2024年12月31日火曜日

ダンダダン

 「ダンダダン」

がいきなり,知らないうちに終わってしまっていた。Tverで観ていたので,これで今シーズンが終わりだ,とはわからなかった。呪われた家に出かけ,登場人物たちがそれぞれピンチに遭った状態で終了。いわゆるクリフハンガーである。シーズンの終わりがこうした形となるのは日本では珍しいのではないかと思う(BBCの「SHERLOCK」はそうだったけれど)。

このアニメ作品は,展開が早くて毎週楽しみにしていた。まず絵がうまい。原作の画のうまさにも感心したけれど,アニメになってもそのうまさが引き継がれているような気がする。いろいろな画角や効果,色使いなど,たいへん工夫されていて,それぞれの場面を切り取ってもポスターになりそうなクオリティとなっている。

声優も素晴らしく,原作の漫画を読む際には彼らの声が再生されてしまうくらいピッタリである。そして,言わずもがなの音楽。Creepy Nutsの「オトノケ」は中毒性のある音楽ですでに世界的に(!)ヒットしている。オープニングの動画も最高である。サイケっぽく目を惹きつけられる。

とにかくヒットする要素ばかりの作品なのである。肝心のストーリーも,主人公二人の甘酸っぱい恋愛感情を軸に妖怪と異星人が入り乱れるハチャメチャな展開で,スピード感がある。原作は,ゲームの世界に入り込むところまで読んだけれど,ちょっとそこでは一休みしているような感じもしたけれど。。。

どうも第2期が決定しているらしい。来年とのことである。来年は,「チェーンソーマン」,「鬼滅の刃」などもあることだし,アニメの続編が目白押しになりそう。

#「デデデデ」のアニメシリーズを観るためにネトフリに入るべきか...

2024年12月30日月曜日

光る君へ

 今年の大河ドラマも終わってしまった。

「光る君へ」

正直,放映が始まるまであまり期待していなかった。なぜなら,まず設定が雅な平安時代である。主人公が紫式部だという。あの平安時代になにを観て盛り上がるのか,疑問があった。そして「大河の華」である合戦シーンがないということも不安要素であった。

しかし,その期待は良い方に裏切られ,たいへん面白かった。少しは緊張感が途切れるかと思ったけれど,個人的にはずっと集中力をもって番組をみることができた。内容は主に,恋愛と政権闘争。特に政治に関わる権力争いが思いのほか面白く,「鎌倉殿の13人」の小栗旬ほどではないにしても,柄本佑演じる藤原道長が政治のために清濁を併せ飲んでいかねばならず,それを一年かけて描いていくのが大河ドラマの醍醐味であろう。

そうなのだ,大河ドラマでは一年をかけて人が変容していく姿が描かれる。それを視聴者である私たちは,共感あるいは反感をもって観察し続けていくのである。1クォーターの番組では得難い面白さである。

藤原道長だけでなく紫式部もそうである。ふたりは大人の恋愛,というかソウルメイト(あまり好きではない言葉だけれど,”深い絆でつながった同志”という意味で)の関係を続け,成長とともに変化し続けた。作品では紫式部は最後いったい何歳だったのだろうか?あっという間の生涯だった。清少納言や赤染衛門,和泉式部などドラマならではの設定,エピソードも面白く取り入れられており,飽きることなく観ることができた。そして,黒木華,瀧内公美らの愛憎劇にも打ち震えた。大石静の脚本が良かったということなのだろう。

そしてぜひ特筆したいのが劇中の音楽である。なんてシンフォニックな,いや協奏曲的なテイストの劇伴だっただろう。いずれの音楽もなにかの協奏曲の一部が抜き出されたかのように聞こえた。時にちょっと音楽が印象的すぎる気もしたけれど,本作品で音楽の素晴らしさは特に印象に残った。

結局総括すると,今年の大河ドラマもたいへん面白く,不安は杞憂であった。さすが大河ドラマ。そうそう失敗作はない。

来年の「べらぼう」に対しても実は相当な不安を持っている。あの時代のメディア王の話を私は見続けることができるだろうか。。。脚本は森下佳子。実は彼女の作品はほとんど観たことがないのだけれど。。。

2024年12月14日土曜日

アイアンマン3

 実は,第1作第2作に続いてアイアンマンの第3作目も観た。これはアベンジャーズ第1作目の後の話になっている(マーベルシリーズは時系列がややこしい)。

「アイアンマン3」(2013年)

本作では,ぞれまでにあまりにアイアンマンがヒーローになりすぎたためか,アベンジャーズにおける異星人との闘いのあとトニー・スタークが神経症になっているという設定である。この神経症は知り合った子供によって救われることになる。また作品はトニー・スタークの過去の傲慢な行動に関する因果応報の物語になっている。なにか,いかにもハリウッドらしいストーリーである。

私はシリーズを観ていてもあまり気にしていなかったけれど,敵組織である「テンリングス」と「マンダリン」の素性が明らかになっている。「マンダリン」の方はちょっとがっかりしたけれど。アカデミー賞受賞の名優ベン・キングズレーの無駄遣いだよ!と思った。「テンリングス」の方は,のちの作品「シャン・チー/テン・リングスの伝説」につながるのだろうか?

さて今作もアイアンマンのバーゲンである。一体何台のアイアンマンが登場したのか?とにかく多数のアイアンマンが敵の強化人間と戦う。観ていて疲れるくらいである。どれがどうなのか,よくわからなくなってくる。しかし,お金がかかっている映像だということはよくわかる。最後の結末で,ペッパーが解毒剤で治るというところがあまりにも安易なことも,まあハリウッド流のハッピーエンドなのだろう。

今作は,トニー・スタークの成長の物語という位置づけなのだろうけれど,これがどのようにアベンジャーズの話につながっていたのか,ちょっとそこがよくわからなかった。評価はちょっと厳しめ星3つ★★★☆☆。もう少しワクワクとドキドキが欲しかった。


2024年12月8日日曜日

モンスター

 テレビドラマ「モンスター」(フジテレビ,月曜22時~)を観ている。

主演は朝ドラ「ブギウギ」の好演が記憶に新しい趣里。今回は少しネクラでオタク気味な,しかしとても有能な弁護士役を演じている。彼女の頼りないバディの弁護士をジェシーが,そして趣里の父親である弁護士を古田新太が演じている。

何気なく第1話を観て面白いドラマだと思った。もっと軽いストーリーかと思っていたけれど,なかなかひねりが効いていて,結末も単純な性善説では終わらない。第1話では,カウンセリングを受けていた女性が自殺した話が描かれるのだけれど,最終的には罪には問われなかったけれどカウンセラーが自殺を教唆していたことが明かされた。最後に一刺しを忘れない怖いドラマである。

第2話以降は,そこまでの怖さはないけれど,やはり一筋縄ではいかないストーリーばかりで気楽に観ることができない作品になっている。また途中から登場した主人公の父親の弁護士役である古田新太の不気味さが気になる。彼の背景なども謎だし,主人公との因縁も明らかになっていない。これから終盤にむけての展開が楽しみである。

そして主人公を演じる趣里の演技が面白い。少し幼さを残している容貌と反対にやっていることは犯罪ギリギリの調査である。目のクールさがよい。笑っていてもどこか冷たさが伝わってくる。素直に明るく笑えない主人公の表情も,彼女の過去にその原因があるのだろう。一方で,ジェシーのドジさがその暗い雰囲気を中和してバランスをとっている。ジェシーと趣里が並ぶと身長差が大きさが際立って,二人のデコボコさを表していて魅力的である。

これからもドロドロとした話が続くのだろう。それでも最後は勧善懲悪で終わって欲しいと思っている。うまくいけば続編も期待できるのではないか。そんな可能性をもった作品である。

2024年12月7日土曜日

嘘解きレトリック

 テレビ番組「嘘解きレトリック」(フジテレビ,月曜21:00~)を観ている。

主演は,鈴鹿央士と松本穂香。探偵と「嘘を聞き分けられる」女の子である助手の事件簿である。原作は「花とゆめ」掲載の少女漫画らしい。そうした出自がよくドラマにも出ていて,ところどころに甘酸っぱい探偵と助手のエピソードが散りばめられている。私はもうそんな胸がキュンとするような年齢ではないけれど,中高生がみたら楽しめるのではないだろうか。

「嘘を聞き分けられる」能力は便利そうだけれど,この世界で生きていくにはつらすぎる能力であることは容易に想像がつく。その心の傷つき方をわかりやすく松本穂香がピュアそうに演じている。一方,たとえ嘘を聞き分けられてすぐに犯人がわかっても,みんなが納得できるような推理が必要である。そのストーリーを貧乏だけれど「できる」探偵が構築するのである。ここで鈴鹿央士がその探偵役をまるで王子様のように演じている。一種の探偵バディものだといえるだろう。

解決される事件のトリックは特に込み入ったものではなく(町の人たちのけんかをおさめるというような小さな事件も描かれる),ドロドロした話は少ないので,気楽に観れるのがこのドラマの良いところだと思う。決して悪い意味ではない。こうした気楽に観られる番組は世の中に求められているのだと思う。だから私も毎回飽きずに観ることができている。

しかし,このドラマの感心すべきところはセットである。舞台設定が明治or大正の架空の街なので時代考証が必要であるし,街並みだけでなく道行く人たちの風俗も当時を再現しなければならない。それがそれなりにできているのが素晴らしい。決してチープな感じはしないで当時の世界観をつくりあげている。少年少女向けの物語であるけれど,そのあたりで手を抜いていないことがドラマのクオリティを上げている。

月9の枠は少し年齢が上の世代向けのドラマが多かったけれど,今回のような中高生向けの作品もときどきやってもよいのではないか。若い人たちのテレビ離れが話題となっているけれど,こんな作品があれば少しはテレビに引き留められるかもしない。

シリーズ最終段になって少し怪しい雰囲気もでてきたけれど(ラスボス?),良い意味で気楽に楽しむことができる良作だと思う。

#鈴鹿央士もとうとう月9の主演をはれるところまできたか,と思うと感慨深い。広瀬すずがきっかけでスカウトされたというエピソードが素敵。

2024年12月1日日曜日

ヒルコ,そして諸星大二郎「妖怪ハンター」

 今,テレビドラマの「全領域異常解決室」が面白いのだけれど,主人公の神様たちの敵はヒルコということになっている。このドラマで初めて「ヒルコ」を知った人も多いのではないかと思う。

この「ヒルコ」は普通は神様に含めないことになっていたと思うのだけれど,神に含めることにすると,イザナギ,イザナミが生んだ最初の神ということになる。古事記では,確かイザナギ,イザナミの子作りの儀式の順番(女神であるイザナミからイザナギに声を最初にかけてしまった)を間違えてしまったからか,(成長が?)良くないといって海に流されて捨てられてしまったことになっている。

海に流されたこと,また「蛭子」が「えびす」と読めることから,海から恵みを与える神様として,えびす様と祀られているところもある。ただし,海から流れ着くものが人間にとって益する「恵み」だけであるとは限らない。へんなものもあるはず。。。このあたりは,諸星大二郎の漫画のテーマにもなっているので,興味のある人はぜひ読んで欲しいと思う。確かに「えびす」の恵みは「良いこと」ばかりではないのである。

さて,諸星大二郎の漫画には「ヒルコ」をテーマにした有名作品がある。それが,民俗学者・稗田礼二郎の活躍を描く「妖怪ハンター」シリーズで,ヒルコが出てくるのは記念すべき最初の作品「黒の探究者」である。この作品を読んだとき,どこか不気味さをもつ絵柄と考古学という組み合わせが強く印象に残って,その後,妖怪ハンターシリーズは私の大好きな漫画シリーズとなった。

実はこの作品は映画にもなっている。「ヒルコ/妖怪ハンター」(1991)。監督は当時「鉄男」(AKIRAではない)という作品で話題になっていた塚本晋也。そして主演はなんと沢田研二なのである。彼は「太陽を盗んだ男」みたいなシリアスな映画ばかりに出るのかと思っていたけれど,このようなB級ホラー(失礼。)にも出演するのかと驚いた覚えがある。今見るとチープな感じがする特撮が使用されているのだけれど,実は当時も「チープだな」と思った記憶がある。まぁ,和製のB級ホラーが好きな人はぜひ見て欲しい。全然怖くない。

ということで,「ヒルコ」はホラー作品の題材になるほど謎の存在で,あるところでは恵比須神であり,あるところでは人間に害なすものとして描かれている。「全領域異常解決室」でも神に捨てられた出自からか神々と敵対する存在になっている。今後,どのように取り扱われるのかわからないけれど,この作品で「ヒルコ」がメジャーになって,私的には少しうれしい。

#ネットで調べてみたら,なんと現在,この「黒い探究者」を無料で読めるらしい。諸星大二郎の世界へぜひ。

https://ynjn.jp/viewer/2241/108092

#漫画「妖怪ハンター」シリーズのどこかの作品で,主人公の稗田が沢田研二に似ているなどというセリフがあって,少し笑ってしまった。

#「妖怪ハンター」シリーズでは,もう一作品映画化されたものがある。「奇談」であり,こちらの主演はなんと阿部寛。東北のキリスト伝説が題材になっていて,ストーリーは面白いのでおススメ。

2024年11月30日土曜日

全領域異常解決室が面白い

 私は小学生から中学生にかけて,各国の神話が大好きで図書館で本を借りてはよく読んでいた。もちろん,我が国の神話も大好きで,「日本神話」に関わる本や,もちろん「古事記」なども読んだ。内容は今となってはすっかり忘れてしまったけれど。

そうした私が今期一番面白いと思っているテレビ番組が

全領域異常解決室」(フジテレビ,水曜日22時~)

である。

主演は,私が大好きな藤原竜也,そして最近すっかり実力派として認められつつある広瀬アリス。そのほか,安定の小日向文世,迫田孝也,ユースケ・サンタマリア,成海璃子などが出演。福本莉子もいい感じ。こうしたしっかりとした俳優たちが演じているのがなんと日本の神々なのである。

「全領域異常解決室」というのは,超常現象がからむ事件を取り扱う内閣直属?の捜査機関であるらしい。1~4話くらいまででは,「オカルトっぽい事件の謎を推理で明らかにする」というよくある話だと思っていた。その割にその推理は全然ゆるいもので,まったく合理的に解決できていないものだった。例えば空から人の遺体の一部が降ってきたのだけれど,それはファフロツキーズ現象である,なんてひどい推理で解決したことになっている。それも藤原竜也が真剣にその推理を披露するものなのだから,なんてドラマだと半分呆れながら見ていた。

それでも「ヒルコ」と呼ばれる犯人の首魁と思しき人との対決が面白そうだったので(誰がヒルコがわからなかったし),そして藤原竜也が好きなので見続けていたのだけれど,途中からとんでもない展開になって,もう目が離せなくなってしまった。なぜなら,全領域異常解決室のメンバーは全員神だったのである。

メンバーは確かに神様を連想させる名前だったけれど,全員が本当に神様だとは。。。藤原竜也が「私も神です」とセリフを言ったときには,イヤイヤそれは別の作品。。。と思ったし。そしてどんどん大国主命や月読命など,知っている名前の神が出てくる。神は何回も転生し,人間としてこの世界に生きているという設定が面白い。

後半になって展開が早くなってきていて,毎回毎回楽しみなのだけれど,あと2回で終了なのかな。。。日本神話が好きな私にとっては,終わるのが本当につらい作品である。

#ちなみに合氣道は,天叢雲九鬼サムハラ竜王大神の働きによる武道ということになっている

#神様を「一柱」,「二柱」と呼ぶことをこのドラマで初めて知った人も多いのではないかなと思う

#もうひとついうと,このドラマでも「月読命」は女性となっている。最近は女神であるという認識の方が一般的なのだろうか?確かに男性か女性かは古事記などでもはっきりと書かれていないようだけれど,昔は男神で描かれることが多かった。刀で誰か切ったのではなかったっけ?

2024年11月17日日曜日

アイアンマン2

 「アイアンマン」を観たあとに

「アイアンマン2」(2010年)

を観た。「アイアンマン」がヒット作となり,続編が作られた。だいたい続編というのは面白さがいくぶん減るのだけれど,この続編は1作目に負けないくらい面白かった。

敵役を演じるのがなんといってもミッキー・ロークなのである。私の世代だと,ミッキー・ロークは「ナインハーフ」でキム・ベイシンガーと主演を務めた二枚目中の二枚目俳優なのだけれど,そのあと紆余曲折があって活躍の話を聞かなくなって,そして「レスラー」で復活(観ていないけれど)。そのあとの「アイアンマン2」なのである。このミッキー・ロークの姿をみるだけでもこの映画を観る価値がある。

この敵役が味があるオジサンで,やはり天才技術者なのだけれど,落ちぶれた生活を送っていて,スターク家に恨みを持っている役なのだ。このオジサンの技術を用いた罠によってアメリカは混乱に陥ることになる。

本作からいっぱいアイアンマンの複製が出てくるようになって,残念ながら緊張感がなくなった気がする。闘いが大げさになるぶん,戦闘シーンが大味になったような気がする。でも,ニック・フューリーだけでなくナターシャ・ロマノフが登場してきたことが,話に広がりを持たせることになった(私個人の感想?)。

さて観ていて気になったことが2つ。

動力源であるアークリアクターの原料はパラジウムらしい。パラジウムは触媒として有名だけれど,動力源になるとは聞いたことがない。そしてプラチナと同じよう源な金属だから作品の中で問題になっていたようなトニーの命を縮める毒素を放出するとは思えない。未知のエネルギー源だから新しい反応なのか...

