずにそうそう判断できるものではないから,技が非公開にされていた時代には良き師を見つけることは相当困難だったに違いない。初心者が公開されている動画を見て判断するのは難しいかもしれないけれど,ある程度実力がついてくると見えてくるものもあるはずである。今では良き師にたどり着くまでに3年は必要ないかもしれない。

つまりは,この情報共有時代は,なんと武道修行者にとって幸せな時代だろう,ということである。世界の各地に伝わる不思議な武術や修行法,あるいは創始されたばかりの新しい武術でさえ,私たちは目にすることができる。そしてある程度,「見取り稽古」もできるのである。なんと素晴らしい環境なのか。

技を秘匿する必要がなくなったというのは,結局現代は昔に比べ平和な世界になったという証左なのだろう。

2025年8月3日日曜日

雪風 YUKIKAZE

 「雪風」の映画が公開されるらしい。「雪風」といえば,「ゴジラ -1.0」でも出てきた日本海軍の駆逐艦で,終戦まで生き残った不沈艦であり,「幸運艦」と呼ばれていたという。

私もそのくらいしか知らないし,詳細はWikipediaを見てもらえばよいのだけれど,この何度も任務を遂行して帰還したというのが大切なのである。

そう,ここで思い出すのが,神林長平のSF小説「戦闘妖精・雪風」である。主人公が搭乗する自律制御された超高性能戦闘機の名称が「雪風」なのである(戦艦ではなく戦闘機だが)。この戦闘機は,戦闘に参加するのではなく異星人との闘いのデータを取得し持ち帰ることが任務なのである。そのため,時には味方を捨てて帰還しなければならないことがある。どんな状況でも帰還する。だからこそ機体名は「雪風」なのだろう。

そうした非情の役割を果たすのだけれど,主人公の搭乗パイロットはどこか人間性に欠けている男で,一方雪風は自律制御系が意識を持ち始めていることを匂わせる挙動をし始める。別次元の宇宙から飛来する異星人は,対戦相手は人間でなく,雪風のような機械意識の方であると認識しているのではないだろうか。。。そんな疑問を残しながら話が進められていくのである。

とにかく,雪風は終戦まで帰還を成し遂げた奇跡の「幸運艦」なのである。たぶんそのために,映画になるくらい,つらい経験を山ほどしているのだろうけれど。。。そんなことを映画の予告編をみて思い出したのである。

#「戦闘妖精・雪風(改)」は数あるSFの中でも10本の指に入るマイフェバリットで,続編も書かれているし,アニメにもなっている。神林長平は新潟生まれで長岡工業高校出身というのもうれしい。

# そういえば,私の娘が「理科の先生の車に「ぜかきゆ」と書いてある」と話してくれたことがあった。私はすぐにピンときたが,それが意味するものが船だったのか戦闘機だったのかはいまだわからない

2025年8月2日土曜日

長岡まつりの神輿にまた感動する

 今年も長岡まつりの季節がやってきた。昨年も書いたけれど,8月1日は平和祈念のために神輿が担がれる。そして,和太鼓の演奏が行われる。

長岡まつりの復興祭は1日の午前から行われるけれど,夜9時近くになって民謡流しが終わり,ようやく神輿が出てくるスケジュールになっているので,つねづね夜に長岡の街を徘徊している老人としては,ちょうどよいタイミングで見ることができるのである。

今年も10基を超える神輿が出てきて,市一番の大通りである大手通りは人と神輿で埋め尽くされる。私はこのひといきれの状況が大好きである。お囃子にあわせて,気分がアガる。やはり祭りはこうじゃなければ,とあらためて思う。またいつもは老人しかいない大手通りも若者たちであふれ,長岡もまだまだ捨てたものではないという気持ちを新たにした。

「神輿」は英語でPortable Shrinesとなる。神様がおわす神社が人の手に担がれて移動するのだ。本当にそうだったら「神輿」というのは本当にすごい概念である。神様が町を練り歩くのである。日本のそうした文化,考え方は素晴らしいとつくづく思う。

また日本人は,神は静謐のうちだけにあるのではなく,祭りのような熱狂の中にもあると考えていたのだろう。西洋におけるサバトのように静かなミサだけでなく狂乱する宴においても人間以外の存在に触れることができるというのは世界共通のものなのかもしれない(熱狂するうちに行動が本能に大きく依存することになり,結果,祭りが「ストレス発散」,「癒し」の効果をもつ)。

長岡の神輿の中にも大きな男性器の模型を神輿に乗せて担ぐものがあった。古来からの生殖への信仰があからさまに表れていて,祭りが原始的な情動から始まっていることを思わせる。たぶん祭りという儀式は「神」が定義されるよりも古くから,集団的に暮らし始めた人間の生活において行われてきたに違いないと思えるのである。

人で埋め尽くされた大手通り

女性だけで担がれる神輿


2025年7月27日日曜日

万博に行ってきた

 万博に行ってきた。もちろん,仕事である。

万博の一角で新潟県の展示が7/13~7/17にあり,そこに長岡技術科学大学の地域防災実践研究センターからの展示がされるとのことで出張したのである。

当日は,知事や市町村の首長などがいらっしゃって,新潟県で開発された微生物を用いた浄水器や雪を用いた冷風機の展示にたいへん満足されていたようで,良い結果ではあったのだけれど,とにかく,なんといっても,たいへんに暑かった。そのおかげで,タオルを濡らすことができる浄水器と,雪で冷やされた冷風で「生き返る」冷風機の2つの展示は,ひっきりなしに人が訪れていて,好評だった(2つの展示とも私の研究ではなく,センターに所属されている先生のものです)。

初日の日曜日は,ブルーインパルスの展示飛行があるとのことで,どうも入場者は平均を大きく上回る17万3000人を超えていたとのことである。どこへいっても人ばかり。リングの下は日陰になるので人が涼をとりに集まっていて,大混雑。パビリオン入場のための人の列も熱中症を防ぐためにリングの下に移動されていて,歩くのもやっとの状況だった。

それでもブルーインパルスの飛行も見ることができたし,人気パビリオンには到底入ることはできなかったけれど(パビリオンの予約も全然とれなかったし。そもそもネットのサイトにつながるだけでも大変だった),やはり「祭り」というその雰囲気には大変満足した。

国際機関のパビリオンがあって,並ばずに入ることができたので,涼むためにも足を運んでみた。国際機関というのは,ASEANや国際科学技術センター(ISTC)など5つの団体であって,それぞれが展示をしていた。