次に,トニーのトレーニングジムに木人があったと思う。材料は木ではなかったかもしれないけれど,ロバート・ダウニーJr.が練習しているという詠春拳の練習器具である。おー,と思った。ジャッキー・チェンの映画にも「少林寺木人拳」というものがあったし(詠春拳ではなかったと思うけど),詠春拳についてはロバート・ダウニーJr.が映画「シャーロック・ホームズ」でその技を披露している。木人が置いてあったのは彼のアイデアなのだろう。

ということで,ミッキー・ロークの魅力でこの映画の評価は,星4つ。★★★★☆(ちょっと甘めの評価かな)。

#そういえば主演のロバート・ダウニーJr.は日本嫌いだと思っているのだけれど,第1作目(?)の中で自家用ジェットの中で刺身と日本酒を薦めるシーンがある。日本を好きになればいいのに,と思った

2024年11月16日土曜日

アイアンマン

 アメリカでの国際会議に向かうフライトの中でいくつかの映画を観た。まず見たのが

「アイアンマン」(2008年)

久しぶりに観たのだけれど,主人公のトニー・スタークが思いのほか,技術者技術者していることに驚いた。彼は傲慢ではあるけれど,ある意味オタクな天才技術者だったのだ。

アイアンマンのギミックをはじめとして映画で描写されるいろいろなガジェットは,私たち技術者のオタク心を大いに刺激する。もう15年以上も前の映画ではあるけれど,観ていてワクワクした。アイアンマンを構築していく,Cut&Tryの過程も「わかる,わかる」と思いながら見ていた。たぶん技術者が見るアイアンマンと一般の人が見るアイアンマンは,その面白さが違うのだろうと思った。

兵器企業のトニー・スタークが,命を助けてくれた医者・技術者のインセンの自己犠牲によって考え方を変えるところも,単純なストーリーだけれど良かった。家族を語るインセンに家族がいなかった,というところが泣かせる。

こうした作品が,世界に良い技術者を多く生むことになるならばいいのに!と思わずにはいられなかった。

まずはマーベルの世界の始まりの物語。観なければ何も始まらない。

トニーの技術者魂に星4つ。★★★★☆

#グウィネス・パルトローの若さにびっくり

2024年11月9日土曜日

新型コロナウィルスに感染した話

 10月の下旬,アメリカで開催された国際会議から帰国すると,新型コロナウィルスにかかっていた。

土曜日に帰国して,火曜日あたりから体調がおかしくなった。熱は出ていなかったけれど,体中がしくしくと痛む。最初はコロナとは思わなかったけれど,人との接触を避けミーティングはオンラインで済ませるようにして,水曜日には病院に行く。検査を受けると,あっさりと新型コロナウィルスに感染していることが判明した。カロナールを10回分もらってあとは自宅で療養をすることになった。

私は独り暮らしなので,家族に感染する心配もないけれど,そのかわりだれも世話もしてくれない。ただ部屋には,カロリーメイトが10個以上,そのほかカップ麺やバナナなどがあったので,1週間くらいは外に出なくても生きていけそうだった。実際は,新潟に住んでいる母と妹が2日目くらいに食糧を差し入れてくれたのだけれど。

食事はそんなこんなで食べることはできたのだけれど(食欲もあった),困ったのはタンパク質が取れないこと。ヨーグルト系の飲料やチーズなどは差し入れをしてもらったのだけれど,肝心の肉がない。肉なしのベジタリアンのような食生活がつらかった。「タンパク質を」,と探して重宝したのが,「冷凍えだまめ」。電子レンジで温めて食べてたいへん美味しかった。植物性であってもタンパク質はタンパク質なのだ。

熱は38度台前半までしか上がらなかったので大したことないと思っていたのだけれど,身体がとにかくつらかった。体のフシブシが痛みもするし,疲労感もひどい。立っていることがつらい。咳も少し出始めていた。そして,なにがつらいって,よく眠れないこと。体を休めたいのだけれど,眠れないから休めない。どんどん疲労が蓄積していくような気がする。この2~3日が本当につらかった。

しかし,3日もすると,ウソのように体温が下がって急に楽になる。夜もぐっすりと眠ることができるようになった。体力も少しずつ回復することになって,再び動けるようになった。3連休もあったので,比較的良かったのだけれど,仕事だけは何も片付いていない。今週泣きながらたまった仕事を処理し続けている。私が寝ている間に仕事をしてくれる「靴屋の小人」はいないのだと思い知った。

回復してしばらくしたある夜にチョコレートを食べた。味がおかしいことに気づいた。チョコレートだとはわかるのだけれど,味が塗ったりと平坦でおいしくない。。。ドラえもんの「おすそ分けガム」を食べたようだ。元の味が変質している。

そして味覚の変化は今も続いている。食べ慣れたカロリーメイトも味が以前と違うように感じられる。コロナの後遺症なのだろう。しばらくは,この平坦な味の世界で生きていくことになりそうである。

2024年10月6日日曜日

伝説のスター・倉田保昭を見た!

 長野市を訪れた際に娘に薦められて古い映画館を訪れた。長野相生座・ロキシー。見るからに古い映画館で,昭和の時代の映画館ってこんなだったよなぁ,と思わせる外観である。もしも昔のままだったら館の座席は,ちょっと固めの合成皮革張りの木製の椅子であちらこちらが破けて中から汚れた黄色いスポンジがはみ出しているに違いない。もちろんたぶん座席シートは何度も綺麗にされているだろうけれど。。。

そして映画館入り口を入ると右側の暗がりの中にに売店があって,映画のパンフレットと一緒にスナックやラムネ,そしてアイスが売っている。売っているのはちょっと愛想がわるそうな感じの売り子の制服をきた女性。そんな想像をしてしまうような映画館である(あくまでも想像です)。

そんな映画館の内部を入り口から少し首を突っ込んで眺めてみたかったけれど,ちょうど上映が終わった時間かなにかで,中からぞろぞろ人が出てきたので,入りそびれた。そこで映画館の正面に立ってみていると,少し派手なシャツに白いジャケットを着た一人のカッコいいおじいさんが出入口から現れるのを見た。

まさか,あの人では?なぜこんな長野に?私は興奮して身体が小さく震えた。私はなんども見直して確認した。しかし,その人はやはり伝説のアクションスター・倉田保昭だったのである。

すぐにネットで調べて「帰ってきたドラゴン」の上映とともに倉田氏のトークショーが相生座で開催されていたことを知った。トークショーに参加した人たちと映画館の看板の前で一緒に写真を撮っている。「すごい,すごいよ」と興奮したのだけれど,トークショーに参加していない私としては近くによって一緒に写真を撮っていただくこともできず,ただ遠巻きに眺めるだけだった。しかし,本当に感動した。あの和製ドラゴンを直に目にすることができるとは。。。

残念ながら若い人たちは倉田保昭の偉大さを理解していないので,私の興奮がわからないらしい。そこで研究室の学生に,「ブルースリーの友人」。「ヌンチャクをブルースリーに教えた(と言っている)人」だけでなく,「Gメン75」で香港カラテシリーズではあのヤンスエ(「燃えよドラゴン」で「ボロ」と呼ばれていた筋肉ムキムキのアクション俳優)とも何度も戦っている世界的な俳優だと説明したのだけれど,全然ピンと来てくれない。時代劇だって多くの作品に出演している。「影の軍団」では千葉真一のJACとの共演にしびれたなぁ...とにかく素晴らしいアクション俳優なのだ。

若い人たちの反応を見ていると,倉田氏の評価は実績に比べあまりにも低いような気がする。御年78歳らしい。ネット検索の画像をみるといまだにハイキックを蹴っている姿を見つけた(私はとうに蹴れなくなっている)。まだまだ現役,ぜひ後進を育てていって欲しい。特に最近アクション俳優が少なくなっているように思う(日本だけでなく世界的に)。ぜひ彼のあとを継ぐような次のスターが出てきてほしいものである。


2024年10月5日土曜日

ミッションインポッシブル/デッドレコニング PART ONE

 トム・クルーズの作品は,「トップガン・マーベリック」以来の鑑賞。ミッションインポッシブルの最新作も,またトムが全力で走っていた。

2時間43分という尺の長さを感じさせない,スリリングな展開につぐ展開ではあった。しかし,情報量が多すぎてちょっと理解が追い付いていかなかった。私の老化のせいだろうか。。。

今回は「エンティティ」と呼ばれるAIに関係する鍵がカギ。適役のガブリエルとハントとの因縁もよくわからない。CIAとIMFの関係もよく理解できていない。ただそうした背景をよく理解できなくても,アクションだけで満足できるのがこの作品の良さである。

しかし,撮影時トムはたぶん50代後半,60歳近くだったはず。アクションは相変わらずすばらしい。それを考えるだけで,私もまだまだ頑張らなければという気にさせてくれる。

私の評価は星4つ★★★★☆。PART TWOに期待。

#トムが走れなくなったら,誰がハリウッドのアクション映画を継ぐのか。。。

2024年9月29日日曜日

イコライザー THE FINAL

 イコライザーシリーズ最終作「イコライザー THE FINAL」を観た。前2作に感じられたデンゼル・ワシントン演じる主人公マッコールの不気味さ,怖さは薄らいで,「よい爺さん」という雰囲気になっていた。

相手がイタリアシチリアのマフィアということもあって,展開が予想できあまりヒリヒリした感じはなかった。

またデンゼル・ワシントン自身も,たぶんこの映画を撮影していたころは66,67歳くらいなので,この好々爺を演じるのにちょうどよく,「ザ・ウォーカー」みたいなアクションはない。

ただシチリアの街並みはきれいだし,展開が予想されるということが逆に安心感を与えて,これが最終作になるのだという納得感はあった。

私の評価は星3つ。★★★☆☆

2024年9月28日土曜日

宝蔵院胤栄の摩利支天石

 奈良を訪れた際に夕方の散歩の途中,なにかいわくのありそうな石を見つけた。碑に「宝蔵院胤栄守り本尊 摩利支天石」とある。早速調べてみると,宝蔵院流槍術の創始者 胤栄が守り本尊摩利支天として祀った石であるとのことだった。

私は「おー,宝蔵院胤栄ゆかりの石なのか」と感慨深かったのだけれど,一緒にいた学生はあまりピンとこなかったようだった。

たしかに,「宝蔵院流槍術」といっても現在ではあまり知られていないかもしれない。十文字鎌槍とかいっても,最近ではほとんど見ることがない。以前は宮本武蔵のドラマなどがあると胤栄ではなく日観や胤舜との絡みがあって,そこで知る機会があったりしたのだけれど(私もそうだった),最近ではめっきり知名度が低くなっている。

胤栄は猿沢の池に映った三日月をみて,十文字鎌槍を編み出したと言われる。槍といえば宝蔵院といわれるまで有名だったらしい。吉川英治の宮本武蔵の中では,日観という老僧が武蔵の殺気に応じて殺気を返したために武蔵がそれを感じて飛びのいたという話が出てくる。市川海老蔵が主役だった宮本武蔵では,たぶん長門勇が日観で得意の槍術を披露していた。役所広司版だと誰が日観を演じていたのだっけ,覚えがない。魔界転生の中では,転生した化け物の一人が宝蔵院胤舜だった(沢田研二の映画では,室田日出夫が演じていた。槍で立ち回りをするのだけれど,早々に柳生十兵衛に切られてしまうのだけれど...)

今は宮本武蔵のドラマなどないから,そんな僧が修練した槍術があったなんて知らない人が多くなったのだろう。しかし,私はこの石をみて久しぶりに宮本武蔵の小説・ドラマを思い出し,なんとも言えない感慨に浸ったのである。

宝蔵院の摩利支天石。なぜこの石を祀ったのかは説明がなかった。


2024年9月23日月曜日

Shrink ー精神科医ヨワイー

 人に薦められて,NHKのテレビドラマ「Shrink ー精神科医ヨワイー」を観た。たいへん印象に残る良い作品だった。薦められたのが最終回の再放送のタイミングだったので,この作品の前2回を観ることはできなかった。しかし,第3話(最終回)を観ただけでも,「良いなぁ」と思う作品だった。

中村倫也演じる精神科医弱井と土屋太鳳演じるその看護婦が精神科に訪れた人たちに対応していくドラマ。第3回目は「境界性パーソナリティ症」の女性の話だった。女性は決して特別な人ではなく,私たちの日常の中でよく見かける性格の人である。パーソナリティ症のために自分を肯定できずいつも他人を振り回してしまい,周囲から人がいなくなってしまうことに悩んでいる。この女性を演じるのが白石聖。最近こうした難しい役を演じるのがめっきりうまくなった女優さんだと思っているのだけど,今回もどん底から少しずつ前向きになっていく過程をうまく演じられていて素晴らしかった(以前から応援しているのだ。「恐怖新聞」,「ガールガンレディ」という特殊な作品も主演している)。また彼女を支え,しかし共依存になっている男友達を細田佳央太が演じていてこれもまた良かった。細田佳央太は若いけれど実力ある俳優だ。期待している。

ということで女性が病院を訪れ,認知行動療法などで前向きになっていく過程が丁寧に描かれていてたいへん好感が持てた。もちろん,精神科医を演じる中村倫也は適役で,素晴らしかった。

そしてなにより素晴らしいのはこの作品自体が,患者にやさしく寄り添うように作られていることである。調べてみると,漫画が原作であるらしい。原作者はよほど取材をきっちりされたのだろうと思う。

こうした患者で大変なのは,まず「病院に連れていくことが難しい」ということである。日本では精神科に行くことにかなり偏見があって,「自分は病気ではない」「自分は大丈夫」といって拒否する人が多い。あるいは「元気がなくていけない」「怖くて行けない」という人も多い。このハードルが非常に高い。

次に「精神科医,カウンセラーの個人差が大きい」という問題がある。たとえ医師免許を持っていても,あるいは臨床心理士などの資格をもっていたとしても,その技量の差は大きいと感じる。また患者との相性があるため,「あわない」場合にはすぐに患者が拒否し始めてしまうのだ。

私はカウンセリングを受けることに(金銭的な問題と要する時間の問題を除いて)全く抵抗がなく,これまでに複数のカウンセラーに何度もカウンセリングを受けてきた。私自身は幸いまだ病気にはなっていないけれど,彼らと話すことで問題は整理されるし(特に問題がなくともカウンセリングは有益だし),話すこと自体が楽しい。またそのテクニックも勉強になる。私の場合,運が良かったためか,ほとんどのカウンセラーは良い人が多かったと思うけれど,複数の人の話を聞いているとみんながみんなそうでもないことに気づく。良い医師やカウンセラーにめぐりあうことは,その人の将来を決める大きな要因なのだと私は思っているけれど,現状では運でしかない。もちろん評判を調べるのは大切だけれど。

このShrinkという作品を観て,ひとりでも多くの人が病院やカウンセリングに相談に行くようになることを願っている。この作品にはそうした人たちの背中をそっと押すようなやさしさがあった。モチベーションを与えるというだけでもこの作品は意味が大きい。少しでも偏見が減って相談にいくことへのハードルが下がると良いと思う。


#アメリカでは,できる人はカウンセリングを受けるものなのだ。マフィアのボスでさえ精神分析医に相談に行く。そんなコメディ映画もあるくらいだ。「Analyze Me!」マフィアのボスをロバート・デニーロが演じている

2024年9月22日日曜日

伏線が回収された物語のきれいな結末。しかしそれがベストなのか。

 今期は「降り積もれ孤独な死よ」というテレビドラマが面白かった。いろいろな謎が次々と提示され,新しい事実が明らかになって物語が進んでいく。謎が謎を呼び,展開も加速する。そしてそれらの謎を回収していく最終回。そしてみんなが言う。「きれいな結末だった」と。

しかし,どうだろう。物語は謎と伏線を回収して,きれいな着地点に降りることがそんなに重要なのだろうか。

この「降り積もれー」も最初は謎がどんどん増えていき,物語を広げていく展開だったから,話の広がりに私はワクワクしていた。事件とその背景はますます複雑化していき,「この先,いったいどうなっていくのだろう?」と思いながら見ていた。物語のスケールの大きさを感じながら毎週毎週ドラマを見ていた。

しかし,最終話に近づくにつれ,話はこれまでの謎と伏線の回収に終始する。それはある程度仕方ないのだけれど,物語のスケールが急にシュリンクし始める。謎は明らかになっていき,話の結末に収束していく。しかし,それとともに物語のスケールは小さくなり急に魅力が半減していった感じは否めない。仕方ないけど私は強く残念に感じるのである。

今年観た映画「デッドデッドデーモンズ デデデデ デストラクション」にも似たような感想を持った。前章では,そのスケールの大きさに衝撃を受け,この先どうなってしまうのだろう?という気持ちでシーズンエンドを迎えた。後章は,伏線が回収されきれいな結末だったのだけれど,前章で感じたワクワク感は明らかにシュリンクしていた。

謎と伏線は,そこまで解明されて回収されなければならないのだろうか?たぶん現在は,謎をそのまま残して物語を終了するとあちらこちらから批判される世の中なのだろうと推測するのだけれど,それによって作品のキラキラ感,ワクワク感,そしてスケール感が損なわれるのはたいへんにもったいないと思う。

謎は謎のまま残されたっていいじゃないか。そんな作品,昔からいっぱいある。「結局あれってどういう意味だったのだろう?」「あれは誰が行ったのだろう?」などと疑問を抱えたまま物語がエンディングを迎えたっていいんじゃないだろうか。魅力を維持して終わる方がずっと良いのではないか。

ディビッド・リンチだって,村上春樹だって,作品の中で謎がすべて解明されたわけではないじゃない。スタンリー・キューブリックの「シャイニング」だって,リドリー・スコットの「ブレードランナー」だって謎が残されたからこそ今だって議論が絶えないのだ。そんな終わり方だって全然いいじゃないか。

「降り積もれー」も「デデデデ」も美しいエンディングを迎えたけれど,そうでなくたって良かったと思う。謎は謎のまま残し,世界の不確定性を示して終わったってよいじゃないか。世の中の「伏線回収」への圧力に負けず,そうした魅力的な作品が今後増えればよいと切に思うのである。

2024年9月21日土曜日

志賀直哉旧居にて「志賀直哉」を堪能する

 9月初旬,奈良春日野国際フォーラムで開催された国際会議のあと,奈良公園の中にある「志賀直哉旧居」を訪問することができた。昭和初期に志賀直哉自身が設計し建築した半和風・半洋風な邸宅なのだけれど,現在は奈良学園のセミナーハウスとなっている(見学可)。

志賀直哉の美的センスが感じられる美しい建物で,あちらこちらに志賀直哉自身のアイデアが実現されていて趣がある。たとえば,柱もきれいに切り出された木材を使うのではなく,いくつかの面は野性味を残したものが使われていたり,それでいて「葦」を使った天井や,竹を編んだ素材を使った天井などの洒脱なつくりになっていて,各部屋を見て回って発見するのが楽しい。

当日は,館長にご案内,解説いただいたので,それらの工夫を見逃すことなく楽しむことができた。中でも一番驚いたのは志賀直哉の設計ということなのだけれど,彼は別に建築家ではないので,デザイン通りに家を作ったら畳や襖の大きさが定形ではなくなってしまい,現地合わせでそれらが作られているということである。確かに同じ部屋でも右面と左面の襖のサイズは違っていた。こんな設計は普通許されないものだろうけれど,財力にものを言わせて成立させてしまっている。驚くというよりも呆れてしまった。