その機関のひとつとして「国際熱核融合実験炉ITER」の展示があった。そういえばつくば万博でも日本原子力研究所の核融合の展示があったなぁ,と思いながら,どんな展示があるのだろうと思って近づいてみると,ITERの模型の隣にかつての同僚が説明員としていたので驚いた。

「Tさん!」と声をかけてみると,向こうもびっくりしている。どうも当日の7月13日は,「ITER」のスペシャルデーだったらしく,イベントで知り合いが会場に来ているのだという。残念ながら,イベントは見ることはできなかったが,数人の方々に挨拶することができて,たいへんうれしかった。

17万人以上いた入場者の中で,こんな同期に会えるなんて!ほんとうにびっくりした。本当に運が良かったのだと思う。

ということで,肌を真っ赤に焼いて,脱水症状でふらふらになりながら会場を後にした。出口のゲートから駅のホームに行くまでも20分くらいかかったけれど,その代わり夜のビールはすばらしく美味しかった。

今回の万博は,暑さと人の多さと,そして偶然の出会いが記憶に残ることになりそうである。

入場前の列。日傘,帽子は必須。私は忘れたけれど。


2025年7月26日土曜日

私の趣味は

 私の趣味はごくごく平凡で,

  • 読書
  • 映画鑑賞
  • 音楽鑑賞

である(あとはテレビを見ること)。

しかし,最近答え方が変わってきた。現在の私の趣味は

  • 読書,本を読んでないけれど。
  • 映画鑑賞,映画を観ていないけれど。
  • 音楽鑑賞,音楽を聴いていないけれど。

となる。私にとっては仕事が人生の100%を占めているわけではないので,趣味の時間がとれないこの状況はかなり問題である。

趣味の時間も仕事と同様,しっかりととりたいと思う。


2025年7月6日日曜日

機動戦士ガンダムジークアクスと別の世界線

 機動戦士ガンダムジークアクスを見ていた。私のようなお爺さんであっても楽しめる作品になっていて,すこぶる感心した。高年齢のファン層にも,オリジナルを知らない若い層にも,楽しんでもらえるようにいろんな要素がてんこ盛りされていて,そうした作品に仕上げるまでの工夫,努力に頭が下がる。。。

(以下,ネタバレあります。もう時効かとは思いますが)

結局,私たちが見ていた世界は,別の世界のララァが作り出したものだったということだったのだけれど,それでは主人公たちはララァが殺されると存在がなくなるということなのだろうか?最終回では,その世界は継続されていたけれど。。。(ララァは死んでいない?)

こうした「実は別の世界線だった」という話はこの10年くらい増えているような気がする。そもそも昔は「世界線」という言葉もなかったし,たぶん正式な物理用語でもないだろう。ある時点を分岐点とし別の可能性があったとして存在する世界,というふうに私は解釈しているのだけれど,疑問はたくさんある。その一つが別世界を支えるエネルギーに関するものである。

たとえば今回のジークアクスの世界がララァが作ったものだとしたら,そのためのエネルギーはどこからやってきているのだろうか?ある世界を創造し維持するために,一体どれだけのエネルギーが必要かを考えてみると,それがララァという一個人の精神エネルギーで支えられているとは到底思えないのである。ララァの精神はビッグバンをいくつも生み出すほどのエネルギーを持っているというのだろうか?

まどか☆マギカ」でもいくつもの世界線の話が出てきていた。そのころからずっと世界線がどのようなエネルギーによって作り出されているのか気になっている。選択による分岐の可能性はあるけれど,それで別世界が創造されるというしくみが全く想像できないのである。いつかそれが説明されるSFがあればよいと思っている(まどマギでは魔法という物理法則を超えた理由になっていたけれど)。

ただ,ジークアクスの場合は,すべてはララァの心の中の想像だったという夢オチで終わる可能性もあるのだけれど。

2025年7月5日土曜日

佐野元春のようにカッコよく年をとりたい

 先日,NHKの番組「あさイチ」に佐野元春が出演していて,そのカッコよさが話題になっていた。彼はもう69歳とのことだけれど,私も憧れる相変わらずのカッコよさ。あのイチテンポ遅れて話始める穏やかな語り口とイノセントな笑顔の魅力は,歳をとってからますます磨きがかかっているようだ。そしてこれから全国ツアーを始めるのだという。どれだけエネルギッシュなのか。これから10年以上経って自分が彼のようになっていることなど,とても想像できない。一体どんな生活を送っていたら,あのような69歳になれるのだろう...

素敵に年齢を重ねるということに私はずっと憧れている。歳をとって,しわくちゃになって,よぼよぼになって,ちいさくなってもいい。でも,そこに「素敵さ」があればよいのだと思う。汚くなって,みみっちくなって,貧相になっていくのは,なんとか避けたい。私はもうとっくに老齢だけれど,素敵な爺さんになりたいと思う。

佐野元春はそのひとつのロールモデルになるけれど,さらに年上の目標としてはデヴィッド・ボウイがいる。彼が60歳くらいときのライブの映像を見ると惚れ惚れする。彼の場合,どんなに年老いても,「美しさ」を感じる。そして「軽やかさ」を感じる。あんな美術品みたいなオジサンもいるのだ。

年齢を重ねてもまだエネルギッシュといえば,トム・クルーズを忘れてはいけないだろう。しかし,私の趣味でいわせていただければ,彼はパーフェクトすぎる。彼の努力が完璧すぎるのだ。たぶん彼が近くにいたら私は緊張してしまうだろう。もう少し肩の力が抜けた大人になりたい(もちろん,トム・クルーズを尊敬していることには変わりがない)。

日本人だったら,私が目標としたいのは,三船敏郎,原田芳雄,成田三樹夫あたりかな...存命な人ではあまり思いつかないのだけれど,渡辺謙,真田広之は私にとってはギラギラ,キラキラしすぎるかな(勝新太郎千葉真一もそう)。一方これから期待したいのは木村拓哉。彼の歳の取り方には今後も注目していきたい。

こうしていくつかの目標をあげてくると,素敵に年をとるには,「品性」と「余裕」が大切なのだと気づく。人生自転車操業の私にはどちらも今のところ縁がない項目だけれど。。。