いくつも志賀直哉の心遣いが感じられて,非常にリラックスして過ごすことができる住まいなのだけれど,もっとも素晴らしいのは窓から見える若草山,三笠山などの風景である。四角い窓で切り取られた景色は,まさに絵画のように美しい(って,凡庸でダサい表現だけれど仕方がない)。二階の角部屋は左側の窓からは若草山,右側は三笠山を同時に切り取って見ることができ,まだ夏の奈良の緑を大いに楽しむことができた。志賀直哉も,若草山焼きの際などには近くに住んでいた多くの弟子を招待して,この部屋から景色を楽しんでいたとのことである。

一方,一階にある彼の書斎の机もペンが机から落ちないような工夫がされていて面白かった。彼が「暗夜行路」を書いたのはこの机かと質問したのだけれど,残念ながら執筆時は暑い季節で二階の涼しい部屋で書いていたのではないかとのことであった。

書斎の机。縁取りがされている。

ここは高畑サロンと呼ばれ多くの人が訪れたそうで,会合用の大きな洋室も準備されている。広い中庭に臨む石張りのサルーンで,大きなテーブルを照らす天井からの陽光が気持ち良い。端には3つの円を重ね合わせたような不思議な形をしている机もあって,そこに座って眺める庭の風景も心をなごませる。

不思議な机。少し気取って庭を眺めるの図。

実はこの旧居を訪ねるのは今回で3回目なのだけれど,また来たくなってしまう魅力に溢れた建物になっている。この旧居を訪れることによって志賀直哉という人の「とんがり具合」を知ることができるのが一番の魅力である。ぜひおすすめしたい。

2024年9月16日月曜日

降り積もれ孤独な死よ

 今期ずっと見ていたテレビドラマ「降り積もれ孤独な死よ」が終了した。とにかく悲惨な事件ばかりが発生し,その裏には親による虐待があって,見ていてたいへんつらい内容だったけれど,次々と違う犯人が出てきて毎回話が展開しているので,最後まで飽きることなく観た。あまり話題になっていないのは,やはりつらい事件ばかり起こるせいだろうか。個人的には素晴らしい作品だと思った。

なんといっても私は成田凌が好きで彼が出演する作品に「はずれ」がないので(岡田将生もそうだけれど),このドラマも観始めたのだけれど,やはり「あたり」だった。彼が演じるダメな男というのは,マッチョでもなく,かといってクールすぎず,色気があって不安定。これがちょうどいい。なぜか惹かれるんだなぁ。

今回の発見は,吉川愛。これまで知らなかった女優さんだけれど,今回は謎の女性を演じていて,それが良かった。この人のおかげでこのドラマは締まったような気がする。あとは久しぶりの黒木メイサ。クールな女性上司役にピッタリ。そしてもちろん小日向文世。この人は善人役と悪人役どちらも素晴らしいのだけれど,今回はブラック側の配役(本当は善人だけれど)。終わってみれば,この人の他に灰川十三役を演じることができる人が思い浮かばない。それほど適役だった。

ということで配役は素晴らしかったのだけれど,やはり脚本が良かった。飽きることなく毎回,次回が見たくなるように物語が書かれている。オリジナルの漫画とは異なっているとのことだけれど,これはこれで成立している。きれいに物語が終結した(このことについては思うところがある。またいつか書きたい)。

テーマは重かったけれど,良いドラマだった。私の心が少し変わった気がするのは,その証拠なのだと思う。

2024年9月15日日曜日

スーツケースを新調する。スーツケースは軽さが正義

 新しいスーツケースを買った。

先週の土日に奈良で開催された国際会議の帰り道,歩道を引くスーツケースのキャスターがどうもこうも重くなった。引きずって歩くのがつらい。仕方がないので片手でスーツケースを少し持ち上げながら歩いていたけれど,30度を越える気温の中,10 kgを越えるスーツケースを右手で抱えるのは非常に酷だった。

「もういい!」とさすがに声をあげて,長岡への帰り道,途中でスーツケースを新調することに決めた。とりあえず大阪に行く!と決めて,なんとかJR奈良駅まで歩いて大和路快速に乗った。

まぁ,このスーツケースは10年以上は余裕で使ってきたし,ずいぶんと前からキャスターはボロボロでいつもロックがかかっているようだったし,内張の布もはがれ始めていた。それでもかなり高価だったので,大事に使ってきたのである。

スーツケースは,サムソナイトのコスモライトシリーズのもの。このモデルが発売されたときには,本当に驚いた。いままでと全く異なる次元の軽さ,ポリカーボネートのようなプラスチックの丈夫なボディ,そしてスタイリッシュなデザイン。購入した時には,周りに自慢して歩きたいくらいだった(実際はしていない)。

大阪についてショッピングビルのサムソナイトの販売場所に行き,スーツケースを新調したい旨を伝える。すると女性店員さんが,私のスーツケースに驚いていた。「これって,コスモライトの初期のモデルですよね」「そうなんです。とうとうキャスターがどうにもこうにもならなくなって...」

新調するスーツケースは,後継モデルであるシーライト。私が使ってきたものよりも少し大きなサイズになっている。私が使ってきたモデルで不満であった,(1) シングルハンドル,(2) シングルキャスターはそれぞれダブルに改善されていて,より扱いやすく,よりスムースになっている。(3) ケーストップにもハンドルがついたし,そしてなにより,(4) 相変わらず軽い!そうスーツケースにおいては,とにかく「軽さが正義」なのである。店員さんも「私もふたつスーツケース持っているのですけど,どちらもシーライトなんですよ。一度使うと他のケースは重過ぎて...」と話していた。

新しいスーツケースにその場で荷物を入れ替えて,古いケースの処分をお願いする。ケースを渡そうとすると,「写真はいいですか?」と言われた。そういえば,このケースとはいくつの国を一緒に回っただろうか?そう思うと急に愛着が湧いてきた。スマホで写真を撮って,ケースにさよならをした。少し寂しさもあるけれど,新しいケースとの新しい門出がうれしい。今度予定している海外旅行でも不安なく活躍してくれるだろう。

これから何年この新しいスーツケースと一緒に旅をするのだろう。長く付き合えるGearであって欲しい。

10年以上お世話になったスーツケース


#昨年,キャスターが壊れたスーツケースとは違うものです

2024年9月14日土曜日

最短距離ばかりを選んでいるといつか行き詰まる

 世の中,「効率化」が進みすぎて「この先,これで大丈夫か?」と思うことが多くなった。学生のみなさんの行動を見ると,コスパ,タイパばかり気にして,常に「最短距離」,「最小労力」で目的を達しようとしている。

それはある意味正しくて,正義である。特に私のような工学者は,より効率的に,より短時間に,より低コストで,ということを目的として研究をしている。そして工学の分野だけでなく,世の中全般にそうした目的は「正義」である。予算だって,労働力だって,無駄を省くことが仕事においては第一義的に正しいとされている。

しかし,「教育」,「学習」という面では,「最短距離」,「最小労力」がいつも正しいとは限らない。「最短ではない」,「最小ではない」というやり方,道すじでしか学習できないことが多くあるのだと思っている。一般的に「失敗」と呼ばれる経験であっても,そこから学ぶことがあり,それが次に活かされれば,それは無駄ではなくなる。逆に,そうした失敗をしなければどこでその知見を手に入れるのだろう。

学生は幼いころから,テストのために短時間で正解にたどり着く方法だけを効率的学ぶようにトレーニングされている。そうした教育の弊害なのだろう。

昔は本を読むだけでは本当の知識は得られないと言われた。知識だけだと「畳水練」だと笑われたものである。しかし,今はその本を読む時間,労力さえも惜しまれる。ネットなどで「最適なやり方」だけを学ぶだけである。それは本当に身銭を切って手に入れた技術と言えるのだろうか。

小説や映画だってそうである。時短動画やあらすじ動画を見て理解した気になる人がいるらしい。しかし,小説や映画の本当の面白さはメインの物語だけではない。各登場人物の描写,しぐさに人の心の機微が現れている。その機微を見逃しておいて,この作品は面白かったなどというのは違うのではないかと思う。作品の情緒・雰囲気は言葉と言葉の行間に漂っている。それをタイパよく感じることはできない。

もちろん学生の研究でもそうである。自分でいろいろ試し,苦労するからこそ,知識が定着し,スキルを身に着けることができる。そのうえ,他人が示す最短距離ばかりを進んでいて,どうやって新しいアイデアを生み出そうというのか。

「最短距離」,「最小労力」がいつも正しいとは限らない。遠回りすることによってはじめて気づくこともある。みんなわかっていることだけれど,今は社会がそれを許さない。若い人たちはどうなっていくのだろう。

2024年9月1日日曜日

怖い絵本

 「怪談えほん」シリーズ(岩崎書店)というものがある。私はもともと絵本が好きだから,最初にこのシリーズを図書館で見つけたときは,たいへん素晴らしい!と喜んだものである。なぜって,子供の頃にこうした恐怖を体験するのは実は非常に大切で,この世界には「恐ろしいもの」「悪いもの」「悪意があるもの」「わからないもの」が存在することを理解することができるから。

監修は怪談のアンソロジストとして有名な東雅夫,そして作者(画家も含めて)には,宮部みゆき,恩田陸,京極夏彦,小野不由美,佐野史郎,伊藤潤二など超一流が担当している。たぶん各作者は腕によりをかけて「怖い絵本」の競作となるだろう。これがワクワクしないでいられようか。

刊行が始まった2011年から案の定たいへんな話題になって,現在では第3期まで全部で13作出ているらしい。私はどれも読んでみたいと思っているけれど,そのうちの数作しか読んでいない。しかし,このシリーズは,NHKのETVで「怖い絵本」として不定期にドラマ化されていて,それを見るのが楽しみになっている。NHKのドラマは10分ほどなのだけれど,怪談同様のうまい語り口で絵本がアニメとなって語られる素敵なドラマである。ドラマの方はすでに20作以上つくられているから,ドラマ化されているのは「怪談えほん」シリーズだけではないのだろう。

まず絵本のアニメ化が素晴らしい。原作の絵が動いているように作られていて,それが世界観を壊さずに怖さだけが増幅されている。そして,ドラマパートも素晴らしい。主人公(絵本のパートの朗読)は,だいたい若手の俳優さんたちであり,こちらも作家と同様に各人で演技を競っているように思える。このドラマパートの演出も凝った作りになっていて,見ていて感心することが多い。

このドラマを一緒に見ている親子は幸せだなと思う。ちょっと怖いという体験を一緒にできることは,親子の絆をたぶん強くしているのだろうから。こうした優れたコンテンツがもっとみんなに知られればよいのになぁと切に思う。

2024年8月31日土曜日

降り積もれ孤独な死よ

 テレビドラマ「降り積もれ孤独な死よ」を観ている。主演の成田凌が好きだからということもあるが,物語自体がたいへん面白いからである。

本作品は殺人事件を追うミステリードラマなのだけれど,その裏には「親から虐待を受けた子供がその暴力の連鎖を断ち切ることができるか」というかなり重たいテーマがある。私はこうした重い話が苦手なのだけれど,ストーリー自体は毎回毎回大きな展開があって次はどうなるのだろうと気になってしまって結局見続けている。

まず事件の始まりが,子供たち13名が部屋に閉じ込められて餓死させられるところから悲惨である。その子供たちは親からの虐待から逃れるため,山の離れた屋敷に連れてこられたという,そもそも悲しい設定であるのに,部屋に閉じ込められて餓死させられてしまう。その話だけでもつらいのに,生き残った子供6名のうちひとりが成田凌の弟であって,成田凌自身も虐待が原因なのか,暴力衝動によって連続傷害事件に関わっている。そして残された6名も次々と殺されていく。とにかく話が暗い。そしてどんどん謎が深まっていく。

キーとなっているのが生き残ったひとりの女性なのだけれど,その女性のなんとなく宙ぶらりんな性格を吉川愛がよく演じていて,これもかなり良い印象である。

このドラマの特筆すべきところは,登場人物の誰もが闇を抱えているということである。親に虐待された子供,虐待してしまった親,親に捨てられた子供,そしてウソによって友達を自殺に追い込んでしまった女性記者。どれもだれもが重い。こうした悲しみを連続しておこる殺人事件を通して描いていく。それがすごい。最終的にこのドラマは何を描きたいのだろう。。。

正直にいうと,子供の虐待のテーマはつらいし,人がどんどん死んでいくのも悲惨で,こうしたドラマを見続けるのは私もかなりつらいのだけれど,それでも次の展開が気になってみてしまう。毎回新しい展開があり,全然飽きない。それだけ脚本が素晴らしいということなのだろう。この悲しい物語がどのような形で決着されるのか,最後まで見届けようと思っている。

2024年8月25日日曜日

反復練習の意味

 私は「努力」は嫌いだけれど,「稽古」は大好きである。つらいと感じることも多いけれど,合氣道が好きなので稽古は大好きなのである。

「努力」はしたくない,と私は言っているけれど,決して反復練習を否定しているわけではない。反復練習にはそれはそれで「手続き記憶の深化」と「量質転化」の意義があると思うのだ。

私の考えでは,合氣道においては,「技は正しく行えば誰でもできる」と考えている。「バーベル100kgをあげなければできない」とか,「100mを12秒以内で走らなければできない」という技はない,と思う。そもそも武術の技というものは,肉体的な制約とは関係なく行うことができるものでなければ意味がないと私は信じている。すなわち「強弱」ではなく「正誤」が大切なのである。(そのため,「技ができる」ことと「強い」ということは違うことだと思っている。このことについてはいつか書きたい)

ただし,いついかなる場合においてもその技を正しく行うことができるためには,たとえば自転車の乗り方を身体が覚えるように,無意識に身体が動くように身につけなければならない。すなわち「手続き記憶」である。その深化のためには反復練習が必要であると思う。

一方で,空手における「突き」の反復練習は「量質転化」を引き起こすために必要であると考えている。初めて「突き」を習った人の「突き」は,外から見ていて不安定そうであり,どうも定まっていない。一方,熟練者の「突き」は見ていて気持ちがいいくらいに「決まっている」。同じ「突き」であるのにそこには大きな隔たりがあり,長い稽古期間においてどこかで「量質転化」が起こっているのである。この「量質転化」のためにある程度の反復練習,すなわち「量」をこなす必要がある。何万と「突き」を繰り返すことによって,それを深化させ,必要なタイミングで必要な威力で行うことができるようになるのだ。「千日の稽古を鍛とし,万日の稽古を練とする」という心構えが大切である。

それでは反復練習に必要なものはなにか,というと「飽きずに工夫しながら稽古を続けるマインド」である。そう,反復練習の敵は,すぐに心身が疲労して,ただ動作を漫然と繰り返すだけになってしまうことである。それを克服し,ずっと集中力を維持して稽古を継続するためには,やはり「好き」になることしかないと思う。まさに「好きこそものの上手なれ」なのである。

2024年8月24日土曜日

努力は嫌い

 私は「努力」という言葉が苦手で,正直あまり好きではない。自分は「努力」をするかといわれれば,確かに努力はしているけれど,決して好きではない,いやはっきりと嫌いである。

なぜ「努力」が嫌いかというと,そこにはまずどこかで「嫌なことをやっている」というニュアンスが含まれるからである。

もちろん,私だって仕事や合氣道において集中してタスクをこなしたり,反復練習したりする。しかし,それらはなるべく「努力」ではなく,「好きだから」という理由で行うようにする。そのために「そのタスクや稽古が好き」となるようにマインドをうまく制御するのだ。「イヤイヤ」感をどれだけなくせるか,ということが大事なのである。「イヤイヤ」感を持ちながら仕事や稽古をすると,どこか心の中でブレーキをかけながら行動をしていることになる。それはなんて非効率なことだろう。

もちろんタスクは好きなものばかりではない。そんなときはそのタスクの先にある大きな目標を考え,そのために必要なのだと認識してから,それを粛々と,淡々とこなしていくのである。あるいは給料のためと思って,「イヤイヤ」感を少しでも軽減してタスクに取り組むのである。そうすればそれは決して「努力」ではない。「当然行うべきこと」なのである。

「努力」が嫌いなもうひとつの理由は,その言葉にどこかで「報われることを目的としている」ニュアンスが含まれているからである。多くの人も言っているけれど,「努力は必ず報われる」とか「努力は全く無駄ではない」ということは,私も完全に間違いだと思っている。それはもちろん報われることもある。しかし,すべての努力が報われるかというとそれは絶対ない。そして「報われる」ことを前提としている努力は,その動機のためにどこか不純で,それが報われなかったときに,失望,絶望,恨みなどの負の感情が心を侵食する。それが大嫌いなのである。では「努力」が報われなかったらその物事をあきらめるのか?ということになる。

心に負の感情を抱えながら行う「努力」ではなく,「好きだから」あるいは「それが必要だから」ということで物事に取り組むことができれば,たとえそれが報われなくても,それがたいへんにつらいことでも心の中の達成感を得ることができる。そんな風に思うので,「努力」はしたくないのである。

#科研費などの申請書には当然のようにエフォート〇〇%などと書き込んでいるけれど。

2024年8月18日日曜日

自分の人生に大きな影響を与えたものはなんですか? (2) ~猫の妙術~

 「自分の人生に大きな影響を与えたものはなんですか?」という質問の回答を考えていて,意外に私の人生・考え方に大きな影響を与えている物語があるということに気づいた。

それは,「猫の妙術」である。Wikipediaによれば成立は18世紀初めらしい。大ネズミを退治するために,近所のいろいろな猫が借り出されてくるのだけれど,ことごとくうまくいかない。しかし,最後にのっそりとした古猫が登場しあっさりと大ネズミを捕えてしまう。その夜,猫たちがあつまり,各猫がおのれの達している武術の境地を披露しつつ古猫に教えを乞うという話である。

初めて私がこの話を知ったのは,たぶん大学時代によんだ大森曹玄の「剣と禅」に紹介されていたからだと思う。最後の古猫の話は荘子の「木鶏」に似ていて,たいへん興味深かった。その後も,甲野善紀氏の「剣の精神誌」にも同作品が詳しく紹介されているのを読んだりして,いろいろと考えるところがあった。