2025年6月29日日曜日

フォークト=カンプフ検査を誰か作ってほしい

 「フォークト=カンプフ検査」は映画「ブレードランナー」に出てくる,レプリカントと人間の区別をするための検査である。レプリカントは人間そっくりに作られた人造人間で,人間でないと見極めるためには,この検査を行う必要があるのだ。検査は,被験者に向かって心が動くような質問をする。そのときの被験者の反応を見て,レプリカントか人間かを判断するのだ。

映画では,ハリソン・フォード演じるブレードランナーであるデッカード刑事が,自分がレプリカントであると知らないレイチェルにこの検査を行い,彼女がレプリカントであると見抜くシーンが出てくる。このためにレイチェルは自分がレプリカントであり,自分の記憶が偽造されたものであると知ってショックを受けるのだけれど,そこまでわかりづらいレプリカントも100個程度の質問で判断できるとデッカードは答えている(普通のレプリカントであれば質問の数は20~30個程度らしい)。

今こそブレードランナーが必要になってきたと私は思っている。それは,この生成AIの発展が著しい現代で,フェイクかリアルかを判断できる能力が必要となってきたということである。

著名人が話している動画を見ても,その姿からリアルかフェイクかを判断するのが難しくなってきている。話している内容も,本人が話しているものなのか,誰かがシナリオを書いたものなのか,それともAIが考えた原稿なのか,私にはもう判断できなくなっている。誰を信じたらよいのか。。。

リアルとフェイクを見分ける基準はないだろうか?あるいは適切に見分けることができる質問はないだろうか?たぶんそれらの手段が共有された瞬間に,また新たな対抗手段が生み出されるだろう。そしてフェイクがありふれた世界がやってくるのだ。それは世界の終わりである。

そんな未来はすぐ近くに来ている。それはChatGPTを用いて書かれた学生たちの課題レポートを読んでいるとヒシヒシと実感する。

2025年6月28日土曜日

意識の状態は外部の世界に影響を与えられるか

 人間の思想や信条によって世界が変わるか,という話ではなく,人間のある意識の状態がその周囲の環境に影響を与えることができるか,という話。

幕末から明治の剣豪である山岡鉄舟は座禅を組むと家のネズミたちが静かになったという話が伝わっている。棟を走るネズミをにらむだけでネズミが落ちたとか,そんな話もある。しかし,この話には続きがあって,さらに鉄舟の修業が進んだ晩年では,写経をしていると身体の周りでネズミが遊んでいたとのことである。

宗教的哲人J.クリシュナムルティは宗教を否定していたが瞑想の重要性を説き,自ら瞑想は続けていた。彼の近くにいた人たちは,彼が瞑想を始めるとその周囲では神々しさにあふれた静謐さを感じることができたのだという。

このように人間の精神の状態が,周囲に影響を与えることは事実なのだろうか。決して物理的になにかが起こるわけではない。ただその精神状態が周囲の動物に影響を与えることはありうるのではないだろうか。そして山岡鉄舟の場合のネズミのように敏感な動物にはその変化がわかったのだろう。

心身統一合氣道の宗主 藤平光一先生が広島の宮島を訪れた時に,自然に宗主の周りに鹿が集まってきたのだという。一緒にいらした師範が,修業が進むとここまでの境地になるのかと感動したというお話を伺ったことがある。これも人間の精神の状態が周囲に影響を与えていることの証左かもしれない。

私が直接ご指導を受けていた合氣道の先生の話。居酒屋で酒席をご一緒させていただいているときに,周りがうるさいとおっしゃって,「これから静かにさせるから」とおっしゃった後に先生が心を静められて,その後周囲がだんだんと静かになっていったという体験がある。実は私も別の機会に真似をしたけれども,残念ながら居酒屋はうるさいままで,まったく周囲に影響を与えることなどできなかった。

このように,なにかしらの形で人間の意識の状態が周囲の人間を含む動物に影響を与えることは間違いないと思っている(モノを動かすような超能力とかではなく)。そして,そのためには自らの心を制御できることがその第一段階であることも理解している。ただ,それを自ら実証するのには,まだ私の修業が追いついていないのだ。

2025年6月22日日曜日

神の臨在を感じる

 アポロ計画で月面着陸をした宇宙飛行士たちには,その経験がきっかけで人生が大きく変わったという人が少なくないと聞く。月面で宗教的な儀式をおこなったり,帰国してから宗教家になった人もいる。究極の極限状態において,人間の精神(脳)はさまざまな反応を起こしているということなのかもしれないが,宇宙空間において神の臨在を感じたという人もいる。神様の姿を見たわけではなく,その存在を感じるだけでも人は大きく変わる可能性があるらしい。

私が以前に文系のある大学教授からお伺いした話。その方はそれまで全く宗教的な関心などもたず,世界のあちらこちらを訪れ研究を行っていたという。それがあるとき,奥様とふたりでフィリピンのあるコテージに滞在された。その日の夜,窓から部屋に風が吹いてカーテンが揺れるのを見ていた時に,突然,神の臨在を感じたのだという。姿は見えないけれど,はっきりと感じたとおっしゃっていた。そして翌日もまた神の臨在を感じたのだという。その先生はその後すぐに,キリスト教に入信された。話を伺っているとき,たいへん自信をもってその神秘体験を話していただいたことをよく覚えている。

すこし感じが違うのだけれど,合氣道の開祖 植芝盛平先生も修行において,突然自分の身体が黄金に光り輝き,宇宙と一体となった感覚を得たといわれている。そこから技の質が変わったのだとか,言われている。

最近,どこかの記事で読んだけれど,複数の宗教家に薬物でトリップさせる経験をさせた実験でも,その後の宗教的生活が大きく変わった人が多かったという結果だったそうである。

つまりは,神秘体験は一種のトリップ体験であり,そうした意識の変性を経験してしまった脳は,それまでと異なる価値観で動作するということなのかと思う。また人間はそうした経験をひとつするだけで,価値観,性格,武道における技の質などが大きく変わりうる可能性が高いことを示している。

変性意識には誰でも遷移できる。しかし,それが神秘体験となるためには,なにかしらの条件が必要なのだろう(薬物によるトリップは安易な方法なのかもしれないが)。伝統宗教に伝わる数々の精神修行の方法は,この体験をするために工夫が重ねられた方法なのかもしれない。もしかして,それは伝統宗教における「魔道」に落ちることなのかもしれないけれど。