Wikipediaの解説を見ると,「武芸者の質も落ちた為に、分かりやすく書かれた兵法書」とあり,がっくりとするが,確かにわかりやすく漫画チックに書いてあるのが面白い。あちらこちらの流派の武術の伝書にこの話が含まれていたという話もあるから,それなりに定評があったものだとは思われる。

私も,確かに「ありがたい」と思って読む文章ではなく,漫画のように読んでいるけれど,そこに書かれている猫の境地には到底達していない。そう思うだけでもこの作品の価値はある。そして18世紀にしてこの武術の心境が述べられていること自体が驚きである。

私の武術に関する考え方を形成するうえで,影響を与えたことは間違いないと思う。未読の方にはぜひおすすめである(短い話だし)。

2024年8月17日土曜日

自分の人生に大きな影響を与えたものはなんですか? (1) ~映画,小説,漫画,人物編~

 「自分の人生に大きな影響を与えたものはなんですか?」という質問がある。雑誌などでは多くの著名人たちにこの質問をして,たとえばその回答を集めて本100冊の特集などが組まれたりしている。特集されるのは映画や本,漫画などの作品が多く,やはり人は物語に影響を受けるということを証明しているようだ。

しかし,自分にこの質問がされた場合にはなんと答えたらよいのか,回答にずいぶん苦労する。思いつくままに挙げてみると。。。

映画では「ロッキー」なのかな。敗者の美学がそこにはある。あとは「CURE」。人間の精神は弱いということ,暗示の強さについて考えさせられた。そのほか,面白かった作品は山のようにあるけれど,自分の人生に影響を与えたのか,といわれるとなかなか見つからない。

小説の中で選ぶのも困ってしまう。吉川英治の「宮本武蔵」,フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」などかな...村上春樹の「ネズミ(羊)」シリーズや,チャンドラーの「ロング・グッドバイ」も人が変わることの虚しさを感じさせてくれる。一方,池波正太郎の「剣客商売」の主人公の洒脱な生き方にも憧れる。

漫画も選ぶのに困ってしまう。それでいて現在私の本棚にある漫画が自分の人生に影響を与えたかと言われると,そうでもない。ジムや稽古に行くために気分を上げようとして読んでいたのは「修羅の門」をはじめとする格闘技漫画かな。松本大洋の「ZERO」にも意外に影響を受けているかもしれない。

そして人の生き方としては,カラヤンなのかも。勝海舟もいいなぁ。

こうして思いつくままに挙げてみても,それぞれが少しずつ私という人格を形作っているような気がする。このほかにも「論語」や「孫子」,「伝習録」などの古典も挙げたいし,実は「ゴルドベルク変奏曲」など音楽自体にも影響を受けているような気もするので,いつかゆっくりと掘り下げて考えてみたい。

2024年8月14日水曜日

「隠されたもの」を探すために武術を稽古する

8月12日は振替休日だったのに,休日更新を心掛けているこのブログをお休みしてしまった。ということで,お盆休みにひとつ自己満足的な記事を書いてみたい。

私はオカルトが大好きなのだけれど,それはなぜかと考えてみた。

まず,「恐怖」は自らの命を守るために存在する人間の根源的な本能に基づく感情であるから,食欲などと同様に人間はその感情から逃れることができない。一方で,「恐怖」を感じると「自分が生きている」と実感することができる。なぜならば自分の命や存在が脅かされることによって感じる感情だから。毎日の生活が社会の虚構に浸食されている中で,「恐怖」は自分の存在を実感させてくれる。

次に,「人間は答えを追い求めてしまう」動物だから。人はそこに謎があれば,「なぜ」と知的探求が始まってしまう。そうした本能から人間は文明を築いてきたのだけれど,逆に答えが与えられなければずっと不安な状態に置かれてしまう。人間が安心するためには,そこに(科学的でなくとも)答えが必要なのである。「幽霊」や「妖怪」の存在もそうだし,「呪い」や「祟り」もそうである。古来,自分の子供が事故にあったとして,「なぜうちの子が」と嘆く親の問いに,実際はわからなくとも(あるいは偶然であったとしても)なにかしらの答えが必要なのである。「妖怪のせい」「呪いのせい」,「祟りのせい」,そのように考えることで,人は心に平安を維持してきた。人間の社会的生活には常に「問い」と「答え」が必要なのである。

「オカルト」という言葉には,もともと「隠された」という意味が含まれているという。したがって,人間が「答え」を見つけようとして隠された神秘である「オカルト」を追い求めてしまうのは,仕方がないことなのである。

私が「武術」に興味をもつのもまさにその点なのである。「武術」には多くの心理的な技術が存在する。そして古来,神秘的・宗教的な手法が存在する。そこには隠されたなにかしらの真実があると私は信じている。まさに「オカルト」なのである。その謎があるかぎり,やっぱり私も「答え」を追い求めたいと思っているのである。。


2024年8月11日日曜日

当事者でもない人が誰かの失敗を非難すること

 パリオリンピックももう最終盤である。日本の選手の活躍は本当に素晴らしい。選手の皆さんはたとえメダルは取れなくとも,オリンピックの場に立てることだけでも誇り高きことなのである。

なのに,ネットでは選手を誹謗中傷する人が多いのだという。本当に悲しい。

最近は,誰かの倫理に反する行動や失言に対して,非常に厳しく攻撃することが多い。倫理観,価値観などは人それぞれ異なっていていいのだけれど,それをもとに人を非難するのはよくないことのように思う。

特に,その状況にまったく利害関係のない人がそうした人や物事を好きなように外部から叩くのはちょっと違うのではないかと思う。たとえばオリンピックなんてほとんどの人が関係ないのだから,選手を応援・称賛することはあるにしろ,非難なんてできないと思う。もしも選手を非難できるとしたら共に戦った人たちだけで,そして誇りをかけて戦ったその人たちはたぶん非難することなどないだろうと思う。それなのに,結果が悪いとか,態度が悪いとか,性格が悪いなどと言う人がいる。

オリンピック選手に限らない。最近は著名人が不倫やら暴言やらで失敗すると,徹底的に叩かれる。確かに彼らには倫理的には問題があるかもしれないけれど,当事者でない立場の人が非難するのはちょっとおかしいと思う。当事者同士で納得が済むまで話し合えばよいのである。利害関係のない当事者以外のものが口をはさむ必要はないし,はさむべきではないと思う。

そのように人を非難する人は,自分が正義の側に立っているという優越感があり,それでいて自分は攻撃されない安全地帯にいるから,言いたい放題を言う。ネットだと匿名性が高いからさらに言いたい放題である。

スマイリーキクチさんの事件を思い出す。デマをもとに掲示板に中傷コメントを書いていたのは,普通の生活をしている人たちだった。「ムシャクシャしていたから」,「生活に不安があったから」などという理由で,キクチさんを中傷し続けていたという。現在のオリンピック選手,著名人にひどい言葉を投げつけている人たちもそんな普通の人たちではないだろうか。

なぜか私は村上春樹の小説「沈黙」を思いだす。人々が無批判に社会に迎合し,一方で感情のままに非難を吐き続ける。そこには共通点があるかもしれないと思う。私は「集団」,「匿名」というものが嫌いなのだろう。自分は切にそうはなりたくないと思っている。

2024年8月10日土曜日

私のオカルト好きの原点「妖怪大図鑑」

 私はオカルトが好きで,夏は涼を取るために怪談が特集されるのでワクワクする。講談の世界だって,「冬は義士,夏はおばけでメシを食い」などという言葉があるくらい,「四谷怪談」(赤穂義士の話のひとつでもある)や「牡丹燈籠」,「真景累ヶ淵」など有名な怪談が語られる(落語もだけれど)。

最近は「心霊特集」という番組が作られにくくなっているらしく,「本当にあった話」や「霊能者」のような言葉を使うのがタブーのようである。小学生の頃は夏休みの昼間にテレビをつければ,新倉イワオさんの「あなたの知らない世界」が週帯で特集されていたりして,「心霊写真」や怖い話の「再現ビデオ」に震え上がっていたものである。

中学になっても,高校になっても,こうしたオカルトが大好きで,新潟市では深夜「11PM」の裏番組あたりに心霊番組を毎週やっていたのでいつも見ていた。ドキュメンタリーとして放映されていて,狐に憑かれた少女の除霊や,体に文字がみみずばれとして浮き上がってくる映像,そして金粉現象など,毎週毎週夢中になってみていたものである。(番組名が思い出せない。小松方正さんなどがレポーターとして出演されていた)

なぜこんなにオカルトが好きになったかというと,もちろん子供のころからこの世界とは異なる世界に憧れがあったからなのだけれど,極めつけは小学生低学年の頃に「世界怪奇シリーズ 妖怪大図鑑」(黒崎出版)を買ってもらったことである。内容はすっかり忘れてしまったけれど,たぶん鳥山石燕などの妖怪を下敷きに図鑑が構成されていたように思う。面白いのだけれど,こわい。でも怖いもの見たさで読みたくなる。だから私は押入れの中で懐中電灯で読んだりしていた。なんども怖くて捨てようとしたのだけれど,捨てられず,結局各ページ綴じがボロボロになるまで読み込んだ。私の妖怪観はこの本によって作られたのかもしれない。

現代の子供は「妖怪ウォッチ」は知っていたとしても,もっと陰湿な日本情緒たっぷりの妖怪や幽霊,お化けの世界になじみがないのだろうと思う。背筋が凍るような物語から安全に隔離されている。それが本当にもったいないと思う。小川未明の「赤いろうそくと人魚」のような世界こそ,日本の陰影の美しさなのだと思うのに。

2024年8月4日日曜日

リッカのマークは,電流ベクトルの空間ベクトル変調

 今期のドラマとして「降り積もれ孤独な死よ」を観ているのだけれど,殺された13人の被害者が虐待を受けていた子供であり,主人公も虐待を受けていたということもあって,今後観続けることができるのか自信がない。あまりにもつらすぎる。

作中,登場人物たちの関係性を表すシンボルとして出てくるのが「リッカ」と呼ばれる六角形のマークである。たぶん漢字で書くと「六花」ということなのだろうと思う。

そして私はこの六角形の図を観るたびに,「電流形三相インバータの空間ベクトル変調だ」と思ってしまうのである(ここから先はマニアの話なので無視してください)。通常の電圧型三相インバータの空間ベクトル変調とはベクトル図がちょっと違う。すなわち30度回転している。ここがマニアなポイントなのである。

そもそも電流形のインバータはレアで,そのベクトル変調はさらにレアな気がするが,このマークが出てくるたびに私は思い出してしまうのである。

ドラマに出てくる六角形は三相電流形インバータの電流ベクトルの図

一般的な三相電圧形インバータの電圧ベクトルの図

#相変わらず成田凌がカッコいいのだ

2024年8月3日土曜日

長岡の祭りに日本人の血を思う

 8/1-8/3に開催される長岡まつりは,8/2, 8/3が大花火大会で,8/1は平和祭として民謡流しなどが行われる。私は8/1の祭りをまだ見たことがなかったので,夜に長岡の街に散歩に出かけた。

出かけた時間が21:00少し前と少し遅かったので,民謡流しを見ることができなかった(民謡流しは20:15開始?)。しかし,駅前の大手通りは通行止めとなっていて,そこでは神輿が数基担がれていて,掛け声と生のお囃子(笛と太鼓)によって大いに盛り上がっていた。どうも地元のいくつかの「青年会」がそれぞれ神輿を出しているらしい。

5~6基の神輿が活気ある掛け声とともに担がれ上下している。中には女性だけで担がれている神輿や,神輿の上に女性が立って団扇で掛け声をかけている神輿などもあって,いろいろな神輿を楽しむことにできた。

一方,通りをもう少し奥まで進むと,和太鼓の音が聞こえてきた。こちらもいくつかの地元の団体があるようで,各団体の和太鼓の演奏がされていた。「悠久太鼓」など地元の曲もあるらしく,大中小の太鼓によって演奏される勇壮な曲にはこちらの心拍数も上がった。

神輿と太鼓。あぁ,日本の祭りなのだなぁと感じ入っていたのだけれど,これは日本人特有の感情なのかと考えた。神輿は本来「ご神体」を神輿に移して街を練り歩くものであるけれど,神様が本当に乗っていらっしゃるかどうかは別にして,担ぎ上げる神輿は祭りに参加している人の心を一つにするためのシンボルである。「神輿を担ぐ」という行為がどれだけ重要なのか,よくわかった。仕事においても誰かを代表にして「神輿を担ぐ」必要がしばしばあるけれど,人々の心をひとつにするためには,そのシンボルが必要なのだと思った。

和太鼓も数多くの太鼓が拍子を乱さずに演奏されるのをみていると,どんどん心が引き込まれるのを感じる。太鼓のリズムと音圧は人をトランスの状態に導くのに大変有効なようである。たぶん,神輿のお囃子,太鼓,そして神輿の掛け声は人々をトランスに導くためのツールとしてとても優秀で,それは太古の昔より日本で祭祀が行われるようになってからずっと洗練されてきた技法(やり方)なのだろう。そして,こうして祭りでトランス状態になり,ストレスを発散することが社会の治安や維持のために昔から不可欠だったのだろうと考える。まぁ,度が過ぎても「ええじゃないか」騒動のように踊乱し社会不安につながるのだけど。

古来,日本においては社会の安定維持のため祭りが果たしてきた役割というのは,思うより小さくないのかもしれない。祭りを見ていて,星野之宣のSFマンガ「ヤマタイカ」を思い出した。祭りで狂乱する遺伝子は日本人の血脈に深く刻まれているのだろう。

神輿は遠くに写っています

#「神が先か,儀式が先か」というテーマで記事を書きたいとずっと思っているのだけれど,なかなかその機会がない。近いうちに。

2024年7月28日日曜日

世界にはSFが必要だ

私が中学生の頃に,SFのジュブナイル小説に出会った。それからSFに夢中になった。

ジュブナイル小説というのは少年少女対象の作品で,SF世界でジュブナイルというのが夢があってよかった。私が夢中になったのは図書館にあった鶴書房「SFベストセラーズ」で,「なぞの転校生」,「夕映え作戦」,「時をかける少女」,「時間砲計画」など,眉村卓,光瀬龍,筒井康隆,豊田有恒というそうそうたる作家が,少年少女のためにSFを書いていた。

「時をかける少女」は,映画にもテレビドラマにもなったけれど,図書館ではいつも誰かに借りられていて,ようやく借りることができた頃にはこの一冊だけ本の傷み方がひどかったことを覚えている。「時間砲計画」は「続・時間砲計画」もあって,宇宙戦艦ヤマトの設定にも参加していた豊田有恒が執筆している。タイムマシンの夢のある話だったなぁ。このSFベストセラーズはだいたい読んだのではないかと思う。

その他にも「ねらわれた学園」とか読んでいたような気がするけれど,小説だけでなくNHKの少年ドラマシリーズでもときどきSF作品が放送されていて,夕方6時過ぎになるとテレビの前にいることが多かった。「七瀬ふたたび」の多岐川裕美が綺麗だったことをよく覚えている。内容は覚えていないけれど(後年,深夜に民放でドラマ化された。主演は渡辺由紀。この人も綺麗だったなぁ。筒井康隆も出演していたけれど。その後,NHKでも再ドラマ化されていてこちらは蓮佛美沙子主演。ちなみに「家族八景」もドラマ化されていて,このときの主演は木南晴夏)。

とにかく,私が少年時代,SFに触れる機会が多かった。現在はどうだろう?SF設定のアニメは数多くあるけれど,少年少女向けのSFドラマって少ないのではないだろうか?キムタクの「安堂ロイド」くらいかな。。。

SFって科学技術的な夢をもつのにたいへん大切だと思っている。夢がない科学技術なんて面白くないだろうし。だから理系離れが進んだのではないか。

夢がない私だけれど,次の言葉は大好きで,あちこちで繰り返している。

アーサー・C・クラークが述べたと言われる3つの法則のうちの第三法則
"Any sufficiently advanced technology is  indistinguishable from magic. "(十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない)

科学技術は魔法を実現するのだ。世界にはSFが必要だ。

2024年7月27日土曜日

サイバーパンクが現実になりつつある現在,SF離れが進む

 雑誌「BRUTUS」で最近SFが特集されていた。ドラえもんとのび太が描かれた青い表紙の号で,「最近,全然本を読んでいないなぁ」と思い購入した。いろいろな観点からいろいろなSF小説が紹介されていて,まだまだ雑誌の1/3も読んでいないのだけれど,「この本も読んでみたいなぁ」と夢ばかりふくらんでいる。

そもそもSFがなんの略なのかも知らない若者も多くなっているのだという。もちろん,Science Fictionの略であり,海外の本屋にいくと「Sci-Fi」のコーナーがドーンととってある。海外の方が日本よりSF人気が高いような気がする。

ただSFの定義が難しくなってきているとは思う。例えば日本ではSFをSci-Fiとは別にScience Fantasyと読み替えることも多くなっているらしい。異世界転生ものはScience Fantasyに含まれるのだろうか。確かに「ブギーポップ」あたりからファンタジー色が強い作品が増えてきていて,最近は「ハードSF」が減っているような気がする(私が最近本を読んでいないだけなのかもしれないけど)。

私も本当に本を読まなくなった。SFに限ればさらに少ない。伊藤計劃の「虐殺器官」,「ハーモニー」,そして神林長平の「いま集合的無意識を、」や戦闘妖精・雪風シリーズの途中までくらいが最後だろうか。なんとも恥ずかしい。「三体」とか「DUNE」とか映像化された作品も読んでみたいなぁ,とは思っているのだけれど...