2025年6月21日土曜日

人材を育てるには金と時間がかかる。特に核融合工学者は。

 先日テレビを見ていたら,竹中平蔵が「核融合に期待する」と述べていてたいへん驚いた。高市早苗が以前から核融合に注目していて,JT-60SAのプラズマ点火式にも参加していたことは知っていたけれど,全然興味がなさそうな竹中平蔵がテレビで核融合について言及していたのを見て,現在の核融合の盛り上がりの大きさをあらためて感じたのである。

核融合炉は,最先端技術の粋を集めた巨大な工学的装置であり,もう半世紀以上も研究開発が進められている。現在の原子炉である核分裂炉がマンハッタン計画の原子力爆弾開発から数十年で実用化したのに対し,核融合炉はいまだ開発の途中にある。現在は,フランスに国際熱核融合実験炉ITERが2030年代半ばのファーストプラズマを目指して建設中であるが,ITERはあくまでも実験炉であり,発電炉としての実証はDEMO炉と呼ばれる次の実証炉で行われる計画である。つまり,まだまだ先の話なのである。

ところがこの2,3年,核融合関係の民間スタートアップ企業が世界のあちらこちらで設立されていて,日本でさえも数社が名乗りをあげ,この分野への投資が過熱していることが話題になっている。日本では企業による協議会が発足し,すでに50社以上が参加を表明しているという。さらに政府としても,核融合を10番目のムーンショット目標に選んでいて,国をあげてのサポートが期待されている。

私はこのように核融合が注目されることはたいへん良いことだと思っている。そして多くの資金がこの分野に流れ込むことも大いに結構だと思う。しかし,それが一時期のブームで終わることを大いに危惧しているのである。

1980年代~1990年代においては,核融合にもそれなりの予算がついて,常に開発が行われていた。核融合のプラズマ試験装置であるJT-60やLHDが建設されたけれども,装置が完成する頃には次の改造計画がすでに立ち上がって開発が進められていたものである。なぜなら,もちろんプラズマの性能を高めるために最新の知見を反映する必要があるからだけれど,それよりも予算を継続的に得るためであることが大きかった。それは人材を確保するためである。

核融合の研究開発を進めるためには,日本のトップメーカーに協力してもらわなければならず,またそのメーカーの中でもトップレベルの優秀な人材を出してもらわなければならなかった。当時は各社から研究所に多くの優秀な技術者が出向していて,共に研究開発,設計を進めていたものである。

しかし,核融合にお金がつかなくなる時期がそのあとにやってきた。核融合がお金を稼げない分野になってしまったとたん,優秀な人材は各社に帰って行ってしまった。なぜならば彼らは優秀なだけに,他の分野で多くのお金を稼ぐことができる人材だからである。多くの企業からの出向人が研究所から去って,別の分野に転換されていった。その結果起こったのが,核融合にかかわる技術の継承の断絶である。継承されていく技術の多くは,設計書や報告書に残るのではなく,参画していた各個人の経験として残されていくのである。その人たちが核融合の現場を去るということは,その技術が他分野に行ってしまう,あるいは消失してしまうことを意味する。

そして現在,新たに核融合に多額の資金が投入されたとしても,以前に去って行った人たちが戻ってくるわけでもない(多くの人は定年を迎えるだろうし)。各企業に残っていた技術のスキル,ノウハウはもうない。

また一から人を育てればよい,という話になるけれど,工学者を育てるには,そしてそれが核融合分野だった場合,多くのお金と時間がかかるのだ。核融合工学は経験工学の性格も強いので,また新たに知識と技術を蓄積していくにはたいへんな労力と時間を要することは想像にかたくない。そうした継承は,QSTやNIFSのプロパーの研究員,技術者たちが担ってきたはずだけれど,やはり企業の技術に頼る部分も多いのだ。

一時期に資金が大量に投入されるのも良いけれど,人材を確保し技術を育てていくためには,資金を継続的に確保していくことがなによりも大切なのだと私は強く思っている。今回の核融合への盛り上がりが一時のブームで終わらないよう,研究機関,企業の方はぜひ政府や投資家相手にうまく立ち回って欲しいと願っているのである。


#ITER計画自体も資金不足からどんどん計画が遅れていることが報道されている。ITERの運転開始は一体いつになるのだろうか。

2025年6月15日日曜日

「それが答えだ!」と「ワンダフル・ワールド」

 「それが答えだ!」(1997)というテレビ番組について少し紹介したけれど,そういえば主題歌はウルフルズの「ワンダフル・ワールド」という曲だった。これは,サム・クックの「ワンダフル・ワールド」のカバーで,英語っぽく聞こえる日本語歌詞が印象的な曲だった。

たとえば,「どの町までいけば~」という歌い出しは,原曲の"Don't know much about history"というところに明らかにかぶせて作詞されていて,その他の日本語の歌詞もせつなくて良い歌だった。

しかし,ウルフルズには,ずばりテレビ番組のタイトルと同じ「それが答えだ!」(1997)という曲があって,こちらは全く曲調が異なる元気な作品である。

なぜ同じタイトルなのか?ここからは私の全くの想像だけれど,まず「それが答えだ!」というお題でウルフルズに番組主題歌が依頼されたのではないか。それで作られた曲が「それが答えだ!」。しかし,この曲はあまりに番組内容とマッチしていなかったので,急遽「ワンダフル・ワールド」が主題歌にあてられたのではないだろうか(主題歌といってもたぶん,毎回最後に流れる曲であったと記憶している)。

と思って(ここまで書いてきて),Wikipediaを見てみたら,やっぱりそうだった。「それが答えだ!」は本来ドラマ主題歌になるはずだったのだ。30年近く思っていた謎がスッキリした。

くだらないことにずっと頭のリソースを使い続けていた。さっさと調べればよかったと反省。。。


話変わって。

「ワンダフル・ワールド」は日本語訳すれば「素晴らしい世界」となり,ルイ・アームストロング「この素晴らしき世界」("What a wonderful world")を思い出す。調べてみると,この曲よりもサムクックの"Wonderful world”の方が早く発売されているらしい。

"What a wonderful world"となるとこのブログタイトル"What a wonderful electrical engineering life!"(「素晴らしき哉,電気工学的人生!」を思い出す人もいるだろう(いや,いないけど)。こちらは,映画「エクソシスト3」に由来している。いや正確にいうと「エクソシスト3」の中に皮肉として語られている(天使が人間を救うという)映画「素晴らしき哉,人生!」にちなんでこのブログのタイトルはつけられている。そう残念ながら,このブログタイトルは皮肉なのだ。