ドラえもんも立派なSFである(藤子F氏はSFを「すこし,ふしぎ」と呼んでいたようだけれど)。だがドラえもんの誕生までにはまだ技術力が全く足りない。鉄腕アトムの誕生は2003年だったけれど,もうとうに過ぎている。夢の技術の実現はまだまだ遠い。しかし,サイバーパンクな世界だけは現実になりつつあるような気がする。「ブレードランナー」は2019年の設定だし,「AKIRA」も2020年の東京オリンピックが開かれた時代だ。科学技術はまだまだSF世界に追いついていないけれど,情報が支配するディストピアだけは現実化している。

SFというのはもっともらしい科学的設定(ウソ)の上に成り立つ物語だと思うのだけれど,サイバーパンク世界は私たちにとってはすでにウソではなく,現実に向き合わなければならないものになってしまった。SFに夢を見る時代ではなくなったのかもしれない。

2024年7月21日日曜日

Sophisticatedされている

 私の通っていた大学は「ダサい」ということで有名だった。確かに白衣を着て登校してくる人とか,いつもツナギを着ている人などがいたし,一般学生も,七三分けで銀縁の四角いメガネ。チェックのネルシャツにスラックス,そしてジョギングシューズを履くようなファッションの人たちが多くいた。当時はユニクロはまだない。

バッグもA4サイズの資料が縦に入るバッグを肩から下げていて(デイバッグなんてなかったし),いつも教科書類でパンパンになっていた(ノートパソコンもなかった時代)。

私が大学に合格して上京したばかりのころ,津田塾大学に通っている先輩2名と話していて,私が通う予定の大学の男子学生の評判を訊いたところ,「あー,Sophisticatedされているかな」「うーん,そうそう」と含み笑いをしながら教えてくれた。

私はその単語の意味が分からなかったので後日辞書で調べると(スマホもネットもない時代だったので),「洗練された」と書いてある。それで気分を良くしたのだけれど,実際に大学に行ってみるととてもファッションに気を使っているとは言えない人たちばかりだった(自分も含めて)。

そこでようやく「Sophisticated」が,男子学生を褒める言葉がなく皮肉めいた意味で使われたことを知った。東京の世界は複雑で難しい,と思い知った出来事だった。

2024年7月20日土曜日

突然,遺族になる可能性(日本怪奇ルポルタージュを見て)

 また「日本怪奇ルポルタージュ」の話である。「あさま山荘事件」の次は,「突然遺族になってしまった家族」の話であった(Tver限定?)。

ヤジマXというミュージシャンの方のお姉さんは,大阪西成で医者を営み,かつ献身的なボランティア活動を行っていた。それがある日,木津川で遺体となって発見されたのだという。突然遺族となったヤジマさんの話は,聞いていてつらくなる。当初,お姉さんは自殺として処理されたのだけれど,不審な点が多く遺族の申し出もあって現在では事件として扱われているらしい。しかし,まだ真相は解明されていない。2009年11月に事件が発生して以来,毎月14日には西成でビラ配りをし,事件が風化しないように活動している。

ヤジマさんは当時のことを淡々と話していたけれど,突然のことにパニックになったという話に胸が痛くなった。理解が追い付かなくなるのだろうと思う。自分だったら...と思った。

出演者の佐久間氏も,お父さんが突然海外出張先で亡くなったのだという。その事実を整理するまで,数年を要したという。そう,突然自分が遺族になる可能性は普段考えているよりもずっと高い。自分だって明日突然,脳梗塞や心筋梗塞で亡くなる可能性もあるのだ。

それでも毎日こうして暮らしていけているのは,自分(だけ)は大丈夫とどこかで思っている「正常性バイアス」のおかげなのだろう。毎日そうした恐怖におびえていたら,とても暮らしていけないかもしれない。

先日,母から部屋をきれいにしておくようにと言われた。私もいつこの世からいなくなるかもしれない。そのときに備えて身の回りの整理を進めなければ。今年の目標のひとつ,終活。もっと真剣に進めていこう,と思った。

2024年7月15日月曜日

細い文字のフォントが流行っている?

新しいテレビドラマが始まる時期である。この半年くらい尋常ではない忙しさで,テレビを観る時間を確保するのが本当に難しかったけれど,先週で少し整理がついたので,これからの下半期はもっと落ち着いて,自分の時間を持ちつつ,活動していこうと思う。だから今期は4本くらいドラマを観ることができるだろうか,と思っている。

そのうちの一本が「降り積もれ孤独な死よ」という成田凌主演のミステリードラマなのだけれど,そのタイトルを見て「またか」と思った。タイトルのフォントが細くてカクカクした文字になっている。最近,こんな細字の,手書き風のフォントで書かれたタイトルをよく目にしているような気がする。

例えば,「アンチヒーロー」もそうだった。細い手書き文字だった。少し古いところでは,「未来への10カウント」も手書き風だった。こちらは少し丸い。ドラマのタイトルが手書き風の文字で書かれているのは珍しくないのだけれど,その中でも,文字が丸みを持たずカクカクしているタイトルが増えているような気がするのだ。と言われても今思い出せないのだけれど。。。

丸みをもつ文字では,番組の内容をうまく表せないということだろうか。「降り積もれ孤独な死よ」も相当つらい話で甘くはないから,角ばったフォントなのだろうとは思うけれど,そうしたフォントばかりだと飽きてしまう。考える人もたいへんである。

と思って考えてみれば,各ドラマのタイトルはみな工夫されたフォントになっていることにあらためて気づき,感心する。それを専門としたデザイナーもどこかにいるのだろう。誰がどのように発注して,誰がそれを形にしているのか,ちょっと気になっている。

#話変わって,成田凌にはやっぱり惹かれる。なぜなんだろうと不思議に思う。

2024年7月14日日曜日

80年代のコカ・コーラのCMに似たBig MacのCM

 先日,テレビをみていたら聞き覚えのある「I Feel Coke~」という歌が流れてきた。画面を見ると,私の学生時代,あのキラキラしていたバブル時代のコカ・コーラのCMのような映像が流れている。「あー,あの頃を思い出すなぁ」と,女性3名が髪を揺らしながら歩いていく後姿の画面をみて思っていたら,なんと画面に映されたロゴは「Big Mac」。「???」と思いながらもう一度確認すると,やはりコカ・コーラの音楽が流れ,コカ・コーラのCM風の映像が流れて,そしてBig Macの映像。混乱して,ちょっとボーっとしてしまった。

ネットで調べてみると,やはり間違いない。マクドナルドとコカ・コーラのコラボCMとのことである。今,50代の大人の心に刺さるCMなのではないかと思う。

あの頃,DCブランドのスーツを着た男が黒太のセルフレームの四角い眼鏡をかけて,髪の毛を持ち上げて決めて,女性を相手に噴水をバックにカッコよくスポーツをする。女性もやはりスーツ姿。私の現実とは遠く離れていたけれど,憧れがそのCMにはあった。私の通っていた大学はダサいって有名だったけれど,同級生の誰かがコカ・コーラのCMに出演したという噂が流れて,それは凄い話題になっていた。

今,多くの人の憧れになるライフスタイルってどんなものだろうか?個別化が進みすぎて,誰もが憧れるライフスタイルって思いつかない。個人個人で好きなライフスタイルを追求する時代なのだろう。でも共通の価値観がないのも,なにか寂しい気もする。

ということで,私はマクドナルドの思惑通りにCMに心動かされ,Big Macとコーラが食べたくなったのである。そして,あの頃のことをちょっとだけ思い出した。


#実は,「I Feel Coke」は昨年あたり水曜日のカンパネラの詩羽が歌っているバージョンがCMで流れていた。そのときは,綾瀬はるかが出演していた。でもやっぱり「I Feel Coke」には,今回のような映像が似合う。

2024年7月13日土曜日

マイケル・ジャクソン 1993年スーパーボウル,ハーフタイムショー

沈黙についていろいろ考えている。これまでもそのことについてブログ記事を書いてきたけれど, 私が考える最もカッコいい「沈黙」についてはまだ書いていないことに気づいた。

私が考える最もカッコいい「沈黙」は,1993年のアメリカ,スーパーボウルのハーフタイムショーにおける伝説のマイケル・ジャクソン(MJ)のものである。

その年のハーフタイムショーは特別だった。まずショーが始まるとスタジアムのスクリーンにMJが映し出され,その後スタンドに設けられた舞台の下からMJが射出される。ほんとにすごい勢いで射出されるのだ。その結果MJはジャンプして着地する。そして何事もなかったように,すたっと立ち姿をとる。すると今度は別の方角のスクリーンにMJが映し出されて,また舞台下からMJが射出される。そして着地のあと静かに立つMJ。MJが複数人いるわけがない。そう,彼らは影武者たちなのだ。

そして最後に中央に設けられたメインステージから本物のMJが射出される。すたっと着地するMJ。そしてここからがすごい。着地して顔を右に向けたカッコいい立ち姿をとったままピクリとも動かないのだ。会場の注目は当然MJに集まる。しかし何も動かない彼の姿に観客の注目はますます集まり,MJの静かさと逆に興奮はヒートアップしていく。そして次に顔だけを左に向けるまで,なんと90秒以上もMJはなにもせずただステージの中央に立っていただけなのである。それからまた数十秒間のMJの沈黙。さらに観客は熱狂していく。彼はゆっくりとサングラスを外す。観客の熱狂が最高潮に達した時に「Jam」のギターイントロが演奏され始め,MJは「アーオッ!」と叫んでとうとう歌い始める。結局,この歌い初めまでおよそ2分,彼は一言も発せず,沈黙と2,3の動作だけで,スタジアム全体の注目を集め,スーパーボウルのゲームの興奮以上の熱狂を引き起こしたのである。彼の「間」というべき「沈黙」の勝利である。

これほど沈黙を効果的に使った例はそうそうないのではないだろうか。スタジアムだけでなく,同時中継をされていた全世界の視聴者をくぎ付けにした2分ちょっとであったに違いない。「間」というものに人間が支配されることの実例であり,その影響と有効性の大きさに怖くなるほどである。

ただこの「間」を制御,支配するためには,超人的なカリスマ性,オーラが必要なことは間違いない。凡人にはちょっと難しい。。。

2024年7月7日日曜日

日本怪奇ルポルタージュ,あさま山荘事件,総括

 不定期で放映されているテレビ番組「日本怪奇ルポルタージュ」。先週突然に放映されて,今回は放映時間が延長されていた(もちろんテレビ東京なので新潟では放送されていないので私はTverによる視聴。Tver万歳!)。

私はこの番組が大好きで,かなり重い,悲しい事件をなるべく偏見なく,まじめに取り上げようとしていることに好感を持っている(意見の押し付けがない)。これまで,「虐待」,「ヤングケアラー」,「京アニ放火事件犯人を治療した医者」などのトピックスを扱ってきたが,今回は「あさま山荘事件」がテーマだった。私は恥ずかしながらこの事件のことをほとんど知らなかったのだけれど(役所広司主演の映画も見ていないし,山本直樹の「レッド」も読んでいない),あさま山荘事件以前に若者12人が亡くなった「山荘ベース事件」というものを今回知って,たいへんにショックだった。

なぜ12人もの仲間が死ななければならなかったのか,という点に番組では焦点を当てていて,そこで行われた「総括」という行為を紹介していた。「総括」というのは,自己否定のための儀式であり,いじめである。自己反省という形で自己否定をさせ,集団圧力によって仲間同士で罰しあうという,結局のところ「リンチ」である。

私はここで日本人の特性がこの「総括」に強く表れていると思った。山荘に孤立しながらの小規模の集団生活。厳しい規律と上下関係。革命思想に歪んだ倫理観。そしてその倫理観が自分たちの首を絞めていく。日本人が暴走しやすい条件がそろっていた。結局,ぬきさしならない状況になっていくことは誰もが心の底で思っていたのではないか。でもそのことを指摘できない,指摘したら自分がやられる,まさに現代のイジメと同じ構図ではないのかと考えさせられる。

当時の連合赤軍のメンバーのインタビューもされていて,その現場では誰かが「やめよう」ということができなかったのだという。誰かが死んでいくたびに,彼らの死を無駄にはできない,やめたら彼らに申し訳が立たない,という考えがますますメンバーを締め付けていったのだという。

あまりの悲惨な状況に番組を見ているのがつらくなった。それでも見てしまうのは,現代の若者も全然変わっていないと心のどこかで理解しているからなのだろうと思った。

私が高校生だったころ,学生運動が盛んだった時代の若者は現代の若者よりもずっと大人だと思っていた。しかし,彼らの思想や行動を知ることによって,それは違うのだと思うようになった。当時の若者は単に政治思想にかぶれていただけで,それは一種の大人ぶるというファッションであり,その行動原理などは現代の若者とほとんど変わっていないのだ。行動に出てしまっていたのは,昔の若者の方が接する情報が少なく世界が狭かった分,「純粋」言い換えれば「単純」だっただけなのではないだろうか。今はいろいろな情報を知ることによって少しだけ行動にブレーキがかかるようになっただけなのではないだろうか(洗脳はされやすくなっているかもしれないが)。

今回の番組もいろいろなことを考えさせられた良い内容だった。次回はどんなテーマに切り込むのか期待して待ちたい。

#どうもギャラクシー賞をもらったらしい


2024年7月6日土曜日

瞽女唄をきく

 最近「日本最後のシャーマンたち」という本を読んでいて,「瞽女(ごぜ)」の話が出てきていて少し気に留めていたところ,瞽女唄を聞く会があるとたまたま知ったので(新潟妖怪研究所の案内で),先日新潟市まで聞きに出かけた。

瞽女というのは盲目の女性の唄を歌ったり語りをする人たちで,晴眼の人に連れられて集団で村から村へと渡り歩いて,そこで芸を披露して宿と食べ物を提供してもらう人たちである。先に挙げた本によれば,昔は盲目の女性は娼婦に身を落とすか,瞽女になるかという厳しい時代だったようで(東北では瞽女の代わりにイタコになる),昭和の時代までは少なくとも瞽女はいたらしい。

なぜ瞽女に興味をもったかというと,明治の近代以降,瞽女が盛んだったのはこの北陸,特に新潟県地域だったらしく,長岡近辺出身の私の母も瞽女の話をしたことがあったような気がするからである。人間国宝にもなった「小林ハル」は長岡瞽女だったという。

修行は相当過酷だったらしく,「日本最後の...」に瞽女が紹介されている数ページには,胸が痛くなるようなエピソードが並んでいる。十年以上も厳しい師弟関係の中で芸を受け継ぎ,生きているのが奇跡と思うような修行・罰を経験している。小林ハルも最終的には老人養護施設に入り,昭和まで存命だったらしいが,彼女の人生の悲しみを思うとつらくなるほどである。

今回聞くことができたのは,この小林ハルの孫弟子にあたる「金子まゆ」さんのもので,内容は「葛の葉子別れ」だった。安倍晴明が母である狐と別れる話で,こんな風に三味線で語られるのだなぁ,と感動した。テレビもラジオも,ましてネットなどなかった時代,こうして村を回ってくる彼女たちの語りこそがエンターテイメントだったのだろう。みな固唾を飲んで耳を傾けていたに違いない。またこうした瞽女を泊め,もてなすのは村々の名家であって,それが富を持っていることの証のひとつだったのだろうと思う。

金子さんは晴眼の主婦の方で4年間師匠について勉強してその後工夫をされているのだという。瞽女にもいろいろな方がいて,いろいろな唄い方があったのだろうから,今後もぜひこうした芸を受け継ぎ,紹介することを続けていっていただきたいと思った。YoutubeやCDなどの録音で聞いてもあまり心が動かない。やはりこうした唄は生で聞かなければ魅力は伝わらないということもよくわかった。

2024年7月1日月曜日

長谷川博己を強く推す!

 長谷川博己という俳優は,私はすごく大好きで,彼の出演している作品を観ることが多い。その彼が主演をしていたテレビドラマ「アンチヒーロー」もなかなか面白かった。長谷川が演じる主人公はダークヒーローで,全然笑わない。ほとんど不法な行為を平然と行うことができる人間である。

こうした人間を演じることも,長谷川はうまい。「まんぷく」の主人公の主人のように(安藤百福がモデル)コメディを演じることもできるが,今回のように影をもつニヒルな役もたいへんにうまい。ニヒルに笑う姿がカッコいい。悪役ではあるが決して下品にならない男。それが長谷川博己なのである(安藤百福役はコメディではあるけれど,はっきり言って狂気を感じた)。

明智光秀を演じた「麒麟がくる」では追い詰められていく理想主義者であったし,「リボルバー・リリー」では育ちのよさそうなダンディな弁護士役で綾瀬はるか演じるリリーを支えていた。彼には華がある。

彼の好きなところは,意外に滑舌がいいことである。「アンチヒーロー」でも難しい法律用語のあるセリフもたいへん聞き取りやすく話していた。それもダークな雰囲気を壊すことなく,である。彼の演技の実力は相当なものだと知る。

ということで,とにかく私は長谷川博己という俳優が大好きでこれからも注目していきたいのだけれど,ひとつだけどうしても観たい番組がある。それはNHK BSで放映された彼が金田一耕助の「獄門島」である。宣伝動画で彼が狂った金田一を演じていてとても気になっていた。しかし見逃したのである。

あー,彼の狂気の金田一も観てみたい。それをまたいつかの楽しみにしているのである。

2024年6月30日日曜日

納屋を焼く Barn Burning

 村上春樹に,「納屋を焼く」という不気味な短編がある。結局,「謎」が「謎」のまま残され,どうなったのか,何が起こったのか,わからないまま終わってしまう作品である。

主人公の女友達がボーイフレンドを連れてくる。酒を飲みあって(大麻も吸って),そのボーイフレンドが主人公に向かって「時々,納屋を焼く」という。そして近いうちにも「納屋を焼く」という。主人公はそれから,近隣に注意してみるが焼かれた納屋は見つからなかった。ふたたびそのボーイフレンドにあって尋ねると納屋はきれいに焼いた,という。それでも焼かれた納屋は見つからない。そして主人公の女友達も消えてしまった。

結局,「納屋を焼く」というのはなにかのメタファーであり,それは女友達が消えたことから彼女に関係があるのは間違いないのだけれど,何を示しているのかよくわからない。ネット上ではこれまで多くの考察がなされていて,その言動の不気味さから彼女のボーイフレンドが彼女を殺した,とか,主人公の中から彼女の存在を消し去った(恋人を奪った?)などと書かれている。

村上春樹は謎は謎のままにしておくのが好きなようだから,結局のところ答えはこのまま明らかにされないだろう。しかし,この不穏な終わり方は私たちの不安を宙づりのままにしてしまっている。そしてそれが魅力であって,種明かしされてしまったらこの作品はつまらないものになってしまうかもしれない。私にとっては,謎は謎のままがいい。

さて,突然「納屋を焼く」を取り上げたのは,そんな考察合戦に私も加わりたいからではない。実は最近,「納屋」という意味の英単語が「Barn」だと知って(本当に英語の勉強不足が恥ずかしい),「納屋を焼く」って,「Barn Burning」というオヤジのダジャレみたいだなと思ったことによる。むしろ韻を踏んでいるというべきなのだろうけど...