2025年6月14日土曜日

マーラー交響曲第5番

 マーラーの交響曲の中で最もポピュラーなのは,第1番と第5番なのではないだろうか。

第1番は,私の記憶が確かならば,黒澤明監督の映画「乱」の予告編で第3楽章が流れていた。それが私のマーラー作品の初体験だったかもしれない。

大学に入学したとき(1980年代),一般教養科目で「音楽関係」の講義を受講しようと思って,その第1回目を聴きにいった。内容なんて全然覚えていないけれど,先生が「最近はマーラーも演奏会で取り上げられるようになってきた」と話したことだけはやけにはっきりと記憶に残っている。日本において,マーラー作品の演奏はその程度だったのである。

マーラー作品は,私は大好きだけれど,オーケストラ構成が大規模になり,ポピュラーなメロディーもそんなにないから,一般の人たちに浸透するまでに時間がかかったのではないだろうか。第8番なんて「千人の交響曲」なんて言われるくらい大規模だし。

しかし,マーラーの有名な言葉,「私の時代がやってくる」の通り,現在はマーラーは演奏会に多頻度で取り上げられる人気作品ばかりである。私もこれまで,3番,4番7番を生演奏で聴く機会に恵まれている。ただ,マーラーを聴きにいくのは比較的クラシックの固定ファンで,まだまだ一般に十分に受け入れらているようには感じられないのも正直なところである。

そんなマーラーの交響曲であるが,第5番についてだけは,いやその第4楽章だけは,人気曲になった時期がある。もともとこの曲の第4楽章「アダージョ(アダージェット)」は,映画「ベニスに死す」で用いられたとかで,ある程度知られていたらしい(私は見たことがないけれど)。曲自体は非常にゆっくりとした美しいメロディーをもっており,ロマンティックなBGMとしては最高である。

しかし,この曲を有名にした最も大きな出来事は,「アダージョ・カラヤン」なる,カラヤン指揮の複数の局の美しい緩徐楽章や小品を集めたCDが発売され,この作品集が世界的に(もちろん日本でも)セールスをあげたことである。1995年の頃らしい。今では,アダージェットを聴いて「それだ」とわかる人は,またずいぶんと少なくなっていることだろう。

第4楽章以外はどうかといわれると,たぶん知っている人はほとんどいないだろう。。。不吉なトランペットのファンファーレから始まる第1楽章はかっこいいからぜひ聴いていただきたいのだけれど。

地上波のテレビドラマでこの曲の一部が流れたこともあるのだけれど,こちらはあまり話題にならなかった。このドラマは「それが答えだ!」(1997年)である。三上博史主演の天才指揮者がわがままが原因でポストをなくし,日本の田舎の音楽部の顧問になって過ごす時間を描いたもので,当時まだ若かった藤原竜也や深田恭子が高校生役を演じている(ついでに藤原紀香もピチピチのお姉さんとして出演している)。萩原聖人,羽田美智子,酒井美紀が三上博史を囲んで騒動が起きていく話で,あまり視聴率は上がらなかったみたいだけれど,私は楽しく見ていた。

確か,最終回。三上博史がプロのオケを振るシーンがあったのだけれど,その曲がマーラーの第5番だった。終盤,最終楽章のフィナーレの場面があり,三上博史の指揮姿が映った。そこで私が思ったのは,ちょっとリズムを刻みすぎの振り方じゃないの?ということである。もしも皆さんがこのドラマを見ることがあったら,ぜひ確認してほしい。でもこのドラマでも第5番が有名になることはなかった。。。

マーラーが予言した通り,彼の作品が演奏会で演奏される時代にはなったが,一般の人々が口ずさむほどポピュラーになるまでは,まだ時間がかかりそうである。長大な交響曲が多いマーラーだけれども,第5番はその中でも演奏時間が短く,曲もわかりやすいので,マーラー世界の入門作品としてはもってこいなのである。おススメ曲である。

2025年6月8日日曜日

長嶋茂雄,夢と憧れの喪失

 長嶋茂雄さんの訃報を聞く。多くの人が思っているだろうけれど,やっぱり昭和の時代が終わっていくのを感じる。しかたないことだけれど,寂しい。

私が長嶋茂雄を認識したのは,小学生2~3年生の頃。近所の子供たちと公園で「手打ち野球」をし,父親と少しキャッチボールをするくらいでしか野球に興味がなかった私は(今でも運動音痴のままだが),長嶋茂雄などよく知らなかった(と思う)。

それが,近所の子供がチケットを手に入れたというので,一緒にミズノ(だったかな)の野球イベントに参加した際,最後にくじ引き大会があって,確か2等が当たったのだ。景品は「ミスタージャイアンツ 栄光の背番号3」(うろ覚え)というLP2枚組のレコードで,たいして野球に興味のない私はとまどったことを覚えている。

そのレコードには,長嶋のインタビューやらホームランのときの実況,そしてあの引退のときの有名な挨拶などが録音されていて,私も何度か針を落として聴いたはずである。けれど,正直,長嶋の現役時代を知らない私にとってはあまり関心あるものではなかった。

私が知っている長嶋はむしろ監督時代のものである。私の父がアンチジャイアンツだったので,私は長嶋監督の敗戦時のつらい表情をよく覚えている。もちろん,長嶋は監督としても日本一になったし,何度もリーグ優勝もしているから,笑顔もいっぱい見ているはずだけれど,監督時代のなぜか苦渋の表情の記憶ばかりがある。

しかし,私にとって長嶋茂雄で最も印象的なのは脳梗塞で倒れて以降の彼の姿である。超一流の野球人であった彼は,半身がうまく動かなくなってしまってからの自分をどう考えていたのだろうか。それがずっと気になっている。

脳梗塞後も彼はテレビ等に出演していたが,そのリハビリをする姿に私は大いに感動していた。内心は悲観することも多々あったはずだけれど,いつも明るく,笑顔で,つらいリハビリに挑んでいた。私は超一流選手であった人が不遇の状況にあるときにどのように生きていくのかにたいへん興味があるのだけれど,長嶋のリハビリ人生には大いに励まされてきた。

リハビリ施設で長嶋に会って人生が変わったという俳優 塩見三省のエピソードが私は大好きである。リハビリをしなければならないというつらい生活の中でも,長嶋茂雄は太陽のように輝いて,人に勇気と笑顔を与えている。その事実に長嶋という人の器の大きさを感じる。

彼の訃報を聞いて涙を流している人たちがテレビで報道されている。しかし,長嶋茂雄に比べてずっと若い人たちばかりである。長嶋茂雄は享年89歳であったから,一緒に青春を過ごしたという同年代の人たちは少ないだろう。むしろ泣いているのは小さいころ長嶋茂雄に憧れていた人たちなのだと思う。彼らにとって長嶋茂雄は夢,憧れだった。長嶋茂雄の逝去は,彼らにとっては夢の喪失なのである。


#「長嶋・王の野球教室」という本も私は買ってもらったはずである。けれど全然,野球なんて練習しなかったから,いまだにゴロもフライもまともにとれない。

2025年6月7日土曜日

新宿のレストランで「アルファルファはいかがですか」と尋ねられた

 中学1年生の夏休み,東京へ親戚を訪ねて行ったときの話

訪ねていった親戚の姉妹は,私を東京旅行の最後に新宿の三角ビルに連れて行ってくれた。ビルの上階の見晴らしの良いレストランで,最後の夕食としてハンバーグステーキを食べたのである。

テーブルにウェイターがやってきて,私はハンバーグを頼んだのだけれど,そのときにソースを聞かれたことに驚いた。それまでハンバーグの味付けといえば,焼いたときに出てくる肉汁に,中濃ソースとトマトケチャップを混ぜて作る家庭ソースしか知らなかったので,デミグラスなんて言われても味を想像することができなかった。

次にサラダ野菜が給仕さんが押してくる移動式ワゴンに乗せられてきて,そのなかからニンジンやレタスなど各人の注文に合わせて取り分けてくれることに驚いた。ここで

「アルファルファはいかがですか」

給仕さんに尋ねられたことを今でもはっきりと思い出す。カイワレ大根でさえ新潟ではメジャーではなかった時代に,それがどんなものかなんて全く思いもつかなかった。

サラダにかけるソースだって聞いたことも無いソースばかりだった。家庭科の授業でサラダオイル,塩,コショウでフレンチソースを作ったことはあったけれど,レストランで見たフレンチソースは白いソースで自分が習ったソースとは異なるものだった。そのほか,給仕さんはサウザンアイランドソース,シーザーサラダソースなどを紹介してくれたけれど,まったく想像がつかない私が結局選んだのは「ライトイタリアン」だった。これが一番,家庭科で習ったフレンチソースに近い見た目だったからである。案の定,想像していたソースに近い味だった。

肝心のハンバーグの味なんて覚えていない。はっきりと覚えているのは,サラダワゴンのアルファルファとライトイタリアンソースをオーダーしたことだけ。でも,レストランだけでなく,その東京旅行に大満足したことはよく覚えている。

2025年6月1日日曜日

原宿の喫茶店で人生初のプリンアラモードとホットサンドイッチを食べた

 中学生1年の夏休みに東京の親戚を一人で訪ねていったことがある(1980年?)。その頃は,東京にも何軒か親戚がいて,いくつかの親戚の家にお世話になる予定だった。

そのうちのひとつが,新潟の本家から上京して働いている姉妹であって,東京見物に付き合ってもらった。たぶん,私が中学1年ということもあったからだろう,浅草や東京タワーとかではなく,若者の街「原宿」を案内された。竹の子族はいたとは思うけれど,一世風靡はまだいなかった時代である。

正直,その頃の原宿がどんな街だったのか,全然覚えていない。私はTシャツになぜか白いテンガロンハットをかぶって(写真がどこかに残っていたはず),その姉妹の他にいとこの女の子と一緒に原宿を歩いたのだと思う。

原宿で唯一覚えているのは,おしゃれな喫茶店に入ったこと。メニューを見ても理解できないものがいっぱい並んでいて,すごく緊張した。

「プリンアラモードってなんですか?ブリンと違うんですか?」

と尋ねたことを今でも覚えている。親戚のお姉さん方は笑いながら,「注文してみればいいよ」と言ってくれて,私はサンドイッチと一緒に頼んだ。

そのプリンアラモードは,想像を超えたプリンだった。いまではどこの喫茶店でもある(スーパーでもカップで売っている)ありふれたメニューだけれど,当時の田舎者の私には,まさに初めての「アラモード」だった。なんたって,大きな皿のプリンの脇に生クリームとサクランボが乗っていて,周りがリンゴなどのフルーツで飾られた,ゴージャスで夢のようなプリンだったのである。あまりの華やかさに味なんて全く覚えていない(まぁ,40年以上も前に食べたプリンの味なんて誰も覚えちゃいないけど)。

でもその時,プリンよりもっと驚いたのが,サンドイッチだったのである。なぜって,それは焼かれたトーストの間にゆで卵などの具が挟まっていたから。そう,ホットサンドイッチを食べたのもそのときが最初だったのである。サンドイッチには野菜やハムなどがあふれんばかりに挟まれていて,ボロボロ落としながら食べた。そのマヨネーズも本当に美味しかった。こちらの味はいまでもぼんやりと思い出せそうである。

それまで,白くて薄い三角食パンで挟まれたサンドイッチしか食べたことがなかった私が,生涯サンドイッチ好きになったのはこの時の衝撃が忘れられなかったからかもしれない。東京は,新潟となにもかもが違う最先端の街なのだとつくづく思ったのである。

2025年5月31日土曜日

はじめてグレープフルーツを食べたのは東京だった

 新しい食べ物との出会いは,ずっと思い出に残っていることが多いようだ。カプチーノとの出会いを以前にこのブログに書いた。今回は,小学校4年に(だったかな)初めて東京に行ったときの話。

東京にいる私の親戚は2軒とも蕎麦屋で,食べ物に対しては先端をいっている人たちだった。東京訪問時に私が初めて親戚のうちに行って食べたものが,グレープフルーツだった。

それまで私は夏ミカンしか大きな柑橘類は食べたことがなかった。それも昭和のその頃の甘夏は酸っぱくて固くて,食べ終わると歯が浮いたような感覚になったものだった。まあ,小学生のうちは,一回に甘夏の1/4しか食べさせてもらえなかったけれど。