村上春樹のダジャレなのかと思ったら,ウィリアム・フォークナーにも同名の作品があって決してダジャレではないことも知った(そもそも,あんな不気味な小説にダジャレみたいなタイトルはつけないだろうけれど...)。でも面白くて,この作品を取り上げてみた。久しぶりに読んでみようかな,と思う。

#佐野元春のアルバムに「The Barn」というものがあるけれど,これも「納屋」という意味であっているのだろうか?それともなにか別の意味なのか。。。

2024年6月23日日曜日

老いと姿勢

 私たちは,顔や姿を見なくても人のシルエットを見てその人が子供か若者か,もしくは老人かをだいたい判断できる。歩くスピードや歩幅などで判断することもあるが,だいたいはその姿勢から判断しているのではないだろうか。

若い人と老人との違いは,特に上半身の姿勢に表われる。すなわち,若い人の立ち姿は背筋が自然に伸びているのに対して,年齢をとるにつれて前傾,あるいは後傾する不自然な姿勢に近づいてくる。体幹の筋力が低下していることの表れなのだろう。

たしかに体幹の筋力が弱くなってくると,姿勢が悪くなるほか,歩き方でも歩幅が狭くなったり,バランスが悪くなって上半身が左右に揺れながら歩いたりすることになる。当然転倒することも多くなる(さらにいうと太る)。

ということは,自分の身体年齢を若く保つには姿勢に気を付けることが大切であると考えられる。体幹を中心にトレーニングする方法も盛んに本やネットで紹介されているけれど,まずは日頃の姿勢に気を付けるだけで大きく変わるのだろうと考えている。立ち姿,歩く姿,そして椅子に座った時の姿。ついつい癖で仙骨が寝ることによって背骨が曲がってしまい,姿勢が前傾してしまう。これでは,おじいさんの姿そのものである。自分が若者であったらどのような姿勢で立つか,歩くか,座るか,それらに日常的に気を付けることが大切なのだろう。特別なトレーニングはせずとも,毎日の生活の中で体幹を鍛えることは可能だ。老いのスピードは毎日の心がけにかかっているようである。

2024年6月22日土曜日

ある不良少女の思い出

 私が中学生の頃,学校は校内暴力の真っただ中にあって,朝学校に行くのが憂鬱だった。私は生徒会長とか務めていたから,いろいろとトラブルが毎日のように発生していて,通学の苦痛はなおさらだった。

学校には典型的な「不良」と呼ばれる少年少女がいて,トラブルの真ん中に彼らがいた。しかし,「不良」の中にもいろいろレベルがあって,本当にすごい暴れ方をする人もいたし,少し距離をとって不良というレッテルに憧れてそのような格好をしているだけの人もいた。

そのなかに友達や知り合いではなかったけれど,不良少女の二人組がいて,その片方の女の子の思い出がいまも忘れられない。

その同級の女の子は,髪の毛が天然なのか短髪茶色でパーマのようにクルクルしていた。色白だったけれど,唇はいつも真っ赤でそれは口紅を塗っているのだろうと予想された。もちろん制服のスカートは袴のようにとても長かった。彼女とは話したこともないけれど,私のクラスの女の子の一人と一緒にいることが多かったから,日頃彼女を目にすることが多かった。別に他人に迷惑をかけるような感じでもなかったので,そんなに気にもしていなかった。

そんなその女の子について忘れられないことがふたつある。

ひとつは,彼女がお百度参りをしていたという話。彼女が好きな男のためなのだろうか,高校合格を祈って神社でお百度参りしていたということを聞いた。新潟なので雪深い中,足元の悪い神社でお百度参りをするのは簡単なことではない。あぁ,あんな格好をしているけれど普通の女の子よりむしろ純情なのだな,ととても感心したことを覚えている。

もうひとつは,ある日の昼食時間のこと,いつもの放送部の事務的な校内放送とは違い,まるでどこかの人気番組のラジオDJのように軽快な話し方で,流行っていた曲をよどみなく紹介していく女の子の声が流れてきた。あの女の子だった。本当にすばらしいDJだった。どういう経緯でその日の昼の放送を担当したのか全く想像もつかないのだけれど,その1回きりの放送にとても感動したのだ。本当にうまいなぁ,と。

卒業後,彼女がどうなったのか,まったく知らない。そういえば,病気のために彼女は一年年上だったという噂も聞いたことがあったような,なかったような。。。ただ彼女のこの二つのエピソードは,あまり気づかなかったけれど私の意識の深いところにそれからずっと影響を与えつづけてきたような気がする。

2024年6月16日日曜日

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション後章

アニメの超名作に間違いない「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」。3月に前章を観て,後章が待ち遠しくてようやく観ることができた。

正直,前章を観たときのような衝撃はなかった。しかし,前章の謎解きがうまくされているし,そしてそれでも内容は衝撃的で,記憶に残る良い作品だった。前章の謎解きがされていくのだけれど,登場人物(の主人公に限らず誰でも)のどうしようもならないつらさは変わらない。特に主人公のおんたんの心情を考えると胸が痛くなる。「僕は門出の"絶対"だから」というセリフも門出が「絶対」以外にはなりえない過去を背負っていることを思うととても切ない。

前章,後章を観て思ったのは,私たちは明日地球が滅ぶとしたらなにをするかということである。前章でおんたんの兄のヒロシがこう言っていた。

もしなにかが起きたとき、俺たち凡人は受け入れるしかないんだ

だからこの映画の世界では,空に侵略者の母船が浮かんでいたとしても,人々はそれまでと変わらない日常生活を送っている。こんな状況下だったら,私は何をするのだろう。

私たちは毎日,明日が来ることが当然のように暮らしている。しかしそれは世界の現実から目をそらして生きていることに他ならない。明日,突然私の命が終わってしまう可能性だってあるのだ。映画のシチュエーションはそれが侵略者の母船として顕在化された世界であった,私たちのこの世界と変わらない。明日死ぬかもしれない毎日を生きている私たちは今日をどうやって生きるべきなのか。

そしてヒロシはこう妹のおんたんに問いかける。

最後まで希望を失わないためには どうしたらいいと思う?
 誰かを守るんだ
 その誰かを最後の最後まで守り抜け
 その気持ちは 何にも代えがたい強さになる
 だとすればお前は、誰を守る?」

本作品では,特に侵略者との闘いで目を背けたくなる場面が多くPG12に指定されている。心が傷つけられるような残酷さが,門出やおんたんたちの日常生活と対比されるように描かれている。そして最後のクライマックス。東京が消滅し次々と大切な人が亡くなっていく中で,でんぱ組.incの「あした地球がこなごなになっても」が流れるシーンは本当に衝撃的だ。私はぐちゃぐちゃな気持ちでスクリーンを見ていた。

最後に大事な人たちを失った人々がまた日常生活を続けているシーンが描かれている。それがこの作品の問いかけに対する回答なのかもしれないと思った。

評価は★★★★☆(星4つ)


#侵略者たちが防護服の下の正体を見せるシーンはゾッとした

#今作は特におんたんの心情が描かれることが多かったのだけれど,声優をつとめたあのちゃんの才能に驚いた。前章の幾田りらとともにこのキャスティングは神。

#やはり原作の結末が気になる。。。

2024年6月15日土曜日

「滅相も無い」 ~よくわからないが「人間」を感じさせるドラマだった~

 「滅相も無い」というテレビドラマを見ていた。毎日放送MBSが制作している深夜ドラマの枠である。最終回(第8回)が放映されたので感想をまとめる。

はっきりいってよくわからないドラマだった。

まず,設定がよくわからない。この日本において,空間に突然巨大な穴が開いた。これまでに少なくない人数の人間ががその穴に入っていったが戻ってきた人はいない。その穴を神として宗教家があらわれ(堤真一),その信者8名が集まって穴に入る前に自分の人生について話し合うという設定である。もちろん登場人物の人間性を掘り下げる切っ掛けとして,こうしたSF設定は都合がよいとは思うのだけれど,そこに切っ掛け以上の意味はないように思う。「穴」はなにかの暗喩であるのかもしれないが。

次に,演出がよくわからない。演出が舞台くさかった。と思ったらこの番組の監督は加藤拓也という人で,岸田國士戯曲賞などを受賞している気鋭の舞台作家だった。集まった信者8名がそれぞれ1話ごとに自分の人生について話始めるのだけれど,8名が一緒に居て話しあうところは普通のドラマ演出なのに,各自の話となると舞台風の演出となる。すなわち場面転換なども舞台風,着替えなども舞台風,こうした演出が苦手な人には不向きなドラマであった。なぜこのような舞台風の演出にする必要があったのだろうか。各人の独白には確かに深みが加わったように思えたけれど...

しかし出演者は超豪華だった。まず宗教家の堤真一なんて,全編を通してちょっとしか出てこない。なんか抽象的な言葉を吐くだけの怪しい人だった。そして各話で人生を独白する人は,出演順に,中川大志、染谷将太、上白石萌歌、森田想、古舘寛治、平原テツ、中嶋朋子、窪田正孝であった。さすがにみんなうまい。話に引き込まれる。しかしその一方で語られる内容はあいまいで,テーマもぼんやり。結局,穴に入る,入らないという決断についてもその理由が明確に説明されない。人間とは各人が語る不条理な人生を送り,あいまいな決断で生きているものだと思わされる。スッキリ感は全くない。

そして最後にタイトル。どうして「滅相も無い」というタイトルだったのだろう。そこが一番よくわからない。

といろいろ悪口を並べてみてきたけれど,結局,全話最後まで見てしまった。それはなにより出演者の演技の魅力が理由に他ならない。わけがわからないけれど,人は決して完全な人生を送ることができない。それが「人間」なのだと感じさせるドラマだった。

2024年6月9日日曜日

LEATHER TRAMP KITCHEN 新潟市内のハンバーガーショップ

 ハンバーガー大好きな私だけれど,長岡市,新潟市ではあまり専門店を訪れていないのが気になっていた。というわけで,新潟市でお腹がペコペコになったとき「ハンバーガー」でマップを検索して,1軒の専門店を見つけた。

"LEATHER TRAMP KITCHEN   BURGERS & SANDWITCHES"

が今回紹介したいハンバーガーショップである。

たいへんに小さな店で,2階建て。1階から扉を開けて入ってみるとキッチンが右手にあり,若い男性2名が中に入って忙しそうに調理をしていた。そして並びのレジにはこれまた若い女性が1名,注文を受けたり配膳をしたりしていた。奥までの階段につづく狭い通路の左側は待合となっていて,壁に作り付けのテーブルにハイチェアがいくつかあってアメリカの田舎風の内装。先客の若い女性2名が椅子に座って楽しそうに話している。

「そちらでお待ちください」

と声をかけられたので,椅子に座って待つことにする。客席は2階にあるようだけれど,どうも満席らしい。10分ほどして階段から幾人かの客が下りてきて出て行ったので,先に待っていた若い女性2名が呼ばれて2階に上がっていった。

「お時間大丈夫ですか?長くお待ちいただいて申し訳ありません」

と私に声がかけられ,「大丈夫です」と答える。繁盛しているのは良いことだけれど,待つのは正直腹の空いた身にはつらい。時刻ももう14時近い。

「狭い店なもので」

とも謝られる。と言われたって,いまさら店を出ていくわけにもいかないので持ち歩いていた本を出して読み始める。「日本最後のシャーマンたち」。たいへんに面白い本なのだけれど,アメリカナイズされた店内にはちょっとそぐわない。

結局30分程度も待たされて,ようやくレジに呼ばれる。せっかくだから期間限定の「ビーフダブルチーズバーガー」(1,380円)。バーガーにポテトはつくのかと尋ねると残念ながらつかず,ビールセットならばつくというので「ビールセット」(1,000円)を注文した。ビールが高いような気もしたが,Brewskiというクラフトビールでどうもスウェーデンのビールらしい。種類を尋ねられて迷わずIPAを頼んだ。

2階に上がってもクラシックなアメリカンスタイルのシンプルな店内。狭い空間は若い人たちでいっぱい。先ほど階段を昇って行った女性2名もいた。私も(1名だけれど)2名席に通されてバーガーを待つことになった。

先の女性2名に大きなハンバーガーが2つ運ばれてくる。女性の店員がバーガーの食べ方をレクチャーしている。そうそう,ハンバーガーは紙の袋に入れてつぶしてからかぶりつくのが流儀なのだ。しかし,彼女たちは店員さんが去ってからもなかなか食べ始めようとはしない。もちろん,写真を撮るためである...(これじゃなかなか席が空かないよ...)

ようやく私にもハンバーガーが運ばれてきた。先に運ばれたビールもまだ半分残っている。味は...まずいわけがない。うま味のあるバンズで挟まれたフレッシュな冷たい野菜と焼かれたばかりのジューシーなパテを紙袋に包み,上下につぶしてかぶりつく。ぐっとその複層的な味を楽しみながら追いビール。「やっぱりハンバーガーはこうでなければ」,という味である。間違いがない。

ということで,またハンバーガーを楽しみに訪れたい店である。万代から歩いて10分くらいかな。もう少し空いている日にまた行きたい。


ビーフダブルチーズバーガーとビールセット。写真を見るだけでよだれが出てくる




2024年6月8日土曜日

ブルックナー交響曲第7番 第3楽章スケルツォの魅力

 テレビからブルックナー交響曲第7番第3楽章の音楽が流れてきて驚いた。一般的には馴染みの薄い曲だと思っているのだけれど...  それは東京交響楽団新潟公演のCMで,どうも今度7月の定期演奏会に演奏されるらしい。

プログラムをみるとラヴェルの「クープランの墓 管弦楽版」とブル7らしい。ちょっと渋いクラシック音楽ファン向けの演目である。

私はブルックナーの交響曲はかなり好きな曲群で,これまでもこのブログで何度も取り上げてきている。特に3,5,7,8,9番が好きで,7番ではうっとりするような美しい旋律が魅力的な第1,2楽章が大好きである。ブルックナーの交響曲はどちらかというと「甘さ」がない厳しい音楽が多いと思っているのだけれど,この7番の第1,2楽章は彼の作品では珍しく女性的な柔らかさ,優美さを持っている。あまり知られていないのをいつも残念に思っている。

一方,第3楽章は勇壮なスケルツォである。第1,2楽章で優美さに心を奪われたあとに目が覚めるような荒々しさがある。そして彼の他の交響曲と同様に,同じメロディがこれでもか,これでもかと繰り返される。これがブルックナーが苦手な人の理由のひとつとなっている。

ゲオルグ・ショルティによる本作品の演奏映像を見たことがある(たぶんシカゴ交響楽団)。ショルティのインタビュー映像も入っていたのだけれど,彼が子供時代,親に演奏会に連れていかれてブル7を聴いた経験を話していた。彼は第3楽章の単調さに演奏会中ついつい居眠りをしてしまったのだそう。そして居眠りから起きてみてもまだ同じメロディーが繰り返されていたんだよ,と冗談交じりに話していた。それくらい単調で長い。

(余談だけれど,私は大学の研究室時代,研究に疲れると図書館にサボりによく行っていた。そこでクラシック音楽のレーザーディスクを見ていたのだ。この作品もレーザーディスクをパイオニアのプレーヤーを使ってヘッドホンで視聴した記憶がある)

それでも私は彼のスケルツォが好きである。ブル7のスケルツォは彼のすべての交響曲の中でも最も魅力的なのではないかと思うくらい。でもそれが合わない人には合わないんだろうなぁ。ブルックナーの交響曲の中では4番と並んで人気がある作品だと思うけれど,CMに流れた第3楽章の音楽で集客できるのかとちょっと心配してしまうのである。

#以前にも書いたけれど,ブル7の第4楽章は残念ながら第1~3楽章までに不釣り合いだと思っている。なんとなく"小品"感がある。もっと壮大な音楽だったら第7番交響曲こそ彼の最高傑作となっていたかもしれないと思うのだけど...