それが東京の親戚のうちの客間に通されて,テーブルの上に出された果物が半分に切られたグレープフルーツだった。

まず色に驚いた。甘夏のオレンジとは違う黄色だったのである。そして中身はパサパサなどしていなくて断面はみずみずしく光っていた。見るからにおいしそうである。

次に驚いたのはおもむろにグレープフルーツの断面に砂糖をかけ始めたことである。その当時,グレープフルーツはまだまだ甘さが足りなくて,食べるときにちょうどスイカに塩をかけるように,砂糖をかけて食べていたのである。今では思いもつかないけれど。

そしてもっと驚いたのは,先っぽがギザギザになっているスプーンである。それで半分に切られたグレープフルーツの身を掬って食べるというのが画期的だった。甘夏みたいに皮をむいて,中身をひっくり返して食べるのではなかったのだ。なんて上品な食べ方!と思った。

実際食べてみると,グレープフルーツはすっぱくて,苦くて,確かに砂糖がなければ食べ続けれられないかもしれないと思ったことは覚えている。大人のフルーツだったのだ。

それが今では,グレープフルーツは私の大好物になっている。品種改良も進んだためか,甘さも十分あって,砂糖をかけて食べる人なんて見たことがない。グレープフルーツジュースもさわやかな苦みがあって大好きである。東京で初めて食べてから40年以上が経ったけれど,グレープフルーツを1/2個食べるときの贅沢感は今も変わらない。

2025年5月25日日曜日

カプチーノとの邂逅

 私は昭和生まれだから,昭和,平成,令和と時代の移り変わりをそれなりに見てきた。現代はとにかく情報が伝達・共有されるのがそれまでに比べ異常に早いことが特徴だと思っている。新しい製品,新しいファッション,新しい曲,そうしたものが世に出るとあっという間に広がって,世の中の常識的な知識になってしまう。昭和の頃はテレビで広がるのがやっとだった。

そうした昭和の時代,私が初めて食する食べ物に驚愕することが多々あった。今では当たり前にネットを通じて新しい食べ物の詳細な情報,味,入手方法などの情報を即座に得ることができるが,昭和の頃,たとえそれが雑誌で紹介されても,どんなものなのか全然想像がつかず,まして味なんて予想もできなかったからである。

今回は,私が初めてカプチーノを飲んだときの話。現在においてはカプチーノがどんなものかなんて誰もが知っている。ファミレスに行けばドリンクバーにだってメニューのボタンがついている。ボタンを押せば,コーヒーが,そして多めの泡立ったクリームが出てくる。しかし,私が大学1年生の頃(1986年),ネットなどまだなく,カプチーノはまだまだ謎の飲み物だった。

大学に入学してからしばらくして,東京のあちらこちらに行っていろいろなものを見てみようという余裕が出てきた頃のこと,私は大学で同じ高校出身の同期生と一緒に渋谷に観光に出かけた。自分がどんな服を着ていたのか思い出せないのだけれど,友達はジーンズと赤のチェックのシャツだったのを覚えているから,たぶん私も似たり寄ったりの服装だったのだろう。

渋谷から公園通りを抜けて原宿へ行こうと坂を上っていく途中で,コーヒーでも飲もうということになった。とはいえ,格式のある喫茶店は敷居が高いので,ちょっとファミレス風のコーヒーとスイーツのお店に入った。店は白い壁,対面のテーブルに赤いソファー。それだけで田舎者の私たちは舞い上がった。

そしてメニューを見て,目についたのが「カプチーノ」の文字。「三浦君,飲んだことある?」「いやない」「これいってみよう!」ということで二人ともそれを注文をする。今みたいに注文用タブレットなどないから,ウエイトレスさんに声をかけて,田舎者と思われないように注文をした。

しばらくして,カプチーノらしきものが2つ運ばれてきた。まずはクリームがたっぷりのったコーヒーカップ,そして驚愕したのが,その隣に一端をまるでクリスマスのチキンみたいに銀紙でつつまれた黒い木の小棒であった。

ウエイトレスが私たちのテーブルから立ち去って行ったあと,私たちはそれぞれその小枝を手に取ってみた。固くて黒茶色。食べ物ではないというのはすぐにわかったけれど,どう使ったらよいのか最初ほとんど理解できなかった。周りを見回しても,同じものを頼んでいる人はいなかった。

しかし匂いを嗅いでみるとニッキのにおいがする。そこでようやくシナモンだということを理解した。この小枝を噛んで風味を味わうのかとも少し思ったけれど,友達が「これはこうするんじゃね?」と言っておもむろに小枝でコーヒーをかき混ぜ始めた。「それだ!」ようやく私も合点がいって,シナモンスティックでコーヒーをかき混ぜ始めた。これが正解に違いない,そうは思いながらも人生初めてのカプチーノを,他の客の視線を気にしながら飲んだことを今でもよく覚えている。「シナモンの香りなんてかき混ぜたぐらいじゃコーヒーに移らないよ」と思ったことも。

これが私の初カプチーノ体験であった。笑い話でしかない。しかし,現代ではこうした新しい感動を得るのは難しくなっているような気がする。ある意味,現代人はかわいそうである。だからこそ,みな新しいものを探して右往左往しているのだ。

2025年5月24日土曜日

モスぼる

 業界用語というものがある。私はこうした一部の界隈しか通用しない用語があまり好きではなく,「サチる」,「ネグる」などの言葉はなるべくならば使いたくないと思っている。私はこれらは「品性の問題」と思っているけれど,まぁ,「趣味の問題」の程度のことなのかもしれない。

最近,同僚と話していて思い出した和製英語的な業界用語に「モスぼる」という単語がある。

モスぼるというのは,Mothballから来ていて,蛾の防虫剤で球形の薬剤を示している(苔のモスではない。もちろんハンバーガーでもない)。

そこから意味が転じて,「長期保存する」とか「(計画などを)棚上げする」などを示す場合にも使われるようになったらしい。それを,さらに日本語に転じて「モスぼる」という風に使っているらしい。

私はこの言葉を日本原子力研究所勤務時代に知ったのだけれど,そういえばそれ以降,この言葉を聞いたことがなかったような気がする。ちょっと特殊だったのかな。。。たしかに私自身もこの言葉をつかったことはないけれど。


2025年5月18日日曜日

月を指さすことは

 少し前,「指月の指」について書いた

しばらくして思い出したのけれど,月を指さすことはそもそもやってはいけないこととされていたのではないだろうか。

そう思ってネットで調べてみると,どうも台湾では「丸くて大きな月を指さすと,翌朝月の女神に耳を切られてしまう」と言われているらしい。私はそれをどこかでうろ覚えしたのだろう。そもそも日本では月は男性神のはずだから,このタブーは我が国のものではないだろう。