2024年6月2日日曜日

イシナガキクエを探しています

 テレビ東京はいろいろなホラーを製作しているけれど,最近はモキュメンタリーと呼ばれるドキュメンタリーのようなフィクションをときどき製作している。私はそれらの番組が結構好きでこれまでにも

「テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?」
「SIX HACK」

そして

「祓除」

などの番組を見てきた。のちに,これらは共通して「大森時生」というテレビ東京のプロデューサーが関係していることを知ったのだけれど,テレビ東京ではこうしたモキュメンタリーなどを放映するらしい「TXQ FICTION」という枠をこの4月から設けて,やはり大森氏が関係している「イシナガキクエを探しています」というモキュメンタリーを第1作目として放映したのである。

この番組の設定が秀逸で,過去によくあった行方不明者をテレビの生放送で公開捜索するという番組を模している。そこで「イシナガキクエ」という女性を探すのだけれど,イシナガキクエは亡くなっている可能性が高くなり,探すことを依頼した米原という老人も亡くなったこともあって,捜索は打ち切り,3回目でテレビ放映は中止された,ということになっている。米原氏は焼身自殺したことを最後に伝え不穏な空気のまま,なんの解決もされないまま番組が終了するという,なんとも気持ち悪い終わり方であった。(今思うと,公開捜索番組ってかなりおかしなことをやっている。現在はできないのではないかと思う)

いろいろな謎が提示されたまま終了するのかと思っていたら,第4回目はネットで放映されていた。第4回目ではいくつかの謎に対して推測される解答が示されていたけれど,それでもよくわからないまま番組は終了したことになっている。

私は大いに楽しんだけれど,なんの前知識もないままこの番組を見た人は,番組開始直後に「この番組はフィクションです」と断りがあったにしても,わけもわからないまま放り出されて番組が終わったことに戸惑ったに違いない。そしてネット放映を知らないままの人も数多くいるだろうから,それらの人たちのモヤモヤ感を想像すると私がその立場だったら怒りさえ覚えるかもしれないと思う。

まあ世の中,こうした番組を許すような余裕ができたくらいに成熟したということも言えるだろうけれど,私としてはやはり結末までテレビ放映はしてほしいと思う。ネットの最終回前提が当たり前になると,テレビ放映回を見ていてもどこか集中が途切れてしまう。「SIX HACK」のときも同様だし,私は未見なのだけれど「Aマッソのがんばれ奥様ッソ! 」の事後番組もネットでのみ配信されているのを見ると,テレビ大好き人間としてはちょっと悲しい。次作からはぜひテレビ放映のみで番組を完結するようにして欲しいと思う。(実際は新潟では放映されていない番組なので私は動画配信で観たのだけれど)

本記事では「イシナガキクエを探しています」の内容にはほとんど触れることができなかったけれど,ホラーとして発生する事象(「幽霊が現れる」とか)よりもいろいろな設定こそがじわじわくる「恐怖」であるというジャパニーズホラーの王道を行っている番組である。こうした考察を必要とするホラーもたいへん楽しい。TXQ FICTIONの枠に今後も期待したい。

#番組第1話で,視聴者から寄せられたイシナガキクエに関する情報で,「長岡駅のホームに立っているのを見た」と白板にメモが貼られているのを見てニヤリとした

2024年6月1日土曜日

日本怪奇ルポルタージュ ~こんなに重い内容の番組がテレ東にあるなんて~

 新潟にはテレビ東京系列の地方局がなく,テレ東Bizなどは残念ながら見る機会が少ないのだけれど,個人的にはテレビ東京の番組は結構好きである。

最近では,「伊集院光&佐久間宣行の勝手にテレ東批評」という番組を動画配信Tverで楽しみに見ているのだけれど,そこで紹介されていた「日本怪奇ルポルタージュ」がすごい番組であるのでぜひ紹介したい。

「怪奇」といってもオカルトではなく,「いじめ」,「ヤングケアラー」,「家庭内虐待」などの現代日本の複雑な問題を取り上げ,そのドキュメンタリー取材のビデオをコメンテータが見てコメントする30分の深夜番組である。佐久間亘行が出演をしている。

これまでに7回放送されていて,残念ながら私は第1回と第2回(9浪の末,娘が母親を殺してしまった事件などを取り扱った回と芸人Zazzyの家庭内教育虐待の回)を見ることはできなかったのだけれど(なんと初回は1月1日の深夜に放送されていた),とにかくすべての回が内容が重すぎる。とてもうわついた心で楽しむような番組ではないのである。

例えば「ヤングケアラー」の回は平成ノブシコブシの徳井の母親と妹の面倒をみていたという話で,見ていてとても胸が痛くなった。他の家庭を知らない子供は自分の家庭が特殊であるということに気づかずに,家族の面倒をみることに疑問を持たず過酷な状況に陥るということがよく理解できる回だった。

「ネットミーム」の回はまだマシだったけれど,「逃亡を続けていた爆発犯が最後に名乗り出た話」や最終回の「京都アニメーションの犯人のやけど治療を行った医者」などの回はじっと画面を見つめてしまうほどの重さだった。

この番組の特徴はこの内容の「重さ」である。取材ビデオを見ることによって視聴者はもう逃げることができなくなってしまう。答えは出ない問題であるけれど,なにかしらの自分の考えを問われる番組なのである。しかし,「重さ」のわりにそれほど「暗さ」や「絶望」を感じない。それは番組の構成,編集のおかげなのだろう。内容の暗さに視聴者がもう二度と見たくないと思わせないくらいのギリギリのラインで番組は作られている。

今まで知らなかった方には,ぜひ知ってほしい,良質な番組であると私は思う。ただ,残念ながらこの番組は1月1日深夜に初回の1回,そして4月4日~5月9日まで6週連続で放映されて,その後の放映の予定は公表されていない。この先どうなるのか。しかし,私としては期待を大にして続編を待ちたい。


#佐久間宣行氏はお笑いだけでなくこのような番組も向いているのだなと思う。興味深い人だなと注目している

#伊集院光氏は私と同い年なこともあってか,彼の感性で話される内容について共感することが多い。彼の出る番組もついつい見てしまうものが多い

2024年5月26日日曜日

沈黙

 毎日の暮らしの中で,「沈黙」というのはたいへん重要な意味を持つ。私などはついついペラペラと話しすぎてしまうので,「沈黙は金」などと言われるとたいへんに耳が痛い。

会話の中で「沈黙」は非常に重要である。間断なく話しているとき,他人はほとんど話を聞かなくなる。沈黙がない話は注意力が続かなくなるからである。逆に途中途中に沈黙があると,人は「次に何を話すのだろう」とつい耳を傾けてしまう。だから適宜話を休むことは大切なのである。音楽でも,パウゼ(休止)のない楽曲なんてとても聞いていられない。話の休止による間の取り方,すなわちリズムが大切なのである。

音楽といえば,ジョン・ケージの「4分33秒」という有名曲がある。これは人間が沈黙の中で音に耳を澄まさなければならないという作品だけれど,音楽会という場で沈黙を経験するなんて,そしてあちらこちらで発せられる音に注意を払うなんて,なんという貴重で面白い体験なのだろう。

会話でなくとも日常生活の中で沈黙はとても大切である。それは熟慮して行動を起こす大切さである。行動だけでは「匹夫の勇」となる場合がある。「沈思黙考」の時間があってこそ将たる適切な行動がとれるのだと思う。ただ忙殺されている毎日のなかで「沈思黙考」の時間をとることこそが難事である。

遠藤周作の作品「沈黙」は確か高校の教科書で触れた。あまりにも救いがなく人を試す話に読み返す勇気が今もない。だからマーティン・スコセッシの作品である「沈黙」も観る勇気がない。たとえ彼が再び遠藤周作の作品を映画化したというニュースを聞いても。自分の心を試すことは相当な決心がいる。たとえ私はすぐに「踏み絵」を踏むことがわかっていたとしても。

「沈黙」という言葉にはいろいろイメージがあり,それをテーマにした音楽,小説などのいろいろな作品があることがわかる。村上春樹にも「沈黙」という自分の心と向き合わされるような怖い作品があった。本棚に本は並んでいるけれど,やはり読み返す勇気がない。

沈黙は日々の生活の中で必要不可欠なものであるけれど,それを自分の心を向き合う時間にあてることになるとそのことにかなりのリソースを費やすことになる。日々の生活で目をそらして生きている事柄にフォーカスしなければならなくなるからだ。「沈黙」は大切だけれど,私にとっては怖いものでもある。

2024年5月25日土曜日

名刺入れの思い出

 学生の就職活動に必要なものとして,名刺入れを持つことを薦めている。訪問先の人事やOBの方から名刺をいただいたときに,そのしまい場所に困ってしまうからだ。もちろん,学生自身の名刺を作って入れておき,あいさつに配るのもよいだろう。ということで,私の娘の誕生日プレゼントに名刺入れをあげたこともある。

私の名刺入れはもう30年近く使用している。購入した時の経緯はいまでもよく覚えている。

国際熱核融合炉ITERの建設地として,世界のいくつかの都市が立候補することになった。日本ももちろん立候補するのだけれど,当時は,北海道苫小牧市,青森県六ケ所村,茨城県那珂町の三か所が国内で名乗りをあげ,日本としてこの3つから1つをまず決めるということが必要だった。

候補地を決めるためにはいくつかの立地条件等を検討する必要があって(水や地震,飛行機事故の確率,研究者の家族を含む生活環境など),日本原子力研究所に勤めていた私は当時の核融合担当理事と一緒にITERの電力の受電条件を満たすかどうかを検討する仕事を始めた。まず理事とITERの設計チームの上長と私の3名で,電力中央研究所,電力会社等々を回っていろいろな情報収集,根回しをし始めた。

理事と一緒にあいさつに回るのだけれど,それまで現場で作業していればよかった私はスーツを着て外回りするのが珍しかった。そのため名刺ひとつ作っていなかったのである。どこだったかの偉い人に挨拶をしたときに,「すみません,私には名刺がありません」と名刺を渡さず謝っていたのを見て,理事が出張帰りに「それじゃ,あかん」と私を怒ってくれたのである。

名刺は自分で作成して印刷すればよかったけれど,名刺入れが次の出張に間に合わない...そこで出張前に地元の文房具屋に入ってあるものを購入したのが現在使っている名刺入れである。革製だけれど,決して値段の高いものではなかった。そもそも地元の文房具屋なので選択肢がなかった。「まぁ,そんなに高いものではないから,いつかの時点で気に入った良いものに買い替えよう」と思って購入して,はや30年近く使い続けている。「HIROKO HOSHINO bis」のロゴが一度取れてしまったけれど,接着剤でまたつけて使っている。購入した時は思い入れなどなかったけれど,こうして長年使っているとそれなりに愛着を感じてしまうのである。

もしかするとこのまま仕事を引退するまで,いや私が活動をやめるまでこの名刺入れを使い続けるかもしれない。そしてこの名刺入れを見るたびに,私を怒ってくれた今は亡き理事の「それじゃ,あかん」の言葉を思い出すのである。

30年以上使い続けている名刺入れ


2024年5月19日日曜日

長野県立美術館「ランドスケープ・ミュージアム」

 ゴールデンウイーク中に訪れた長野県立美術館。有料の展示は見なかったのだけれど,美術館の建物が素晴らしかったので訪問した。2021年に名前を変えて新築された本館と1990年建設の東山魁夷館からなる美術館である。私好みの直線を組み合わせたすっきりとしたデザインが美しい。特に屋上から見る善光寺や城山公園の風景は素晴らしく,「ランドスケープ・ミュージアム」を目指したというだけあって,この美術館も溶け込んでいるように思える。長野に住んでいたら散歩に通いたい建物である。

外観。奥に見えるのが東山魁夷館

斜面に立っているので屋上から道路にでることができる

屋上から見た善光寺の建物群

内部も美しい直線の組み合わせ

建築デザイン:宮崎 浩+Plants Associates Inc.の案とのこと

ちょうど七味で有名な「八幡屋礒五郎 本店百周年記念展示」(無料)が行われていた。コラボ,記念物など,いろいろなバージョンの缶がある。



2024年5月18日土曜日

佐久間宣行のオールナイトニッポン,あののオールナイトニッポン

 この年齢でいまだにオールナイトニッポンを聴くというのも恥ずかしいけれど,長距離ドライブのときなどに聴くオールナイトニッポン(正確に言うとこれから紹介する番組はオールナイトニッポンゼロ。以下,ANN)がある。

ひとつは佐久間宣行のANNである。佐久間氏は,現在売れっ子のバラエティ番組のプロデューサーであるけれど,この番組の担当開始時はテレビ東京のサラリーマンでもあった。現在はフリー(?)であるけれど,多くの番組を担当している。私は「ゴッドタン」とか見ていないのだけれど(なぜって,テレビ東京の系列局が新潟にないからである),Tverで彼の番組をよく見る。一方で,彼の動画チャンネルもしばしば見る。実は昨年末くらいから動画配信というものをよく見るようになって,我ながら50半ば過ぎの男の嗜好としてはいささかどんなものかと思っている。ANNではそうした番組の裏側や最近彼の周囲で起こったこと,そしてエンタメ情報などが話題になる。なにがいいって,特定の常連さんがメインのコーナーが少ないこと。私にとってもリスナーとしてのハードルが低い。50歳ちょっと前という彼の年齢もあって,彼の周囲に起こったことに関する思いなどは他のパーソナリティに比べて理解しやすいし,彼のエンタメ情報(映画や演劇)もたいへんに参考になる。そして,彼の仕事術についての話も興味深い。ANNパーソナリティとして,ダントツに年齢が高いのではないかと思うし,その年齢で午前3時からの生放送は体力的にもつらいと想像するのだけれど,ぜひぜひこれからも頑張って欲しい。

もうひとつ気軽に聴けるのが,あののANNである。あのちゃんくらいになると,本当に私との感覚のずれがあって面白い。それでいてしっかりとした考えを話していることもあって,若い人が(サンプルとしてはかなり特殊だけれど)どんなことを考えて生きているのか,知るのはとても楽しい。あのちゃんは他にもテレビや配信でいろいろな番組を持っていたりして面白い。彼女の年齢はたぶん芸歴から考えて20代半ばくらいかと思うのだけれど,今後どのような人になっていくのか行く末がたいへん楽しみである。

ということで,私が聴いているANNゼロについて紹介した。正直いって私がたぶん同じ年頃の他人がこうした番組を聴いていると知ったら,まず「キモっ」って思うに違いないが,まぁ現時点での私の嗜好の記録ということで。


♯そのほかに聴いているラジオ番組といえば,「木村拓哉 Flow」かな。こちらも「キモっ!」

2024年5月12日日曜日

「金刀比羅神社」と「湊稲荷神社」

 前回に続き,新潟入船地区の神社を二つ紹介する。

ひとつは,「金刀比羅神社」。新潟は北前船の重要地であったので船にまつわる縁起が多い。この金刀比羅神社も,1812年,香川の金毘羅様を信心していた船主の船が暴風雨に遭い難破寸前であったところを,金毘羅様に救われたことが創建の所以になっている。金毘羅様が去ったあと,金の御幣がひとつ残されていて,それが香川の金刀比羅神社の本社に5本あった御幣のひとつであったという。それ以来,金刀比羅神社として新潟で祀られたのだという。本社には,この由緒を絵で表した木彫りの額が飾られていて,参拝者は直接見ることができる。そのほか,立派な舞楽殿もあって,狭い境内ではあるけれど見るものは多い。Google Mapで見ると「救いの神」と書いてあって,ちょっと驚くのだけれど,上記の由緒もあって困難から救ってくださる神とのことである。

金刀比羅宮 正面

鳥居と舞楽殿

舞楽殿

もうひとつの神社は,この金刀比羅神社の近くにある「湊稲荷神社」である。こちらも創建から300年以上経っているという由緒ある稲荷神社である。360度回すことができる狛犬が有名で,回せば願い事が叶うという。どうも花街の女たちが意中の男が港から出ていかないよう、狛犬の向きをわざと変え、荒天になるように祈願していたというのが始まりらしい。私ももちろん回してきた。しかし,男は右側の狛犬を回し,女は左側を回すことになっていることを知らず,左側を回してきた。残念...本殿はサッシの戸の向こうにあり,現在の狛犬に取り換えられる前の狛犬が置かれている。おみくじを引いてみた。中吉。良かった...

湊稲荷神社

この日,入船地蔵尊,金刀比羅神社,湊稲荷神社,旧新潟税関庁舎,旧第四銀行住吉支店,新潟市歴史博物館みなとぴあ,と午前中の合氣道の稽古のあと歩いて回った。さすがに疲れて夕方新潟駅近くでビールを飲んだ。美味しかった。

#私は日本の神様にそれほど詳しくないので,今回調べてみて初めて「金刀比羅様」が「大物主」であることを知った。しかし,この「大物主」がどのような神様なのか,私はよくわからないのである。大国主と同一なのか?大己貴神なのか?それともそれらの幸魂,和魂,奇魂なのか?Wikipediaを読んでもよくわからない...まぁ,稲荷神社も各社によって祭神が違っていたりして難しいのだけれど。この湊稲荷神社はオーソドックスに宇賀之御魂神とのことである。



2024年5月11日土曜日

入船地蔵尊の伝説

 民俗学に憧れる。もしも,私の家がお金持ちで,私が稼ぐ必要がなかったのであれば(つまりは道楽息子でいられたならば),民俗学者になろうとしていたかもしれない。あちらこちらにフィールドワークに出かけて,伝承された話,モノをおじいさん,おばあさんから収集する。地域地域に残る習慣,ならわしの中から文化や技術をすくい上げる。そんな素敵なことで暮らしていけたらどんなに素晴らしいだろう。

特に私は民話が好きである。民話にはその当時の生活習慣,あるいは通過儀礼・禁忌などを含む文化が含まれている。その背景にあったろう生活を想像するのが好きなのである。神話や妖怪が好きなのもそうした理由なのだろう。また寺社仏閣が好きなのもその建立の経緯が面白いからなのだ。

さて,せっかく新潟にいるのだから近隣の寺社を巡ろうと思っていて,先日は,新潟市にある入船地蔵尊 浄信院を訪ねてみた。18世紀末,大飢饉で亡くなった方のために建てられたお寺とのこと。浄土宗。私がなぜこのお寺にわざわざ行ったかというと,そこに祭られている地蔵菩薩の像に伝説があるからなのである。

新潟妖怪研究所のガイドブックによれば,次のような話が伝わっているという。1718年,佐渡から新潟に渡ろうとしていたお坊様(佐渡羽黒山)が船夫に断られてしまった。その船夫の船が新潟の港に入ろうとしたところ,船の動きが鈍くなってしまった。そこで,船を調べたところ,その船の船尾に石の地蔵があるのを見つけて,船夫は海に投げ捨てた。その結果,船は全く進まなくなった。これは地蔵を粗末にした罰に違いないということで地蔵を引き揚げたところ,入り風が吹いて船は入港できたとのこと。そのときの地蔵ということで「入舩地蔵尊」として崇敬されることになったということである。地蔵の背中には享保3年(1713年)「佐州羽黒山覚念」と刻まれているらしい。

当日私が行ってみると,お堂の戸は閉められていて,お参りすることはできそうになかった。「縁がなかった。残念ながら次の機会にしよう」と思ったところ,ちょうど建物の脇から寺の女性の方が出ていらっしゃった。ちょうど外出されるところだったようだ。私を見て,「どうされましたか?」と尋ねてくださって,わざわざお堂の戸を開いてくださった(ご親切,ありがとうございます!)。

お堂の内側は立派な壇が据えられていて,多数の金色の仏様の奥には黒い外見をした菩薩像が置かれているのが見えた。お寺の方が,あれが佐渡から渡ってきたと伝えられているお地蔵様ですと説明してくださった。

お堂のとなりには,別の小さなお堂があって,その中も見せていただいた。お堂の中には金色の地蔵菩薩像が多数おさめられていた。知らなかったのだけれど,明治以降,北前船の船主の信者のみなさんが寄進され,千体地蔵として有名らしい。こちらも伝説があって,明治の頃,もともとはある船主の長男の嫁が船主の病気平癒のため毎日参詣して,小さな木の仏像を寄進していたとのこと。二百体ほどに達したころ,夢にすべての仏像を金色にすれば平癒するというお告げをうけて,船主が金箔代を寄進したのだという。以来,信者が寄進した小さな仏像は二千体にも達するとのことである。

こんなふうに新潟の地元にもいくつもの伝説が伝承されている。少しずつそうした場所を訪れるのが楽しみとなっている。


入船地蔵尊浄信院

#現代の「都市伝説」もいつか将来の民俗学の対象になっているだろう。電子的なアーカイブが残っていれば,それはそれは興味深い研究資料になるに違いない。


2024年5月6日月曜日

壊れてしまったラジオ

深夜ラジオは中高時代の受験勉強の友で,オールナイトニッポンやミスDJリクエストパレード(川島なお美,飯島真理,斉藤慶子なんてよかったなぁ)を毎晩のように聞いていた(新潟は毎日放送もよく電波がはいったのでヤングタウンもよく聞いていた)。ラジオ番組を特集した雑誌なんてのも良く読んでいた覚えがある。