しかし,面白いのは耳を切られるのを防ぐために,指さした後に耳を手で押さえるとか,耳たぶをつかむなどという対処法も同時に伝わっていることである。まるで雷がなるとおへそを手で隠す,みたいである。

ネットで調べるかぎり,日本では月を指さすことはタブーとされてはいないらしい。しかし,月は死と再生の象徴であり,人は太古からその魔力を信じてきた。軽々に指さすことはあまり良くないことなのかもしれないな,とも思う。


#今回は「指月の指」の補足ということで。

2025年5月17日土曜日

疲れでモノが見えなくなる

 毎日がパラパラ漫画のように過ぎていき,あっという間に週末である。最近はとにかく疲れがひどい。自分でも仕事量を抑制しているつもりなのだけれど,やはり年齢のせいか,昔のようにはうまくいかない。

疲労が溜まってくると良いことがない。

まず身体のフシブシがバキバキときしんでいる。とうとう背中のスジを違えたらしく,背中と首筋が痛い。そのため左に顔を向けづらい状態である。

睡眠時間を長くとって休養しようにも,熟睡ができず朝早くに目が覚めてしまう。疲労が取れない。そして起きたときから後頭部が痛む。長時間眠れないのは枕が身体にあわなくなってきたためだろうか,それともトシのせいなのだろうか。

こんな状態では,集中力も保てない。忙しいわりに仕事に集中できないという悪循環に陥っている。心の修行こそ,ずっと武道を通じて行ってきたはずなのだけれど。。。そのうえ,疲れていると機嫌が悪くなって,ちょっとしたことにも腹を立てやすくなる。もともと私は短気極まりないのに,さらに怒りやすくなる。血圧もずいぶん上がっていることだろう。

そして疲労感がとれないと,ついつい甘いものを食べたくなってしまう。以前にも書いた通り,現在体重は人生MAXの値を更新しつづけている。甘いものは一時的には満足感を与えてくれるが,中毒性もあるし,長い目でみれば心の状態にもずいぶん悪影響を与えているような気がする。

「疲労度」を測る良い方法として,以前,バイト先の学習塾の塾長に聞いた方法がある。塾の合宿においては,子供たちの疲労度を測るためにゴミを拾わせるのだという。疲れがひどくなってくると,たとえ目の前にゴミが落ちていても認識できず,拾わなくなるということだ。

私も現在,目の前にある財布を「ない,ない」と探してみたり,机の上に堂々と充電している携帯電話を探してみたりと,本当にひどい状態にある。原因は疲労だけなのか,加齢によるボケなのかわからないけれど,とにかくひどい。目の前にあるモノが見えなくなることって本当にあるのだ。

以前に読んだミステリー小説で,トリックは「人は見たいものしか見えない」というものがあったが(京極夏彦作品),読んだときには「そのトリックはないよ~」と思ったけれど,最近はそうしたトリックも成立するのかもしれないと思うようになってきた。

大切なモノを見落とさないためにも,なんとかしなければ。

2025年5月11日日曜日

村上春樹「石のまくらに」

 村上春樹の短編集「一人称単数」の一篇である「石のまくらに」を読んだ。彼の作品を読むのは久しぶりだ。

主人公「僕」は,大学時代,アルバイト先にいた女性の送別会の夜,彼女と一夜をともにする。彼女は,好きな人はいるが,その人からは身体は良いが顔はちょっと...と評価されている。しかし彼女は彼が好きなのでいわゆる「都合のよい女」として扱われていた。そして彼女はもっと高い給料の職場を求めて主人公のバイト先をやめることになっていた。

と作品を読み進めていくと,「いつもの村上作品にでてくる都合の良い女なのか」と思い始める。「僕」は女性の名前も顔も思い出せず,一夜を過ごしたという記憶だけが残る。彼女のなまめかしい肢体と振る舞い,そして鼻の脇にある2個のほくろなどの思い出だけが語られる。

こうした女性は村上作品によく登場する。女の名前も顔も忘れるがエピソードだけが心に残っている,みたいなことが,「蛍」や「ノルウェーの森」の「直子」や,「羊をめぐる冒険」の葬式の女などで繰り返し語られている。

それはそれでよいのだけれど(女性からはこうした都合のよい女の存在が村上春樹を嫌う理由になっているけれど),本作では彼女が「短歌」を読むということが特徴的だ。彼女は歌集を自費出版して,その中の一冊(たぶん28番目の冊子)を主人公に後日郵送してきている。その歌集は素人のもので,世間的には全く知られないものであるけれど,「僕」はその中の8首が心にずっと残っているという。

この作品では,「短歌」が彼女の生きた証,記録となっている。村上作品として相変わらず女性については「死」のイメージが色濃く描写されているけれども,これらの短歌が彼女がこの世に存在したという示すものになっていて,少なくとも主人公にとっては忘れることができない理由になっている。

なぜか。それは「短歌」が彼女の生きざまから絞り出すようにして詠まれたものだからであり,そのことを主人公が理解しているからである。この作品では,作家(短歌の作者である女性と現在小説家である主人公)というものが,どのようにして「作品」をつくりだしていくか,その過程が村上春樹的な比喩を用いて語られている。私は,「作品」は生きていることの証として,すなわち「生存理由」として,命をかけて作られているのだ,という印象を受けた。

村上作品によくある「都合の良い女」という私の印象は,読後には一人の女性の生々しい生きざまを主人公とともに目撃したのだというものに変わっていた。村上春樹の作品はいつも複雑で感想を書くことが難しいのだけれど,この短編は女性の生き様をはっきりと意識させられるものとなった。


#タイトルの「石のまくらに」とは,「石のまくら」の上に首をのせて自分の心,命を差し出すという覚悟が,自分の言葉を(作品を)あとに残すためには必要だ,ということが書かれているので,作家としての覚悟と生き様を表しているのではないかと思う。

金運上昇で有名な高龍神社に参拝する

私は 神社を参拝することは大好き なのだけれど, まだ地元長岡の神社をすべてお参りできたわけではない。今回は,金運アップで有名な(らしい)高龍神社にお参りしてきた。 初夏,学会で長岡にいらした方も「高龍神社」にわざわざ参拝に出かけられていたくらい金運アップで全国的に(一部,龍神フ...