中学校に入るときに自分の貯金でSONYの銀色のポータブルラジオを買って、それをずっと高校を卒業するまで使っていた。自分の貯金だから断る必要もないのに、親には「これから「基礎英語」を聞いて英語を勉強するから」と断って、確か当時で定価15,800円した高価なものを買った。実際には割引して売られていて,その差額は親によってなぜか妹のモノを買うのに回された。不条理を感じたけれど,ラジオを買ったうれしさもあってうまくごまかされてしまった。

SONYのその新しいラジオは当時の最新式の電子式チューニングシステムを使っていて,チューニングダイヤルがない。そして現在の周波数を示す液晶画面もないめちゃくちゃカッコいいモデルだった。自動選局,7つの周波数をメモリ可能で,メモリボタンを押せばすぐにニッポン放送や文化放送を聞かせてくれた。表には「PLL SYNTHESIZER」と書かれていた。今だったらPLLの意味も分かるけれど,当時の小学6年の私にはなんのことだか全く理解できなかった。

この記事を書くにあたり,このラジオをネットで調べてみた。45年も前のラジオなので見つけるのに苦労したけれど,とうとう見つけた。「ピットインFM ICF-M20」という機種らしい。今見てもカッコいい。当時の私のセンスを自慢したい。

ずいぶん前に実家に帰った時に見つけて電源を入れてみた。もうウンとスンともいわなかった。「壊れかけのRadio」ではないけれど,喪失感がひどかった。私のラジオへの愛情が損なわれたようだった。その後そのラジオをどうしたのかは覚えていない。しかし,オートチューニングを始めると放送局を探してくれる「ピピピ」という音と小さなボタンをプチっと押す感触だけはいまも覚えている。。

2024年5月5日日曜日

わが青春のオールナイトニッポン

オールナイトニッポン(ANN)といえば,私にとってみれば受験勉強の友で,青春の一ページを飾るラジオ番組である。

当時は,深夜1:00-3:00が第1部,3:00-5:00が第2部というスケジュールで放送されていた。中学生の頃にはクラスでも聴く人が多くなっていて,翌日になると教室のあちらこちらでANNの話をしていた。当時の第1部のパーソナリティは,中島みゆき,所ジョージ,タモリ,ビートたけし,吉田拓郎,笑福亭鶴光あたりで,私は特にビートたけしのANNを毎週楽しみにしていた。受験勉強をしながら聴くのが毎日で,だいたい2:00過ぎくらいになると眠くて,コーヒーを飲んでも目が覚めないので諦めて床に入るのが常だった。

高校生くらいになると火曜日はとんねるずの担当になっていて(小泉今日子もそのころ水曜日を担当していた),それはそれは楽しみな番組で夜中にクスクス笑いながら勉強したものである(おかげで暗記科目はからきしダメだったが...)。

残念ながら私はネタを投稿するハガキ職人ではなかったけれど,当時の常連の投稿者がそのまま放送作家になった,あるいは芸人になったなんてことは今になってよく聞く話である。とにかくラジオが熱かった。

ANNは今でも,力ある芸人や俳優,アイドルが担当して放送されている。今ではネットでタイムシフトして聴くことができるから,長時間の運転時の眠気覚ましなどにちょうどいい番組なのである。

ただし,芸人が担当している場合は,各番組に常連のリスナーがいて,”ファミリー”のノリが強すぎてちょっと聴くのにハードルが高いと感じてしまう。例えば,オードリーのANN。先日,東京ドームでイベントをやって会場を満員にしたというニュースを聞いても,相当に人気のある番組である。しかし,そのニュースを聞くと固定ファンのネタに自分がついていける自信がない。それが理由でなかなか聴く勇気が起きない...

一方で,まだまだラジオのファンがいてうれしく思う。テレビ全盛期にもラジオの危機感を感じていたけれど,ネット全盛の現代になっても熱いリスナーがいることがうれしい。確かにラジオを聴いている学生は少なくなっているようだし,全国的にもリスナーは減少傾向にあるのは間違いなのだろうけれど,これからも一部の熱いファンがラジオを支え続けるのだろうと思う。

"Video killed the radio star"や"Radio Ga Ga"で歌われるような昔のラジオへの郷愁もあるけれど,ラジオは現代においてもまだまだ新しいファンが入れ替わりしながら支え続けている。ラジオが消えるのはまだ先のことになりそうである。


2024年5月4日土曜日

新潟市歴史博物館みなとぴあ

 前回は「新潟市歴史博物館みなとぴあ」の話をしようと思って、古町芸者の話に終始してしまったので、今回は博物館の話をする。

展示をみると新潟の歴史は、港町としての繁栄と水との闘いであったと感じられる。

長岡は縄文時代(火焔土器で有名)の次に弥生時代があって、その後ヤマト王権によって統治されていくような歴史であったけれど、新潟は弥生の生活様式の時代の形跡があまりなく、縄文時代の次はヤマト王権による古墳時代となっていたようである。ヤマト時代から港町としての役割を新潟は果たしていて、江戸時代から昭和くらいまでは相当に栄えていたようで、当時の新潟の産物や港町として栄えていた証となる書物などが展示されている。

一方で新潟は地名の通り、「潟」と呼ばれる池・沼ばかりで水はけがよくなかったようであって、新潟の歴史は治水をどのように行ってきたかという歴史でもある。最終的には大河津分水の完成を見て、水害はずいぶん減ったとのことであるけれど、それまで水田を生業とする人たちの苦労は江戸時代からの水路の図面、そして昭和にかけての写真などによってしのばれる。

今年は新潟地震から60周年、中越地震から20年の記念の年でもある(来年は新潟大火70年)。日本の他の土地とかわらず、新潟も数々の苦難を乗り越えてきている。先人たちの苦労を知ることは、今後の防災などを考えるためにも重要であるなぁ、とまじめに考えさせられた...

#新潟が原爆の投下候補地のひとつであったことはあまり知られていない。長岡にも原爆の模擬爆弾が試験的に落とされている。今回、原爆の投下候補地であることを知った新潟の人々が「原爆疎開」をして、多くの人が新潟の地以外で終戦を迎えたのだということを初めて知った。


2024年5月3日金曜日

古町芸妓、「新潟美人と花街」

 「旧第四銀行住吉町支店」、「旧新潟税関庁舎」と紹介してきたけれど、それらは「新潟市歴史博物館みなとぴあ」の敷地内にある。もちろん、訪問した。

長岡市にある新潟県歴史博物館は、どちらかというと縄文の暮らし、長岡藩と戊辰戦争、そして雪とくらし、という感じの展示だったけれど、新潟市歴史博物館は、やはり港町としての繁栄の歴史に関わる展示が中心だったように思う。特に、明治以降、横浜、函館、長崎、神戸とならんで開港された新潟は、貿易の拠点として栄えた歴史があって、その頃の民俗を示すモノや文書が並んでいてたいへん興味深かった。

特に私が訪れたときには、「新潟美人と花街」という開館20周年を記念する特別展が開かれていて、往時の繁栄がしのばれた。友人から教えてもらって知ったのだけれど、三大芸妓といえば、「京都祇園」、「東京新橋」そして「新潟古町」だったのだそう。幕末に開港されるまでも北前船でにぎわっていて、「新潟は松と男は育たない」(海風が強くて松が育たない。男は女遊びの誘惑が多すぎて育たない)という言葉があったくらいだそうである。多い時には400名近くの芸妓がいたとのことであるけれど、今回の展示をみると娼妓(遊女)も多かったらしく、かわいそうな身の上の女性も多かったのだろう。

明治くらいになると芸妓の写真が撮られ、現在の風俗嬢のような(というと怒られるだろうか)女性のカタログが作られていて、それも展示してあった。そのカタログには「新潟美人」という言葉が躍っていて、これが全国的に「新潟美人」を知らしめる一助になったことを知った。今見ても美人ばかりが載っている。一方で新潟新聞や読売新聞なども今であればコンプライアンス的にどうかと思われるような芸妓の美人コンテストなどを催していたりして、現在と変わらない。有名画家が描いたコンテスト10位までの芸妓の掛け軸も飾られていたけれど、一位の芸妓は数万票を集めていたりして驚いた。一票投票するために新聞社の何かを買うかなにか契約していたらしく、少し前のAKB48と同様の推し活動があったようである。

現在は60名程度しか古町芸妓には在籍していないようである。ひとつの文化であるから、消えないようにみんなで盛り上げてあげたらどうだろう。(私にはそんな経済的な余裕はないので、どなたかにお願いしたい)

2024年4月29日月曜日

旧新潟税関庁舎

 先日訪れた「旧第四銀行住吉町支店」がある新潟市歴史博物館の敷地には、旧新潟税関庁舎がある。こちらも国指定重要文化財となっていて、無料で公開されている。

ペリー来航ののち鎖国が解かれ、日本では5つの港が開港された。横浜、函館、長崎、神戸、そして新潟なのである。建物の解説を読んで、遠い昔に歴史の授業でそう習ったことを思い出した。そしてこの建物は、五港のうち当時の税関建物が現存している唯一のものであるとのことである。

外観は洋風であるけれど、当時の大工が使っていた和風建築の技法を用いて建てられている(擬洋風建築)。入り口はアーチ状になっていて、二重の塔を建物の真ん中に有している。平瓦を並べたなまこ壁の外壁が特徴的である。赤、黒、白の色使いがどこかかわいらしい建物である。内部には農業で使われていた足踏み水車や唐箕などが展示されているけれど、やはりメインは建物である。見学所要時間は20分もあれば十分。ただ建物内には昔風のおしゃれな机と椅子が置いてあって休憩できる。

旧新潟税関庁舎の外観。二重の塔、アーチ型の門、なまこ壁


2024年4月28日日曜日

旧第四銀行住吉町支店

先日、新潟市歴史博物館「みなとぴあ」を訪れる機会があったのだけれど、その敷地内には国の有形文化財に登録されている旧第四銀行住吉町支店があって、無料開放されているので見学してきた。

第四銀行というのは新潟の地方銀行なのだけど、「第四」というくらいだから、たぶん第一勧銀から数えて全国の4番目の銀行なのだろう。歴史ある銀行ということで、新潟市がたいへんに賑わっていた時代にその経済を支えてきたと推測される。現在は、北越銀行と一緒になって「第四北越銀行」になっている。

この旧第四銀行住吉町支店は昭和初期に建てられた建物で、その当時の洋風建築のスタイルを踏襲している。解説によれば住吉町にあった建築を2003年に移築したものらしい。列柱がならぶ外見には当時の「銀行」という雰囲気が漂っている。

旧第四銀行住吉町支店正面

いかにも銀行らしい外観

列柱が並ぶ玄関

内部の天井や手すりの装飾も派手ではないが気品があって、ここで働いていた人たちはたぶんバンカーとしての誇りを持って毎日仕事をしていたのだろうと想像する。

建物の一部はレストランと会議室になっていて、現在も使用することが可能であるとのことである。いつかここで開かれる会議とパーティーに出てみたいような気もする。

予約して使用可能な会議室。昔ながらの木製の机と椅子が並ぶ

ホールはパーティ開催可能。床のリノリウムの模様がおしゃれ

2階にはぐるっと手すりのついた通路がある

当時の電灯のスイッチ。ついつい見てしまう...



2024年4月27日土曜日

夢も予定もなく

 世の中はゴールデンウイークGWである。今年は比較的天気も良いようで、これまでコロナ禍で自粛していたレジャーがもう一度賑わいを取り戻せばいいなぁ、と心より思う。やっぱり世間が暗いのは、私のような老人にはつらいものである。

ただGWになったとはいえ、私はなにをするともない。というか、今日からGWだと認識したのは今週の月曜日なのだ。なにも特別な予定も立てていない。これから考えてみようかとは思う。

前半の3連休は、仕事の宿題をして、宿題をして、宿題をして...すぐに終わりそう。楽しみといえば、ずっと積読状態になっている本をいくつか読もうと思うのと、テレビの動画配信を見るのと、そして寝だめをすることかな。一日中ゴロゴロしているのもいいものである。

しかし、年を取るとやはり動くのが億劫になってきているのは感じてきている。いかにこれから自ら行動しようという動機となる、生活にハリとうるおいをもたらすテーマを見つけていくか、ということである。

夢も趣味もない人生というのはいかに寂しいものかと最近感じている。独居老人は早死にするとのことなので、もっと残りの人生の楽しみになるようなものを見つけたい。

2024年4月21日日曜日

ネットの書き込みは年寄りばかり

SNSというのは大変面白い。たとえば、テレビでは番組に対する視聴者の反応がわからなかったものが、今ではコメントが書き込まれることによって反応をいくぶん知ることができる。あるいはXなどへの書き込みによって、リアルタイムで感想がタイムラインにあふれることになる。そうした双方向性、即時性が昭和の時代にはなかったリアクションであり、面白さである。

一方で、コメントを書き込むことへのハードルが低すぎるということがずいぶんSNSを問題のあるものにしていることは間違いない。ラジオ番組への投稿も、ネットであればネタを思いついたらすぐに投稿できるが、以前はハガキで申し込まなければならなかったのでネタを何度も吟味し送らなければならずハードルは高かった(と、こんなことを書いているけれど私はハガキ職人でもなんでもないのだけれど)。

こうしたネタであればよいのだけれど、ネット時代になって番組への感想などもほとんどハードルゼロで書き込まれることになった。その結果、ひどい罵詈雑言の嵐がコメント欄に巻き起こる。ポジティブで建設的な意見ならばよいのだけれど、上から目線の非難(批判ではなく)なども多く、見ていて相当に不快になる。これがSNSの欠点であると思う。

そしてそうしたひどいコメントを見ていると、どうも書き込んでいるのは若い人ではなく、40代以上の大人が多いのではないかと感じる。

そもそも若い人は長い文章をコメント欄などに書き込まない。一方、ひどいコメントの文章は長く、そして上から目線で失礼なものが多い。その内容も説教じみて、昔の感覚を基準に書かれていることが多いような気がする。そんなに嫌ならば番組を視聴しなければいいのに。そこで偉そうなコメントを書くことで承認欲求を満たそうとしているのだろうか。

若い人の番組に感覚が合わないなどというコメントを書いてみたり(個人の感想ですよね!)、有名曲のカバー演奏の動画に「あなたの歌は本家にはかなわない」みたいなことを書いたりする(それもあなたの感想ですよね!)。あるいは、お笑い芸人の番組に向かってまるでお笑いのすべてを知っているかのような口調で説教する(お笑いのプロに説教できるほどの知識と経験があるの?)。そしてそもそも悪意のある人がコメントを書き込む頻度が高いわけだから、コメント欄は悪口に触発されて爆発的にネガティブな文章であふれかえることになる。本当に読んでいると不快で腹が立ってくる。そしてゲンナリする。気持ち悪いけれど、私もその世代の人間なのだから。

私もこの年齢でSNSを見ているわけだから,その気持ち悪さにある程度貢献していることは認識している。私はコメントを書き込んだりしないけれど、目を通しはしている。おおざっぱに言ってしまえば、こうした中年・老年によるネット公害は、老害のひとつに含まれるのだろう。

このブログだって老人の承認欲求の表れなのだから、他人を非難することはできないのかもしれないけれど、心無い誹謗中傷のコメントを読むたびに自分はそうはなるまいと自省を繰り返すのである。

#匿名性の高いXからスレッズなどに移行すれば少しは改善されるかもしれないとは思う

2024年4月20日土曜日

マンガ、アニメ、ゲームの擬人化に思う(3)~刀剣乱舞~

 以前、京都の名刹「大覚寺」を訪れたときに、玄関に男の子のポップが立っていて大変に驚いた。だって、「大覚寺」みたいに格式の高い寺社にアニメのポップが立っているなんて!ご朱印帳も以下のとおりである。

御朱印帳も膝丸エデション
「霊場」という言葉に不似合いな感じもするけれど...

でもこうしたキャラクターのおかげで、拝観者が増えているのだろうと容易に予想できる。このキャラクターはもちろん「刀剣乱舞」である。これは各刀に男の子のキャラクターを割り当てて擬人化しているゲームである(ゲーム内容は全然知らないけれど)。人気のあまり、アニメ化され、舞台化され、そして歌舞伎化もされていたりする。

擬人化されるのはイケメンばかりだから、ファンの大多数は女性になるのは当然かとは思うけれど,その影響で博物館や美術館で刀剣の周りには女性ばかりがいるようになったのは本当に驚きである。世の中は本当に刀剣ブームなのである。

まず雑誌。「刀剣画報」なる雑誌が書店に並んでいて驚いた。そんなに買う人がいるなんて信じられない…(まぁ、私が「秘伝」などという雑誌を読んだりするのも他人からみたら相当珍しいのだろうけれど)

次に,あちらこちらの美術館・博物館で刀剣の前で食い入るように見ている女性ファンの山が信じられない。足利市では山姥切国広の展示で3万7千人以上,来場者があったとか。学生時代,ときどき研究室で煮詰まるとサボって大学の近くの五島美術館に行っていた。平日だからかもしれないけれど,少し暗い館内で刀剣をずっと眺めていても誰にも会わなかった(まぁ,横山大観の絵の前に立っていても誰も来なかったような気がするけれど...)。それがいまじゃ,どの美術館,博物館に行っても刀剣の前には女性がいる(ような気がする)。そして彼女たちは刀剣の知識もたいへんに詳しい(ような気がする)。

そのうえサポートも素晴らしい。「山鳥毛」が瀬戸内市の所有になった話には本当に驚いた。寄付だけで9億円近くが集まったそうである。うーん,ひと昔前では考えられない。

本当に刀剣関係の人たちにとっては「刀剣乱舞」は大きな変革だったに違いない。大きなメリットとそしていくらかのデメリットもあっただろうけれど,刀剣に興味が集まるのは私はうれしく思う。



人への話しかけかた

 私は少なくない頻度で,見も知らない人に話しかけることがある。もちろん一番多いのは,学生相手だけれど,街中でも知らない人と会話を始めることが結構な頻度である。 街中では話しかけられて会話が始まることが多いけれど,学内では学生に私から話しかけることが多い。他愛のない話をするのである...